vol 3. -LOVIN side- |
心地よいトリップに包まれた。 恍惚が足元から這い登ってくる。 昨夜うなされた夢を覆すかのように、最終日のステージが終盤を迎えようとしていた。 バックステージ。 ホールからはアンコールの声。 「エマさん・・・」 「ん?」 小さく呼ぶと、肩口で佇むエマが見上げる。 「今日さ、凄く調子いいんだ」 「そうみたいだね。声がよく伸びてる。」 「解る?エマさんのおかげかも」 「・・・?・・・なんで?」 怪訝な顔。 こうやってお前が側にいてくれることが、 俺の最高の癒しになっていることに一向に気付いてくれない。 少し笑って、返事のかわりにエマの細い腰に手をまわした。 いつものことなので、周囲の人々も一向に気にしない。 エマも抗いもせず身を預け、体温が俺の掌に伝わる。 この体温に包まれて、不安を曝け出して解き放ったのは、昨夜のこと。 目覚めてすぐに、愛しさに駆り立てられて貪ったのは、つい今朝ほどのこと。 昨夜発作のように襲ってきた、押しつぶされそうだった不安を、 エマが全身で浄化してくれたのだ、ということを伝えたいと思いながら、 薄闇に仄めくエマの白い横顔を見下ろし、俺は「そのこと」を考えた。 時折あんな風に襲ってくる不安のこと。 沢山の熱狂的な愛情に包まれながら、でもそれは 砂上の楼閣のように脆く、あまりにも不確かなものであるということ。 こうやって俺たちを呼びながら、 ここにいる何万人かにとって、それでも唯一の存在では、決してありえないということ。 それを望んでいる訳ではないけれど、 それらの不確かな愛情たちは、俺のたった一つの言葉の選び間違いや、 ちょっとした音の選び間違いで、いとも簡単に消えうせてしまう可能性が・・・・限りなく大きい。 そして、その愛情たちを失わないために・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 思想は単純で、望みはとても無邪気なのに、 現実はもっと窮屈に俺の首を締める。 音楽と、それによって得られる愛情を秤にかけて 本当はどちらの方が重いんだろう? そんな俺の痛みは、他の誰にも癒せはしない。 同じ苦しみを、同じスタンスで抱いて、 そこから生まれる悦楽に、共に酔いしれることのできる・・・お前。 しかも、それだけではない。 まるで当たり前のように惹かれあって、心ごと、身体ごと愛し合えるお前以外に。 エマさんは俺をどう思ってる? 俺と同じように惹かれ、愛してる? 「あと2分で出でーす!」 スタッフの声に呼び戻される。瞬時に、傍らのエマの顔つきが 恋人のそれから、ギタリストに変わった。 エマのこの顔が好きだ。 10年以上側にいてさえ、見飽きることの無い横顔。 そして10年も、俺はお前に欲情しつづけているんだな・・・。 ステージにライトが点され、 エマの胸元のペンダントが、キラリと反射した。 あ・・・それ・・・・俺があげたヤツだ。 暗いバックステージでは気付かなかった。 今でも覚えてる。 あれは・・・初めてエマと寝た夜――――――― お互いに、惹かれあっていたことはとっくに解っていたのに、 踏み出せないでいた、長い葛藤にケリをつけた日。 エマが、まだ荒い息を弾ませたままの俺の胸にあった小さな銀のペンダントを、 初めて見る程の甘やかな表情で弄っていたのが嬉しくて、 すぐさま外してエマの首にかけてやった。 暫くは気に入ってしてたのに、飽きたのかいつの間にかしなくなって、 ここ数年は見かけなかったから、もう失くしたのかと思ってた。 懐かしさに目を細めながら、 ひときわ高まった歓声に一歩踏み出そうとしたとき、エマに袖口を掴まれ振り向いた。 「・・・エマさん・・・?」 そこには、何か言いた気な・・・・何故か、少しだけ淋しそうな気色を刷いた恋人の表情があった。 「吉井、あのさ・・・」 言いかけたエマの言葉を、歓声が遮る。 既にアニーがステージに踏み出していた。 少し焦りながら、表情でエマを促したが、エマはそれ以上何も言わずに、 俺の首に腕を回し――――――― 素早くキスをした。 舌先を軽く差し入れた、甘えるようなキス。 意外なエマの行動に驚いて、抱き返すことさえできないでいるうちに、 唇は離れた。 アニーが、出遅れてる俺たちに気付いて振り返る。 エマが、それを合図に光に入った。 こんなことは初めてだった。 後に、このキスを想い、抱えきれない後悔の念に、 七転八倒の苦しみを味わうことになるのだが・・・・・・ このときの俺は、そんなエマを少し意外にも思いながら、 けれど、さして気にもとめず、 最高の形でツアーを締めくくるべく、ステージに君臨した。 一瞬だけ、例の悪夢が脳裏をよぎったが、それは湧き上がる興奮に掻き消され、 夢の中のように俺を苦しめることはなかった。 音にまみれ、思う様に表現する快感に陶酔する。 ギターが切ないほどに俺をせめぎたてた。 俺が操った言葉を、その音に乗せて、お前の心臓につきたてたい。 このライブが終わったら、真っ先にエマさんに「愛してる」と言おう。 どうしてかこのところ、沸きあがって仕方の無いこの愛情を、エマさんに正直に伝えてみたい。 PM9:20――――― 予定を少しだけオーバーして、200X年、夏のツアーは幕を閉じた。 その日のライブが、俺たち2人にとって、とてつもなく大きな意味を持っていたことも知らずに。 幸福というものは、 何によるものか? そのとき、俺は確かに言いようのない幸せに抱かれていた。 AM1:30 それは、思ってもみない、正に悪夢だった。 慌てて踏んだブレーキの音が空しく響き、衝撃と共に、周囲の全ての音を無くした。 ウインドグラスの向こう、羽根のようにふわりと舞い上がったその身体は、 恐ろしくゆっくりと地面に落ちた。 弾かれたように運転席から降り、走り寄る。 「・・・っ!! エマさんっ!!」 抱きかかえながら名を叫ぶ。 だが、気を失って、その瞳は開かない。 その夜から、俺の罪は始まった。 |
NEXT |