VOL19 LAST STAGE  



-LOVIN side-

あの日と同じように、ホールの外には、徐々に人の群れが集まりはじめている。

ただ、暮れ始めた空の色は、あの夏の日とは違う暗い灰色。
それでも独特の楽しそうなオーラを放出して、群集は次第に俺たちのもとに近づいてくる。

俺は控え室の高い窓から視線を外すと、
エマのギターを抱えて蹲った。


・・・どこにいるんだろうな、お前のご主人。


「限界だな」
静かに社長が言った。

「開場まであと2時間だ。
 今日まで待って帰ってこなかったのに、今まで中止を決定できずにいたのは
 明らかにこちらの不手際だ。
 今からでファンやマスコミが納得するかどうか分からないが・・・」

英二とヒーセが、ハッとしたように顔を上げる。

「もう少し・・・待ってください」

喉の奥から絞り出した俺の声は、情けないほどに掠れていた。

「もう少しだけ・・・」

今頃、ここに向かってるかもしれない。
変わらない信号にイライラしながら時計を見てるかもしれないじゃないか。
ただ単に、持ち込む機材にでも迷って遅れてるだけかもしれない。
それとも、もうここに着いていて、今にもドアを開けようと佇んでいるかもしれない。


あのオンエアの日から、俺はずっとそう思いながら暮らしていた。
今日こそ、今夜こそ戻るかもしれない。
ずっと部屋の鍵はかけなかった。
いつも、できるだけ、二人で暮らしたあの部屋にいた。
出かけなければいけないときは
いつ鳴ってもいいように携帯を握り締めて。

毎夜ドアを開けては、誰もいない暗い部屋に落胆しながら・・・。

そして無情な時の流れは、瞬く間に審判の日を運んできた。
――――――エマが戻らないまま。



だけど、今もまだ、俺は待ってる。
ライブを中止してしまったら、今度こそ、本当に巣の扉を閉じてしまうことになる。
ギリギリの1秒まで、俺はそんな決定はできない。

社長が深い溜息をついて、再び椅子にかけると
部屋には張り詰めた沈黙が落ちた。


息苦しさに席を立つ。
部屋を出ても、誰も何も言わなかった。


さすがに今回はトラブルが表に出たこともあって
周りのスタッフたちも腫れ物に触るような気配を滲ませていた。
それが余計に俺の呼吸を苦しくさせる。


少しでもひと気の無い場所を探しているうちに、俺はなんとなくステージのほうに向かった。
すっかり設営も終わったホールは、ライブ前としては異様なほどに人影もまばらだった。


俺に気づいたスタッフたちが、目配せをしてステージから離れた。
気遣いがありがたいような、切ないような
こみ上げる気持ちが、エマの不在による俺の孤独を、一層煽り立てる。


誰もいなくなったステージで、俺は静かに目を閉じた。


ああ・・・もう、いっそ早く時が過ぎればいい。
このままエマが現れなかったとしても、時間は流れ、やがて朝を運んでくるだろう。
それは、バンドにとっても、俺とエマにとっても如何に絶望的な朝日だろう。

その後で、俺たちがどんなに悩んで、苦悩しても
そんなことにはお構いもなく、人々は日常を繰り返す。
俺たちを愛している人たちも、暫くは泣くだろう。
けれど、それも、何度も朝を迎えるうちに
時間の流れや、新しい嗜好と共に色褪せ、やがて何もかもが思い出に変わる。
いつしか記憶の片隅に仕舞い込まれた俺たちは
「こんな人たちもいたね」と、笑いながら思い出されるに過ぎない。

そのとき、俺はどうするのだろうか。
変わることもできずに、身に浴びた愛情の残像を、無様に追い求めるのだろうか。

そのとき、お前はどこにいる・・・・・・?
それでも、俺の隣にいるか?
その時は離れていくのか?
それとも、あの日の別離を境に、俺たちはもう二度と会えないの・・・?


どんなに奮い立たせてみても、俺の脳裏は次第に悲観的に沈んでいく。


俺のメッセージは、エマには届かなかったんだろうか。
英二の話では、エマはあの番組を見たのは間違いないということだった。
それでもここに現れないということは
エマは本当は、俺に愛想を尽かして去って行ったんだろうか。

俺と居たいから、記憶を失ったふりをしていた、というのも誤解で
愛されていると思っているのも、俺のおめでたい幻想で。

だとすると、俺の賭けは最初から、愚かな妄執の成れの果ての茶番だ。

ああ・・・それならば、エマ。

いっそ、あの時、俺の息の根を止めてくれたら良かったのに。
せめて幸せな夢の中で。
まやかしでも、幻覚でも構わないから、おまえを腕に抱いて終わりたかった。
終わらない夢を見て、お前の胸に抱かれて……。






不意に、息が詰まるような気がした。
頭上を極端に冷たい空気が抜けるような違和感。


俺は声を張り上げたくなって、マイクの前に立った。
喉が、ひゅうっと変な音を立てて声にならない。


―――――――――……!

この、感じ …… 。

まざまざと思い出す、忘れられない感覚。

あの夜うなされた、たった一人、ステージに取り残される夢と同じ感覚。
ぐにゃりと歪む視界も、重く崩れ落ちそうな身体も。

ああ、やっぱりあれは正夢だったんだ。

ほら。
こんなふうに
お前を呼んでも、俺はひとり―――――――…


エマ… エマ……… エマ……………………!!


馬鹿だ、俺。
こんな馬鹿、見たことあるか?
能無しのように、ただ愛してると囁く声は、心臓の奥から本当にその言葉を望む魂に届かず
そんなことにも気付かないで、今になって
隣にエマがいないだけで、歌えなくなるなんて。
死にそうになるなんて。


ほら。
もう、呼吸が苦しい。





俺は、自分がもうすぐ気を失うのがわかった。








だから





「・・・・・・吉井・・・?」






その微かな声は







俺の幻聴だと思った。







「・・・・・・吉井・・・」



焦がれてやまない、たったひとつの、愛しい声。
俺を呼ぶ声。


・・・・・・・・・エマ・・・?


ああ、もうこれ以上絶望させないでくれ。
跳ね上がった鼓動に突き動かされるまま振り向いて、幻のエマが消えてしまったら
俺はもう立ち上がれない。

「吉井・・・」

声と共に、静かな足音が背中に近づいてくる。

心臓が、痛い。


嘘だ。
エマがいなくなってから、幾度こんな夢を見たかわからない。
いつも顔が見えなくて、気配だけを感じて
振り返った先には誰もいなかったり、エマの影だけがあったり。
この間はせっかく見つけたエマが、自ら海に呑まれようとする夢も見た。
慌てて抱きしめた体は泡となって消えうせ、目覚めた時、俺の腕はただ自分の涙に濡れていた。

だからきっと。
今度も夢だ。

もう騙されない。
これは、また俺の都合のいい妄想にすぎない。



なのに、どうしてこんなに身体が震えるんだろう。
涙が流れるんだろう。


背中に、少し温度を感じる。
指先が触れそうな気配。


「・・・・・・ただいま」


覚えのある指先が―――触れた。



俺は自分がどうやって振り向いたのかも分からない。
エマの姿さえも見ていない。
気が付いたら、その身体を全身で抱きしめていた。

エマは消えなかった。
何も言わず、俺に抱きしめられるがままになっている。

俺も何か言いたいのに、言葉が出てこない。
エマが消えてしまわないように、その髪を指に絡ませるのが精一杯で。

エマの腕が、そっと動いて、俺の背中に回されようとした・・・・・・そのとき。



「ロビン、社長が本当にもう決断しないとマズイって・・・
 ――――――兄貴!?」

俺を捜しにきた英二が、思わず上げた叫び声に、
僅かに散っていたスタッフが一斉に振り向いた。

エマが慌てて離れる。
英二を振り返った後姿に、俺は漸く本物のエマを見ることができた。





もしも、もしもこれすらも夢ならば
神様――――俺はもう二度と目覚めたくない。






「遅くなってごめん」

その後、エマと交せた言葉はそれだけだった。

再会を愛しむことも、ただ1回のキスも交す時間もないまま
ステージが幕を開けようとしている。

エマはあまりに足りない時間を周囲に詫びつつ、進行を真剣に頭に入れている。
俺は自分のコンディションを整えながら、そんな恋人を見つめていた。


ああ・・・エマだ。
俺の好きな、ギタリストの横顔。
ずっと会いたかった、本当のエマ――――。


その思いは、幕が上がって一層強くなった。
半年以上も合わせてない演奏が、果たして上手くいくのか
リハーサルすら満足にできていない状態だったことを不安にも思ったが
・・・エマのギターは見事だった。
あんなに長い間、ギターに触れもしなかったのに。


俺は、懇親の力を込めて声を上げる。
さっきどうして声が出なかったのかも判らないほど
俺の声は相棒を得て、悦楽を極めた。


エマ。
俺があのとき、本当のエマに会いたいと思ったのは
やっぱり間違いじゃなかった。
一緒に暮らしていた時間、エマの記憶があったのかどうかなんて
それこそどうでもいいことだったんだ。
お前の指がその6本の弦を操って、俺の声と溶け合うとき
お前の見せる真剣な、そして恍惚とした横顔を、俺は宝物のように大切に思ってる。
ただ甘やかに寄り添うだけの恋人として傍にいるのを望んでいないってことを、
今こそはっきり思い知った。
そして、それは俺のただのエゴじゃないね。
お前もそうだ。
エマ、お前も望んでいない。

俺たちは、極上の宝物をお互いに貪りあえる共犯者だ。

音を奏で
同じ高みを求め
そして、恋をする。

見失ってはいけない。
俺がそれを見失えば、お前が引き戻し
お前があのときのようにその宝物を離そうとしたら
俺はそれに甘んじるだけではいけない。

それは何か説教じみた馬鹿な理屈じゃなくて
最高のエクスタシーを自ら削ってしまうということだ。

エマ。
本当にエマが記憶喪失を装ってたとしてね?
その宝物を手放してまで、ただ一緒にいたいと思ったとしたら
それは、俺だけが悪いのでも、お前だけが悪いのでもない。

俺たちの愚かな選択は、俺たち両方の罪だったんだよ。

この宝物を手放してさえも得られる恍惚を見つけるほどの高みには
俺たちはまだ達していなかったということだ。




エマのギターが、一層激しく鳴いた。



一歩、また一歩。
ゆっくりと俺はエマに近づく。
いつもの挑発的な顔とは少し違って、泣きそうな表情を湛えながら
エマが俺を迎え入れる。


オーディエンスの津波のような悲鳴を浴びながら
俺たちは、隠しきれない本気のキスを交した。







ここが、俺たちの生きる場所だ。
ここで共に生きられるのなら、例えそれが間違った扉だったとしても
俺は迷わずエマの手を引いてそれを開けるだろう。

虚構に満ちたこの世界で
いつかたどり着く、たった一つの真実の楽園を求めて。




-EMMA side-



ライターのカチリという音に、俺は目を開けた。

幾度求められても、どれほど求めても尽きない濃密な夜の温度が
次第に明けていく夜明けの仄かな色に溶けはじめた。

漸く辿り着いた、俺の巣で。

指先で、吉井の頬をなぞる。
吉井が俺の指に、そっとキスをした。

「すぐに帰ってこなかったの、怒ってる?」
「・・・ん」

煙草の香りのする舌先が、指をくすぐった。

「この指で、だいたい判ったよ」
「うん・・・」

血豆だらけの、俺の指。

「弾けなかったんだ。驚くほど。
 半年も触らないで、すぐ弾けるほうが変だよね」
「戻って練習っていうのは、やだったんだ?」
「――――見せたくなかったんだよ。弾けない俺を。
 お前の隣に立つときは、一番の俺でいたかった。
 今日になって、まだ納得できる音が出せないくらいなら、二度と会わない・・・ってね。
 音が出せたのは、ほんと、来る寸前だった」

煙草を揉み消して、吉井は俺を腕に抱きこむと、
肩口にキスしながら、すこし震えた。

「怖かったよ。
 本当に、もう会えないかと思った」
「・・・ごめん。
 でも・・・そうじゃなきゃ、戻れなかったんだ。
 もう二度と見失いたくなかったから。
 自分のことも・・・お前のことも」


会いたい、会いたいと、
それだけを思って車を飛ばしたあの朝。
俺が見つけた、自分の真実。

俺は、吉井に会いたいのだ、ということ。
そして吉井に会わせたいのは、ヒステリックな懸恋に操られたここ半年の俺ではなく、
最高のパートナーとしての、一個の魂であること。

惑乱と焦燥に目が眩んで、俺は俺でなくなっていた。

そんな状態がお前を苦しめる。
そして、失っていた自我が、俺の中で悲鳴をあげるのだ。


「吉井、俺―――お前に言わなきゃいけないことがある・・・」

再び熱を湛え始めた吉井の瞳を、俺はもしかして、初めて正面から見つめたのではないだろうか?
なんの誤魔化しもない、自分自身の瞳で。

「俺、・・・俺ね?
 吉井に嘘をついて――――――――・・・」

言いかけた俺の唇を、吉井の唇が塞いだ。
重なったまま、「言わなくていいよ」と囁いた。

ダメだよ。
ここでまた誤魔化したら、何もかも振り出しに戻ってしまう。
俺は・・・俺は――――――

握り締めた俺の手を解いて、吉井がそれを自分の背中に廻させた。

「吉井、聞いて・・・」
「聞かない」

吉井は無情にも言い放つと、脚を絡めて組み敷いた。

「ついた嘘の告白なんかいらない。
 俺がほしいのは、懺悔じゃない」
「吉井・・・・・・」
「まだ、一度も・・・何年もこうして一緒にいて、一度も聞いてないことがある。
 俺はそれを問いただすのが怖くて、ずっと誤魔化してきた。
 それが本当はいけなかったんだ。
 逃げてた俺も、逃げてたエマもね」

口調は甘やかに囁きながら、けれど吉井は真摯に俺を見据えていた。

「俺が聞きたいのは、エマの本心。
 大人ぶった、冷静な関係なんていらない。
 本音を聞かせて。
 俺はもう、二度と誤魔化さない。
 俺は、エマ。
 お前を――――――――」

「愛してるよ」

吉井の言葉を遮って、俺の口からは信じられないほど自然にその言葉が出ていた。
言いたくて、言ってしまいたくて
何年も苦しんできたのが嘘のように。

「愛してる、吉井。
 ずっと、ずっと・・・愛してきた。
 誤魔化すのは、俺ももうやだ。
 愛してる。
 愛してる、吉井―――――。
 絶対に、この気持ちを認めないと思ってきた。
 でも、俺に判るのはそれだけで・・・愛してる、それだけで・・・」

「エマ――――――・・・・・・」

言葉が、新しい波をつれてくる。
伝えきれない想いが、体温になって吉井に流れる。

吉井は、そんな俺を掻き抱いて。

何度も
何度も

「愛してる」

と、囁いた。




end 2001.12.28.

後記へ