vol. 6 -LOVIN side- |
鍵を開けて、なにひとつ無い部屋に招き入れると、 こどもみたいな澄んだ瞳が不安げに見回した。 合わせて20畳のLDKは、暮れかけた青色。 台風が近づいている所為で激しくなった風が つけたばかりの薄いカーテンを揺らす。 「ここ?」 「うん。エマさんの・・・エマさんと俺の家だよ」 「何もないよ」 そう。広いリビングはフローリングのまま、 家具やクッションのひとつも無い。 他にも部屋がふたつあるが、 もちろんそこにも何も無い。 「これから、ここはエマさんの好きなもので埋めていくんだよ」 当然ながら、エマは不思議そうな顔をした。 俺は、どうして自分がこんな行動をとったのか解らなかった。 家族―――アニーにしたって、 どんなに心配するか知れない。 でもこれしか無いと、それは確信していた。 冷たい床に座り込んだエマの横に腰をおろす。 エマの指が俺に縋ってきた。 ・・・・不安なんだろうな・・・。 俺だって不安だ。 これからどうなるんだろう? 元のエマに戻るかどうかも―――――――解らない。 それに、もし元に戻ったとして、エマは俺を許すだろうか? だけど、 俺は、エマがこんな風にひたすら俺に縋る瞬間を どうしても逃したくなかった。 だから、こんな 犯罪みたいな ことを しようと している。 あのとき、 エマは俺のことが判らなかった。 知らない人を見る目で見た。 怯えていた。 俺は、エマの精神状態を推し量る前に、 自分のショックを吐き出さずにはいられなかった。 何をまくしたてたのか、それすらよく憶えていない。 ただ、エマはガラスみたいな目で俺を見ていた。 それは、無関心に近いような――――――――他人の逆上を傍観する視線だった。 どうして俺はこんなにも、この人の中に入り込めないんだろう? エマが記憶を失っていることも、 理性では解っていても、気持ちでは認めていなかった。 昨夜、確かに繋がっていたと感じた心と心。 握り締めた手は、そのときと同じ体温で、馴染んだ感触を伝えてくるのに。 今思い返せば、それは、 俺の罪悪感の裏返しだったのかもしれない。 事故という形で、エマを傷つけてしまったこと。 その所為でエマが記憶を失ったこと。 そして、それは他の誰でもなく、俺の責任だということ。 だけど、俺を苛めたのは、事故の責任だけではなかった。 ガラスの目―――――――――。 その目に、あながち憶えがなくもなかったからだ。 記憶を失っている今、エマがそんな目で俺を見るのは判る。 でも、なぜだ? 最近エマはよくこんな目をしていなかったか? たとえば………そう、昨夜部屋に行ったとき。 抱けば受け入れた。優しく慈しんでくれた。 だけど、それで愛し合ってると信じていたのは、 もしかして俺の幻想? もしかして、エマは俺を愛していない? ガラスみたいな瞳を前に、俺は一瞬、 エマが記憶を失ったフリをして、俺から離れようとしてるんじゃないかと疑った。 あまりに強く手を握り締めて、エマが痛そうに顔を歪めた。 我に返って、手を離した。 なんだってこんな時に、俺はそんなことを疑うんだ。 そんなことを思いつく自分が、途方もなく醜かった。 病室を逃げた。 ともかく、頭を冷やす必要があった。 病室を逃げたときの気持ちを思い出すと、 数日たった今でも身震いする。 俺はあの瞬間、弱りきったエマを見捨てかけていたのだ。 それも、何の根拠もない妄想で。 黙って俺に抱かれるがままになっているエマに視線を落とす。 こんなにも愛しい。 たとえそれが、数日前までのエマと、中身において違っていたとしても。 事実、あのあと再会したエマは、俺の知っているエマとは別人のようだった。 喫煙所で狂ったように煙草を吹かしていた俺に、 名を呼ぶか細い声が聞こえてきたのは、 俺が病室を去ってから、1時間弱もしたころだっただろうか。 ふらつく足取りで、彷徨いながら、 エマは俺の名前を呼んでいた。 「吉井……」と。 その声は、いつも呼ばれなれた甘い声に他ならなかったが、 聞いたことも無いような悲痛さを孕んでいた。 いくらか俺より小柄とはいえ、 一般的に見れば到底そうは言えないエマが、 まるで女のように華奢に、弱々しく見えた。 期待は裏切られ、エマは何も思い出したわけではなかった。 が―――――――――。 「置いていかれたのかと思った…。心細くて、不安で……」 そう言って、エマはその場に崩れ落ちた。 あの気位の高いエマが、いくら非常の事態の中とはいえ、 俺だけを頼って、まだおぼつかない足取りにも関わらず縋ってきた―――――。 それを見た途端、俺はつい数分前までの自分を殺したかった。 なんてことだ。 俺はいつもエマに「愛してる」と囁きながら、 何をしようとした?何を考えた? 愛情は、体だけには宿らない。 だけど、「記憶」と呼ばれる「心」だけにも宿らない。 エマがエマであるということ。 いや、俺の知る「エマ」ですらなかったとしても、 この人を失う理由にはなりはしない。 さっき言い切れなかった言葉を、エマに伝えた。 「エマさんは俺の恋人だよ」 MCやなんかで、よく口にするその言葉は、 だけどプライベートでは言わなかったかもしれない。 「でも吉井、結婚してるんじゃないの?」 「・・・・・・・・!」 記憶を失ったエマのその疑問は、俺にとって事故以上の衝撃だった。 本当ハ解ッテイタダロウ。 エマハ、ソノコトニ対シテ、 決シテ 平気デハ ナカッタンダヨ。 気持ちのどこかで、そう告げる声があった。 もし――――― もしも、俺のこの直感が間違っていなかったとしたら、 エマのガラスの目の意味も、 時折拒絶するような冷たい壁の意味も説明がつく。 俺は今まで、それはエマのただの気まぐれだと思っていたけれど。 俺は、つき通すことのできない嘘だと知りながら、 事実を歪めた。 「恋人なんだったら、どうして俺、吉井のこと忘れたりしたんだろ…」 それは、エマさん。 貴方が俺を許していないからだ。 さっきみたいに、 俺だけが存在する世界にエマを閉じ込めたい。 それを実行してしまって、 将来ふたりがどんな風に捩れるかもわからないけれど、 エマを満たすには、今はそれだけだと思った。 すべての刺を取り払って、 エマと一から始めたい。 例えばそれは、真実でなかったとしても。 決心はそのときついた。 数日を病院で過ごし、 俺は誰にも内緒の部屋を借りた。 俺の家族には暫く帰らないと告げた。 幸いにもツアー後のオフに入ったので、 俺たちの消息不明は誰にもまだ怪しまれてなかった。 もう完全に暮れてしまった窓から吹き込む風が 更に強さを増し、 腕の中のエマが軽く震えた。 窓を閉めるために離れようとする。 エマはそれさえも許さない。 初めて見る、エマのそういう甘えに、 俺は微笑みながら、抱いたまま窓辺までいざり寄った。 エマの長い髪が乱れる。 暫し窓を閉めるのも忘れ、耳元から露になった首筋に唇を寄せる。 エマは何も言わないけれど、 感じている表情は、今まで幾度となく身体を合わせた中で、最も幸せそうに見えた。 短絡的なことは、重々承知していた。 俺たちは、俺たちの存在を抹消するわけにはいかない。 だけど、今だけは。 この人を俺だけの世界に。 夏がもうすぐ終わろうとしている。 |
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