vol.5 -EMMA side- |
薄闇に閉ざされた夢に漂った。 音の篭ったざわめきが、どうしても目を開けられない俺を包む。 深酒の後に似た陶酔感。 快感に打ちのめされたままの足腰。 ああ 今、最高のライブを終えたんだ。 ギター、手入れしとかないと。 あれ?どこに置いたっけ? 手探りで、あたりを弄る。 「エマ・・・」 誰か呼んでる。 早くしないと置いていかれてしまう。 このライブハウスは、楽屋に長居するとうるさいんだ・・・ 俺の、ギター? 「エマ」 解ってる。今行く。 すぐ行くよ、・・・と、名前を呼び返そうとして 俺は不意に言葉を失った。 えっと・・・誰だ? よく馴染んだ声の主がわからない。 今ライブを終えたんだ。 だからきっと、バンドの誰かだ。 「・・・・」 俺を呼んでた声が遠ざかる。 いやだ、置いていかないで! もっと俺の名前を呼んで!! がくん、と衝撃を受けて、俺は薄闇から助け出された。 医師と見える老人と、涙でぐしゃぐしゃになった男の顔が目に入った。 病院特有の匂いと気配が、だんだん事故にあった事実を思い出させる。 「エマ・・・・!!」 泣いていた男が、俺の目覚めに気付いて 凄い勢いで抱きついてきた。 慌てて医者に引き剥がされる。 老医師は、計器類と俺の身体を診ながら「どこも痛まないか」と穏やかに聞いた。 足と、腕が痛いと答えると、 その箇所を診察した。 「幸い骨折はしていない。頭も打ったようだが、脳波にも異常はないな。 心配なら、明日にでもCTを受けておくか? まず問題ないと思うが」 そこまで言うと、医師は泣きじゃくる男を振り返り、 「そういうことだ。意識が戻ったから、まず心配あるまい。 騒ぎになるといかんので、どこにも連絡していないから あとはお前の良いようにしろ。 ただ、今夜は念のため、泊まっていくんだな」 男は、神妙に医師の言葉を受け取ると、図体に似合わない 蚊の鳴くような声で礼を言った。 医師は彼の肩を2・3度叩くと、看護婦を伴って病室を出て行った。 それを見届けると、彼はベッドの前に跪き、 俺の手を取って唇に押し当て、「ごめん」と呟いた。 その仕草で、俺は、彼が単なる事故の加害者でないことを知った。 えっと・・・・知り合い・・・だっけ? 金髪に彩られた、目鼻立ちのしっかりした顔。 癖のある声、大きな手。 確かに知ってるような気がする・・・。 でも――――――――――――――誰? まさか、俺、 事故で記憶喪失にでもなったのか? ちょっと気になって、記憶をたどってみた。 俺は・・・菊地英昭だ。夢で見た、「エマ」という名前は ギタリストとしてのステージネームで・・・ そう、俺はギタリストだ。間違いない。 弟に英二・・・アニーっていうドラマーがいて、 所属しているバンドの名前は――――――― 名前――――は? キラーメイは、随分昔に解散した。 今は? 思い出せない自分に、愕然とした。 記憶喪失? そんな、途方も無く現実味のない言葉が、 一瞬にして、水を浴びせたように、俺の体温を奪う。 彼が、俺の態度に気付いた。 「どうしたの?エマさん・・・震えてる・・・寒い?」 大きな手が、抱きしめてきた。 警戒心と、恐怖感が、その手を払いのけた。 「エマさん?」 怪訝な声。 「・・・!!」 この声には憶えがある。怪訝に名を呼ばれたときの――――― その、絶望感。 なに? このいたみはなに? このひとは、おれのなに? いたいのは。 しんぞうがいたいのは このひとのせい? そもそも、このひとは・・・・・・ 「誰?」 思わず、声に出した。 「―――――――!!」 男は、それを聞き取った。 聞き取って、 もはや滑稽なほどに取り乱した。 そして、半狂乱で様々まくしたてたが、 まるでサイレント・ムビーみたいに、音は 俺の耳に届かなかった。 「エマさん!? どうして俺がわからないの? 吉井だよ!? エマさんの―――――――――――――」 最後に悲鳴のように叫んだ言葉を途中で遮り、 そのまま黙り込んだ。 そして、俺の手を痛いほど握りしめた。 その顔は蒼白で、俺は一瞬、殺されるんじゃないかと思ったが、 やがてヨシイは悲しそうに顔を歪ませると、 長い沈黙に耐えかねたように、病室を出て行った。 その姿が、ヨシイにとって 俺が大事な存在だったことを思い知らされるようで、 なのにどうしても思い出せない自分がもどかしくて、 俺は、自分がとても酷いことをしているような気がした。 でも、わからないんだ・・・・。 常識的なこと、家族のこと、 遠い過去… そんなことは「知っていること」として、簡単に認識できるのに、 ヨシイと云う男のに関することだけが、どうしても思い出せない。 だけど、ヨシイが嘘をついていないのは確かだ。 なぜなら、いくら考えても ここ数年間、何をしていたかが思い出せないから。 病室の隅にギターケース。 左手の指の皮膚が固いのは、 きっと今もギターを弾いているから。 そのとき、 ステージで聞こえる歓声が耳に蘇った。 同時に、激しく歌う吉井の姿が、ゆらりと揺れた。 俺は慌ててそのイメージを追いかけようとしたけど、 それは一瞬で消え、再び思考は闇に沈んだ。 「う…」 静かな病室に、声が響く。 自分の声に誘発されて、嗚咽がとめどなく溢れた。 心細い――――― どうなるんだろう? このまま? こんなに不安な状態の俺を、 どうしてヨシイは一人にしておくんだ・・・ このまま、ヨシイがこの部屋に戻ってこなかったらどうしよう ―――――――探しにいかなきゃ… 俺は、ふらつく足をひきずって病室から出た。 事故のせいか、鎮静剤のせいか、足元がおぼつかない。 「ヨシイ…」 少し期待していたが、ドアを出たところに、ヨシイはいなかった。 思い出せない自分を、ヨシイが本当に見限ってしまったのかと 俺はますます不安になる。 「ヨシイっ!!」 叫んだ拍子に足がもつれて、俺はその場に倒れてしまった。 「ヨシイ―――――」 壊れたように、俺はなおもヨシイの名を呼びつづける。 依然、ヨシイのことは解らないけれど、 俺に縋れるのはヨシイだけだと、それはなんだか確信していた。 「――――エマさん!」 廊下の向こうから、蹲る俺を見つけ、ヨシイが駆け寄ってきた。 「どうしたの!?だめじゃないか、まだ起き上がったりしたら!」 「あ…良かった… ヨシイ、いたんだ…」 「―――!? エマさん、俺が解るの!?」 名を呼ばれたことによって、俺の記憶が戻ったのかと、 ヨシイは嬉しそうに問い掛けたが、俺は首を横に振ることしかできなかった。 がっかりしたように、 ヨシイの表情に再び影が差す。 俺は、見捨てられてしまう恐怖に、ヨシイに縋りついた。 「置いていかれたのかと思った…。心細くて、不安で……」 そのとき、憔悴していたヨシイが、 虚をつかれたように表情を動かした。 そして、優しく俺を抱きしめると、 吐息で、「どこにもいかないよ」と囁いた。 促され、肩を貸してもらって病室に戻る。 俺をベッドに戻したヨシイは、傍らの椅子に座ると、 再び俺の手を握り、髪を撫でながら話し出した。 「俺は、エマさんの恋人だよ…」 「…コイビト…?でも、男同士じゃん」 どう見ても男のヨシイが、男の俺の恋人? だけど、疑問を口にしながらも、俺は「やっぱり」と、咄嗟に思った。 不思議と、違和感は感じなかった。 「そうだよ。俺とエマさんは、同じバンドで エマさんはギタリスト、俺はヴォーカリストで…」 「バンドのメンバー?」 「うん、それから、恋人」 それから、ヨシイは俺たちは 凄く愛し合っているんだと教えてくれた。 「でもヨシイ、結婚してるんじゃないの?」 ヨシイの左手に光る指輪。 そういえば、この指輪が俺を苦しめた気が・・・? 「これは…これは、 ただの、指輪だよ。 俺は…エマさんだけを愛して……結婚は――――――――――― 結婚は、していない」 「…そっか…。 恋人なんだったら、どうして俺、ヨシイのこと忘れたりしたんだろ…」 ヨシイは、淋しそうに微笑んだ。 「仕方ないよ… もう一度、ここから俺のこと…愛してくれる…? 俺は、絶対にエマさんの側を離れないし、2度と苦しめたりしない。 俺のこと、忘れてしまったとしても、俺はエマさんを変わらず愛してるよ。 退院したら一緒に暮らそう。ゆっくり時間をかけて、もう一回俺を愛して…」 そう言うと、ゆっくり顔を近づけてきて、 深く、深く口づけた。 煙草と、香水の匂いが鼻腔を掠めた。 このキスは知ってる気がした。 重い腕をヨシイの首に回して、その微かな記憶と安堵を貪るように、 俺も更にキスを求めた。 ああ 吉井が キスしてきたんだ… そのとき浮かんだその感慨を、何故か俺は気にとめず、 甘やかにあやされるままに、眠りに墜ちていった。 やわらかな朝の光に、 目覚めは不思議なほどクリアで、 昨夜の出来事をまざまざと思い出させた。 吉井がベッドに突っ伏して眠っている。 腕、痺れちゃうのに。 腕痺れたら、また「ほら、ジャガー」とか言うのかな? 「・・・・?」 あれ?思い出してる…? 自分に驚きながら、俺は確かめるように自分を探った。 なんで昨夜、こんなことが判らなかったんだ、と思うほどに、 俺の存在も、昨日までの記憶も、見事に戻っていた。 どうやら、一時的なショックだったらしい。 なんであんなことになったんだろう? 昨日あんなにぐちゃぐちゃに悩んでたから? だけど、 そんな疑問以上に俺の心を占めていることがあった。 どうして、昨夜吉井は、『結婚していない』などと言ったのか? 『一緒に暮らそう』と言ったのは、本気なのか? 俺が、記憶ないから保護するような気持ちだったのかな… 「ん… おはよ…」 吉井が目覚めた。返事を返しながら、感じ慣れた憔悴が俺を襲う。 「何か…思い出した?」 吉井が問い掛ける。 俺は、全て思い出したことを告げようと、口を開きかけたが…… 気付いたら、俺は首を横に振っていた。 俺ガ、モシ コノママ ダッタラ、 吉井ハ無条件ニ側ニ 居テクレルンダロウカ 昨夜言ったように、愛されて? その圧倒的な魅力は、残酷に嘘をつかせた。 がっかりして、そして幾許かの安堵を見せて、 吉井は「気にしなくていいよ」と、微笑んだ。 その笑顔を見ながら、俺は自分の選択が 更に俺たちを苦しめるのかもしれないと感じながらも、 返事を覆すことができないでいた |
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