ここの背景画像は「miho's lovely material」からお借りしました。
![]() |
マリア・レクゼンスカ |
ルイ15世は息子の王太子を政治に近づようとはせず、その代わりに寵姫ポンパドゥール夫人とショワズールに政治を任せ、親オーストリア政策を取っていました。当然の事ながら、王太子は母マリア・レクゼンスカに付き、反オーストリアの立場を取っていました。
このような事情があったため、ルイ・オーギュストの結婚話が出たときに、ショワズールはオーストリア大公女マリー・アントワネットを推し、王太子側はザクセンの王女を押したわけです。
美男で有名な祖父ルイ15世の美貌は、残念なことに末弟のアルトワ伯だけしか受け継ぎませんでした。
四人の兄弟の性格もいろいろで、ブルゴーニュ公は横柄、ベリー公は鈍感、プロヴァンス伯は利発、アルトワ伯は元気の良さが特徴的でした。
当時のフランスでは、王家の子供達は滅多に両親に会えませんでした。たまに会うとしても公式行事の時に会うくらいで、家族として接することはほとんどなかったのです。
7ヵ月の間、ベリー公は大好きな兄の看病をしましたが、兄は結核のため、1761年の復活祭の朝、夭折しました。
あらゆる面で「生まれながらの王」であったブルゴーニュ公の死は父王太子に大きな打撃を与えました。王太子は父ルイ15世があまりにも杜撰な政治をしていることを知っており、おそらく自分の治世期間だけではフランスを回復できないと思っていましたから、ブルゴーニュ公にフランスの未来を託していたのです。
ブルゴーニュ公をかわいがっていた王太子夫妻やルイ15世の愛情は、なぜかベリー公のところに回って来ず、弟のプロヴァンス伯とアルトワ伯にいきました。人間の感情の不思議な面を見る気がしますが、未来の国王だと言うのに、両親の愛情を受けられなかったベリー公は、ますます内向的に孤独になっていきました。
王太子にさえ、国務から遠ざけたルイ15世です。ベリー公はもちろん、政治とは関係のないところにいました。
しかし、王太子は子供達の教育をより密接に監督し、来るべき将来に備えました。自らも毎週水曜日にと土曜日に子供達に試験を行って、学習の進み具合を監視したのです。
H13.6.11.UP
![]() |
![]() |
|
ルイ16世のトップへ |
![]() |
小部屋のトップへ |