VOL.16 EMMA side  

水面 ゆらゆら。
揺れる波が、涙でぼやけた。

海水は、涙と同じ味。
この、大量の、身を切るような冷たい涙に、俺はもう少しで溶けてしまえる。

水に沈む。
涙に沈む。
暗闇に沈む。

暗闇は、今度こそ、
何もかもを押し流す力で
醜い俺に、安息の時を運んでくれるだろう…。










オレンジ色の、仄かな光が、
呼吸の動作で強くなり、また闇に沈んだ。

………吉井………?

……ああ、そうか。
隣に吉井が眠っていないのは、また眠れずにいたからなんだね。
窓辺に凭れて、煙草をふかす、見慣れた長身のシルエット。

少し、遠い。

俺ね、嫌な夢を見てたんだ。
何か酷いことがあって、俺はお前と離れて、一人ぼっちでね。
一人で、海に沈もうとしてたんだよ。

全部夢で良かった。

ここは、夢に出てきた、あの部屋じゃないし、
遠くに波の音が聞こえるっていうことは
きっと、一緒にどこかに出かけてるんだね。

ツアー中だっけ?
よく思い出せない。
だけど、あれは全部夢だった。
だってお前はそこにいるから…………。

吉井
こっち来て。
呼びたいんだけど、声が出ないんだ。
そこに行きたいけど、身体が動かないから。
だから、ね?
吉井…俺、目を覚ましたから。
気付いて、ここに来て…早く抱き締めて。


見つめていると、シルエットが動いた。

ああ、やっぱり気付いてくれた。
こっちに向かってくる。

はやく。
はやく。

この湧き上がってくる不安を、お前の匂いで消してしまって―――――-。



「気がついた?」
掠れた声が、俺の上に降ってきた。
俺は、重い腕を伸ばして、その主に縋りついた。

くらくらする。
なんで?
俺…どうしたんだろう?夢の中の海に、溺れたわけでもないだろうに。

だけど、どうしてもキスしたい。
そうしないと、おかしくなってしまうほど不安なんだ。
変な俺。
全部、何もかも夢なのに。
でも、お前はきっと笑ってくれるね。
ここにいるから、何も心配することはないよ、と。
そして、いつものように、長い指で、俺の汗に濡れた髪を掬い上げてくれるんだ。


軋む身体を持ち上げて、俺は吉井の唇に軽く触れた。
そして、すこし冷たいその唇が、優しく俺の名を呼ぶのを待った。
けれど、いくら待っても待ち望む声が聞こえてこない。
崩れ落ちそうになる俺の身体を、支える為に抱きとめる腕の感触だけ。

「よ…し、…い…?」
掠れた酷い声で、漸く名前を呼んでみる。

「動くなよ。治るものも治らないぞ?」
「…………え?」

漸く発せられたその声は、吉井のものではなかった。
暗闇で、その顔はよく見えない。

「えっと…」
「ん?……ああ…」
戸惑う俺の声に、そいつは思い出したように、ベッドサイドの明かりをつけた。

「おはよう」
「…………………………サトシ……」




吉井じゃない………。



吉井じゃない。
急速に現実に引き戻されていく。


そうだ。
ここは…サトシの家だっけ。


……都合のいい妄想だったわけだ。結局。
そうだよね。あれが…全てが夢だったわけがない。
きっともう二度と、吉井はあんな風に俺を許したりしないだろう。

そして、ヒーセや英二だって、もう何もかも知ってしまったかもしれない。
英二…心配してるだろうか。

『約束して、絶対帰ってくるって!』

最後に聞いた、英二の悲鳴みたいな声が耳に蘇ってきた。

俺は、ぼんやりと、一週間前の、あの夜のことを思い返した。












吉井と暮らした部屋を飛び出した俺は、遠くに行こうと
それしか考えてなかった。

外国…何処に行くにしても、パスポートを取りに行かなきゃ…。
既に真夜中だった。
家に戻っても、両親が起きている心配はない。

案の定、家の中は静まり返っていて
俺は急いで部屋に入った。
数ヶ月ぶりの自分の部屋は、出かけたときと同じ表情で俺を迎えた。

ライブにいく為に出かけて、まさかこんなに長く留守にするとはね。
こんなときなのに、ふと苦笑が洩れた。
ここにいれば…なんだか全部、嘘みたいに感じる。
俺の長い物思いも、吉井との暮らしも。
明日はまた普通に仕事にでかけて、
少し疲れた感覚を伴った、軽い関係が繰り返されるような気が。

「……っ…」

苦笑は、すぐに涙に変わった。

もう戻れない。
この先、どんなふうに転んでも、あの関係にはもう戻れない。
吉井と暮らした時間たちがそうさせるのではなく、
こうも育ってしまった慕情は、もうあんなふうに自分を誤魔化すことはできないから。

………?

感傷の中、振り切るように開けた引出しに、パスポートが、無い。
どこか別の場所に仕舞った?いや、そんな筈は…

「パスポートなら、そこには無いよ」

不意に背後から声をかけられて、俺はびくりと身を竦ませた。


「英二…なんでここに…」



「パスポート。
 俺が持ってるから、そこには無いよ。
 兄貴が自分の意志で隠れてるんなら、そのうち取りに来るかもしれないと思って」
「……英…二…」
「どこ行ってたの?…どこに行く気だよ、兄貴」

何も言えなかった。
ただ、一瞬どうしようも無く腹が立った。

何も知らないくせに。
俺の気持ちなんて、お前、何も知らないくせに。
なんでそんな見透かしたようなこと言うんだよ。
どこに行くかなんて…そんなことわかんない。
とりあえず、今はここに居たくない―――――居られないんだよ!
そっとしておいて欲しい。
誰にも会いたくない。

本当は…俺なんて、消してしまいたいんだよ!

感情は、取り止めもなく湧いてくるのに、何一つ言葉にはならなかった。
いや、本当はその感情さえも、
苛立ちと、後悔と、そして迷いが入り混じって
俺の中で暴れたまま、言葉になれるほど整理できてたわけではなかった。

俺は何も言わずに、部屋を出ようと英二の横をすり抜けた。
――――すり抜けようとした。

その時、英二の手が、俺の腕を掴んだ。

「……痛……!」

驚くほどの強い力だった。

「吉井?吉井のせい?吉井と、なんかあったんだろ?
 アイツさ、事務所とかで顔合わせても、絶対俺の目を見ないんだよ。
 兄貴と連絡取れないから、俺やヒーセも心配してて
 吉井に『兄貴がどこにいるか知らない?』って聞いても
 『知らない』としか言わないで、…だけどうろたえもしないんだよ。
 何ヶ月も音信不通だって言っても、心底慌てもしない。
 おかしいと思うだろ?誰だって。
 ………まして、兄貴のことだよ?
 あいつ、バレてないと思ってるかもしんないけど、
 吉井がかんでることなんて、とっくに判ってたよ!
 吉井に何かされたの?
 吉井に言われて、帰ってこなかったの?」

「―――-やめろよ!」
心配の裏返しか、一気に捲くし立てる英二に、俺は思わず声を荒げた。

「……吉井は、…アイツはなにも悪くなんかない…
 俺が・・ぜんぶ、俺が悪いんだよ。
 悪いけど、今はなにも…言えない。言いたくない」
「……兄貴……」

新しい涙が溢れてきた。
そしてそれは、あっという間に嗚咽に変わった。
そんな俺を、英二はふわりと抱き締めた。
暖かい体温は、俺を少し落ち着かせたけれど、
同時に身体に残った、吉井の気配が消されてしまうような気がして切なかった。

「何も、心配しなくていいから…」
英二の言葉は、逆に刃になって、そんな俺の心臓を突き刺す。

俺の我侭は、吉井だけじゃなく、英二もヒーセも傷つけてる。
判りきってたことなのに
俺は…悪いけど、この数ヶ月、お前のことなんて思い出しもしなかったんだ。

吉井の瞳。
吉井の腕。
吉井の香り。
声、胸、背中、寝顔、言葉、温度、…吉井の心と、俺の気持ち。
馬鹿らしいほど、それだけが世界を満たしてたんだ。

だから、今は。
吉井を責める言葉も、俺への慰めも、何も聞かせないで欲しい。

「俺をひとりにさせて」
長い時間が経ったのか、それとも一瞬だったのか
静寂のあと、漸く俺はそう言った。
ぴくん、と英二の体が強張った。

「………吉井を、お願い……」
「…何、何言ってんだよ!またいなくなるの?
 辛いなら、兄貴がどこにいるかなんて、誰にも言わないから
 ここにいられないの?
 ここが辛いなら、どっかに隠してあげるよ。
 だから―――-兄貴、もう…どこにも………」

「――――――――――ごめん」

抱き締める英二の手を振り切って、俺は部屋を飛び出した。
車に乗り込もうとしたところで、英二は追いついてきて
俺に悲鳴のような声音で叫んだ。

「ほんの少しの間だよね?落ち着いたら、帰ってくるよね?
 それなら、俺…兄貴がいいって言うまで、誰にも居場所なんて言わないから
 だから、約束して、兄貴!絶対帰ってくるって!」

昔、兄弟喧嘩をして飛び出した俺を、泣きながら探す
小さな英二と同じ表情だった。
俺は思わず、「うん」と頷いた。
そんな約束…できるとも限らなかったのに。


それから…実際のところ、2〜3日の記憶は曖昧だ。
思いつくままに車を走らせて、気付くと小さなホテルの部屋でぼんやりしていたり
知らない景色を眺めていたり。

そして、そんなふうにあてもなく入った居酒屋で、思いがけず
幼馴染みのサトシに再会したんだ。

「なにやってんの、英昭。旅行?」
声をかけられて、漸く俺はそこが、子供の頃、サトシが引っ越していったK市であることを思い出した。
「こっち来るんなら、連絡してくれれば良かったのに。
 一人で来てんの?英二は一緒じゃないのか?」
「…うん。ちょっと、ふらっとね」

明るいサトシの声に、俺は久しぶりに微笑んだ。
取り留めのない思い出話や、近況の報告の中、
話題の中の俺は、何の物思いもない、夢を叶えた幸せなギタリストだった。

まだ、こんなふうに誤魔化すんだ、俺。

そんな自己嫌悪が、余計に俺を明るく振舞わせた。

いつの間にか俺たちはグラスを重ね、時間はもう深夜にさしかかっていた。

「サトシ、いいの?こんな時間まで。奥さんとか心配するんじゃないの?」
「ああ、俺ね。
 実は去年離婚してさ、今ひとり暮らし。
 あ、そだ。良かったら俺んトコ来る?暫くこっちにいるんなら、俺んちにいたら?」

何のあてもなかった俺は、そのままサトシの家に転がり込んだ。
去年まで家族があったというその家には
無機質なひんやりとした空気の中に、微妙な生活感を残していた。


一人になりたいと願って飛び出して、けれど思いがけずこうして人と関わって
だけど俺の物思いは、一向に晴れようとしなかった。

サトシは、そんな俺に気付いてはいたらしいが、何も言わなかった。
一度だけ、一緒に飲んでるときに
「昔さ、お前が失恋でもしたときだったかな。こんなふうに俺を訪ねてきたよな。
 また、なんかあったの?」
そう聞いてはきたけれど、曖昧に微笑んだ俺に、それ以上何か聞こうとはしなかった。
俺は次にその話題が出ることに身構えたけれど、翌朝にはサトシは普通に会社に出かけて
その話題はそれっきりになった。

けれどそれ以来、俺には、次第に、サトシに対して明るく振舞うことに対して歪みが生まれてきた。
そして、そうやってサトシと話していても、ふとした沈黙の途中、思い返すのは
吉井のことばかりだった。
…そう。サトシの長身や、煙草に火をつける仕草。
どことなく、吉井に似ていた。
忘れたくても、全身に染み付いた吉井の影は、決して消えようとはしなかったのだ。















「中々帰ってこないから探しに言ったら、英昭、海辺で倒れてるんだもん。
 俺、びっくりしたよ。
 いくらなんでも、泳ぐ季節じゃないぜ?」
声をかけられて我に返った。
目を覚ましたものの、ぼんやりと宙を見つめる俺の頭上を、心配そうな声が滑っていった。


「なんか、飲む?水とか」
「―――ジン」
「ヤバいだろ、それは。熱あるし」
「いいから!ジン!それ、今、サトシが飲んでるヤツでいい」

諦めたように差し出されたグラスを受け取って、一気にあおった。
強い刺激と、喉を通る、焼けるような熱さ。
何より唇と舌先に、ピリピリと痺れる感覚が欲しかった。

………キスを思い出さないように。

「……氷なんか、入れんなよ。薄くなる」
「冷えたほうが美味いだろ」
「……冷えてるより、強いほうがいい……」

サトシは軽く溜息をついた。
それから数杯の強い酒を煽って、俺は崩れるように眠りに落ちた。





夢でだけ、お前に会いたいな、吉井。
目覚めたときに感じた、あの暖かい夢に永遠に入ってしまいたい………。









その記事を見つけたのは、それから更に2週間ほど経ってからだった。
その後も何気ないフリで日常を過ごして
だけど…正直、実は死に場所を探しているような、そんな奇妙な数日だった。

リビングの隅の棚に、隠すように置いてあった
一冊の安っぽいゴシップ誌。
そこには、俺が思いもしない言葉が連なっていた。


   『THE YELLOW MONKEY ギタリスト失踪!』
 


   なにこれ    なんだ?   これ?




吉井と俺の確執?金銭トラブル?
脱退……………解散!?


ちょうど仕事から帰ってきたサトシが、それを見て『しまった』という顔をした。
サトシの顔つきから、サトシがこのことを知って、相当の時間が経っていることを悟った。

「こんな…こんなの…嘘だ………」
「英昭」
「嘘…そんな、ここに書いてあること、全部………!!」
「…判ってるから、ひで………」
「嘘だよ!そりゃ、俺…確かに飛び出してきたけど、なんでこんな…」
「英昭…!」
「みんな、どんなに傷ついてるか…ヒーセや、英二や…
 吉井…吉井が、きっと苦しんでる…吉井が―――――…………!」
半狂乱の俺の肩を、サトシが強く掴んだ。

「判ってるよ!落ち着け!
 ただ、何かあったのは本当だろ?
 話したほうが楽になれるんなら、聞くって言っただけだよ。
 言いたくないなら、言わなくていい。
 だから…頼むから、二度と馬鹿なことはしないと約束するんだ」
「判ってるって、何が判ってるっていうんだよ!
 何も知らないじゃん。
 サトシ、何も知らないじゃん!」
「ああ、知らないよ!お前、何も言わないからな。
 でも俺は…俺にできることは………」

そう言って、サトシはちらりと時計を見た。
夜11時になりかけていた。

「丁度、良かったのかもしれない。英昭がその雑誌を見つけて」
「え?」
「迷ってたんだよ。どうしたらいいか。
 お前には何も知らせないほうがいいのかもしれない。
 何も言わないけど、あんなことして…死のうとしてたのは、誰にだってわかる。
 お前、子供の頃から、表面上は普通にしてるのに
 突発的に感情が溢れ出るとこ、あったじゃん。
 心配だったんだよね、そういうとこ。
 俺、だから、もう…英昭がそんなに苦しむことがあったのなら
 もうそんな辛いところには帰さないで、ずっとここにおいておこうかとも思ったんだ。
 でも…お前がそれを見つけて、俺も決心した。
 このあと、お前がどうするかは、お前が決めなきゃいけない」
「……………なんのこと?」

サトシは俺を見つめ、一瞬だけ辛そうに目を閉じて、
次の瞬間、素早い動作でTVをつけた。

「英昭が、ぜんぶ決めるんだ。
 ………でも、どんな選択をしても、俺はお前の味方だから………」

そして、そう言い残して、静かに部屋を出た。


とり残された俺は、立ち尽くしたまま見るともなくTVから流れる映像を眺めていた。

ありきたりな音楽番組。
俺たちも何度か出たことのある、トークと楽曲で構成された、ありがちな番組。

……まさか?

いや、だけど俺がいない。
THE YELLOW MONKEYとして出演するのは無理なはず。
……それとも?
新しいギタリストでも探したのか?いや、だけどそれにはまだ時間がなさ過ぎる。
誰かがここに出て、何か発表するとでもいうのか?


これが正しい直感なのか、それとも疑心暗鬼や自己嫌悪のなせる業なのか
間もなく下されるのであろう、辛い審判を予感して、俺はこぶしを握り締めた。
明るく展開される番組を苛々と見つめながら。



そして、番組が中盤にさしかかった頃、CM前のテロップに
愛しい名前を認めた。

『このあと、THE YELLOW MONKEY 吉井和哉登場!
 あの噂の真相を激白!?』


にぎやかなCMの音声は、もはや俺の耳には入らなかった。
心臓が、突き破れそうなほど、早鐘を打ってる。

そして数秒後、俺の背中に電流が走った。




ほんの数週間だというのに、もう何年も会っていなかったような気のする恋人が
画面の向こうに、かすかに微笑しながら現れた。

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