vol.9 -EMMA side- 

冷たいシーツ。
吉井がいない。

夜明け近い薄藍の空が澄んだ色を部屋に誘う。
空気はもう、冬の色。
夏の終わりから数えて、もはや3ヶ月が過ぎようとしていた。

身じろぎが立てる音は、
孤独の気配を嫌に大きく響かせる。

「よしい・・・」
無駄を承知で名を呼んでみる。
一縷の望みも虚しく、やはり吉井はこの部屋にいない。

これで、もう3日。
ちょっと前から時々外泊するようになっていた吉井は、
遂に何の連絡もなく3日帰ってこなくなった。
俺が眠っている間に出て行ったまま。

当初、何か事故か何かに巻き込まれたのかと思ったが、
よく見ると冷蔵庫には数日ぶんの食料などがストックされてて、
吉井が最初から暫く留守をするつもりだったことがわかった。

「バカだな、俺・・・」
あんな芝居で吉井をいつまでも繋ぎとめられると、本気で思ってたんだろうか。
吉井を追い詰めるだけ追い詰めて、
希薄な一時の幸福に、俺一人で酔っていただけだろう。
やっぱり・・・不変の愛情なんてこの世にはないし、
あの感情男が口にした約束を、
10年拒んできて、たったの三ヶ月で信じていたなんて。

いや、悪いのは俺だ。
吉井は元々人に気を使う。
――――昔はいろいろあったみたいだけど、俺やメンバーに対して
不誠実なことはしてこなかった。
その吉井が、連絡もなしにいなくなって帰ってこない。
それは、それだけ俺が追い詰めてしまったことに他ならない。

俺は、半ば諦めというか・・・覚悟みたいなものを心臓に刻みつけながら、
ひたすらに吉井を待っている。
優しい声で、もう一度「愛している」と言ってもらえる期待を捨てられず。

このまま待ちつづけて、吉井がもしも帰ってこないで・・・。
食料も尽きて、俺はやっぱり外に出ないで
ここで息絶えていたとしたら、吉井はその罪悪感から
一生俺を愛したままでいてくれるかな、とか、
本当はやっぱりなんでもなくて、吉井は不意の用事で出かけてるだけで、
大慌てで帰って来て「エマさんごめんね」って抱きしめてくれるのかな、とか
埒もない考えだけがエンドレスで回る。

こんなふうに3日が過ぎて、目覚めにやっぱり吉井が隣にいなくて
俺は焦燥感に責められ始めた。
軽い眠りでは嫌な夢が繰り返され、
神の助けのように幸せな夢が訪れる。
それは吉井と愛し合う夢だ。
ステージで2人のフィーリングがキレイに合って、
顔を見合わせて微笑む夢も何度も見た。

そして目覚めては酷い絶望に苛まれた。

たった3日はあまりに長く、まるで1年ほども過ぎたように感じられた。
吉井との快楽だけに満たされていた部屋は、気を紛らわせるものには
恵まれていなかった。



「あ・・・」
不意に、その存在を思い出した。
事故から、ずっと電源を切ったままだった俺の携帯。
どうせかかってきても解らないから、という理由で、
下界と隔絶するためにしまいこんだクローゼットの奥から、
携帯を取り出す。

もしかしたら吉井はここに何か連絡してるかもしれない。

何も無くても傷つかないように、と早鐘を打つ心臓を宥めながら、
電源を入れ、メッセージサービスに問い合わせる。
英二や他の人からの、
俺の消息を気遣うメッセージが数本あったが、
俺の望むただ一つの声は、そこには存在しなかった。

ただ――――――

自分以外の声、というものが、
これほどに満たしてくれるものとは思いもしなかった。

俺は強烈な人恋しさに駆られた。

もしも今吉井が帰って来て、俺が電話なんかしているところを見られたら
まずいということは解っているのに、
その衝動が止められなかった。


コール音、5回。
英二は電話に出ずに、虚しく留守電に転送された。


がっかりして、だけど同時にほっとした。
何と説明するというのだ、この状況を。

急激に無用の長物となったちいさな機械をベッドに投げ出すと、
俺は玄関のドアの前に座った。

吉井が帰ってきたら、一瞬でも早く顔を見られるように。
それで・・・
それで許されるなら、少しでも早く、記憶が戻ったと告げよう・・・。
以前の2人に戻れるように。




そして、再び部屋は青くなった。
玄関に座り込んだまま、夕暮れが忍び込んでくる。

「よしい・・・帰って来てよぉ・・・」
嗚咽が流れ出した。
「なんだよ!そばに居てくれるって言ったじゃんか!
 何処行ったんだよ!帰って来て抱きしめてくれよ!
 うそつき!・・・もう・・・大嫌いだ・・・」
ヒステリックに叫んでは、靴やら何やらをドアに投げつけて暴れた。
「吉井!吉井!」
あと一時間もこの感情の中にいたら、気が狂ってしまうんじゃないかと思った。



・・・・・・・・・・・・・・。
金属音。
鍵?

このドアに・・・?

「あ・・・」
小さな呟きと共に、待ち望んだ顔が現れた。
3日間。
何故か吉井もやつれていた。

暴れ乱れた俺の憔悴した姿に、
吉井はそのままかがみこんで、ふわりと抱きしめた。
ファーレンハイトの香りが、
漸く包んでくれる。

「吉井・・・!」
怒りも絶望も流れて、俺は吉井にきつく腕をまわす。
もう離れない。
俺から「愛してる」と言おう。
これ以上嫌われたくないから、
記憶が戻ったと告げよう。

吉井は、ふわりと俺を抱き上げると、薄暗がりのベッドルームに運んだ。

「食べてないでしょ、エマさん。また・・・凄く痩せた」
「・・・食べれなかった」
「・・・うん、ごめんね・・・」

シーツの上にゆっくり降ろして、吉井が隣に寄り添う。
夢・・・?またあの幸せな、残酷な夢だったらどうしよう・・・。

恐怖が少し這い登って、抱きしめるリアルな感触に縋りつく。
「あれ・・・?電話――――」
吉井が投げ出されたままの携帯に気付いた。
「もしかしたら、お前から電話はいるかもって・・・」
「あ・・・そっか・・・。へへ、俺一瞬
 エマさんの記憶が戻ったのかと思った」

水を浴びたように体温が引いた。
今しか・・・ない。

「吉井・・・あの・・・」
カラカラに乾いた口を開いて、遂に打ち明けようとしたそのとき

吉井の唇にふさがれた。

「無理しなくていいから。
 俺・・・ほんとはね・・・逃げかけてたんだ。
 誤解しないでね? 
 自分でこんな目にあわせちゃったのに
 俺・・・本当のエマさんに会いたいって、そんなふうに思っちゃったんだ」

ずきん、と心臓が痛む。
吉井は更に静かに続けた。

「でも、俺もう―――今度こそ本当に覚悟を決めたから。
 留守にしてた3日間、ずっと考えてたんだ。
 それで・・・
 さっきね、社長に本当のこと話してきた。
 英二たちにはまだ言ってないけど、そのうち伝わるだろう。
 もしもエマさんの記憶が戻らなくても、
 エマがギタリストとして復帰できるまで、
 このまま二人だけで居させてくださいって頼んできた」

「吉井――――」

「スコア、全部持ってきたよ。もともとやってた曲だから
 弾き始めたら意外とすぐ勘も戻るかもしれないし。
 この部屋も防音はしっかりしてるから、ここで練習すればいい。
 それで・・・・外にでられるようになったらスタジオ借りてみて
 そのうちメンバーとも合わせて・・・
 ――――-また、ステージで俺の隣に立ってください」

温かい涙にもう俺は声も出なかった。
吉井を強く抱きしめながら、ひたすらに「うん、うん」と頷いた。


ひとしきり抱き合って、
涙でぐちゃぐちゃの頬を拭いながら、吉井が優しく微笑んだ。

「シャワー浴びておいで。ごはん作ってあげるよ」
心身の途方も無い疲労を一気に感じて、俺は素直に従った。

バスルームに向かい、シャツのボタンを外しながら、
すっかり柔らかくなってしまった左手を見遣る。

弾きたい、と、痛切に思った。
今にもギターに飛びついて弾きたい、と。

はやる心を押さえ、シャワーを浴びながら
ふと、記憶が戻っていることを吉井にまだ伝えていないことに気付いた。

これ以上負担はかけられない。
お風呂から出たらすぐに告げよう、と決心した。

熱いお湯が緊張をほぐしてくれる。
温まってシャワーを止めた。

バスルームから出て、穏やかな静けさに踏み入れたとき、
ベッドルームからの音に気付いた。

俺の携帯の着信音。
――――-英二だ!今朝電話したんだった・・・・!

急いでベッドルームに行くと、
吉井がその電話を取っていた。
俺は記憶がないことになっているから、当然の配慮だったのかもしれない・・・・が・・・

『兄貴!どこにいるんだよ!何ヶ月も連絡つかないで
 いきなり電話してくるなんて!」

英二の取り乱した大声は数歩離れた俺にまで届いた。




記憶が無いはずの俺から英二に電話をした、という事実を、
吉井が聞き逃すということはあり得なかった。


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