JH2CLV's Topics & Memorandam
February 2023

Feb 27 汁見谷の不知火収穫…貯蔵庫の青島大玉
写真は貯蔵庫のモロブタへ収容した不知火(デコポン)。2月26日と27日の空き時間に汁見谷へ赴き収穫したモノだ。デコポンは不知火の糖度が13度以上あって、一定の条件を満たしたモノ。品種名ではなく商品名でJA熊本果実連が所有する登録商標。なので静岡ではデコポンの名前は使えず品種名の不知火で取り扱かわれている。清見とポンカンの交配なので、実はこれ、はるみと同じ親だ。したがって不知火とはるみは兄弟ってことになる。不知火(デコポン)は軸部分の出っ張りが売りになっているが、はるみでも似たように育つ。また不知火でも出っ張りの無い果ができる。昨年7月より管理している汁見谷のミカン畑には、5本程の不知火がある。既に10年生程の大きさになっている。農薬散布と施肥は行っていたが、余りその気で管理はしていなかった。ところが収穫を始めると、枝の被さりや樹内での交差がスゴイ。見通しが悪く光や風も通らない。まるでジャングルだ。そして気付くと剪定作業が始まっていた。足元には相当量の枝が散乱することになった。これで陽当たりが改善され農薬や風の通りも良くなった。来期がどうなるか楽しみだ。
ところでオンマウスは貯蔵庫に残っている青島の大玉。3ヶ月近い貯蔵により、独特の味に仕上がっている。

Feb 24 選果場荷愚口当番と伊野草刈…河津桜満開
24日は共選場の荷口検査当番日だ。8時から荷受け開始なのに、7時半に赴くと既に順番待ちで2名の方が待っていた。こちらがOKでも、フォークリフトのオペレータが居ないと荷が動かせないので、彼らの準備が整うまでは荷受け出来ない。それでも予定より早く、7時45分位には荷受けが始まった。今日の荷受けは青島とはるみ、そして青島果汁。1月のピーク時に比べ荷が減っているので、2月の荷受けは午前中で終了する。顔見知りの農家も多く、栽培方法や貯蔵方法等、技術的な情報収集の場でもある。目揃え会を行い、家庭選果のレベルを合わせている筈なのに、集荷した荷を診るとバラバラで面白い。果汁に至っては、生食で十分通用する荷が有ったりする。結局のところ、選果作業をする時間や余力がなく、在庫を置いても腐敗するだけだから、安くても処分できる道を選ぶ人も少なくないと言うことだろう。食料や経営として考えた時にチト疑問符が付く。
12時過ぎに共選場を後にして自宅で昼食を取ると、伊野に運び込まれた大量の堆肥が気になった。そしてポンカンの根元に群生する雑草。そのまま堆肥を入れる訳にも行かず、実は前日23日より草刈りを始めていた。伊野は1反程度の面積で凡そ100本の太田ポンカンが植えてある。除草剤を使わず、春先に草を刈り堆肥を入れ、その後は春・夏・冬に施肥している。写真の左手前は草刈前の草の様子。右奥は既に刈られた状態。オンマウスは自宅南端の河津桜。奥にアンテナとタワーが見える。もう春の様相だ。

Feb 21-22 はるみLサイズ以下の選果と出荷
清水いはらフェスの後知らぬ間に2月に突入し、このところ曜日の感覚すら可笑しい。要するに相変わらずの多忙感に包まれている。22日は確かはるみのLサイズ以下の出荷があるなぁと気付いたのがその前々日の20日。一人で貯蔵庫のサンルーム(熟成室)に積んであるはるみの木箱からLサイズ以下でJA出荷基準に合う果を取り出し始めた。始めたのが遅く、この日だけでようやく20kgコンテナに5杯。割当の1/4にも満たない。翌21日は、明日が出荷だから心配になったのだろうか、カミサンがやってきて2名体制になった。彼女はやたらと仕切りたがる癖があり、途中からどちらが主宰者だか分からなくなる。手を休めることが嫌いと見えて、悩みもせずせっせと選果を進める…大したもんだ。自分はボーダーライン上の判断に迷うことがしょっちゅうだが、彼女は余り気にしない模様で、これも能力なのかと思ったりする。そんなわけで午前中に割り当ての24杯がほぼ完了した。また今月初めに選果落ちした色付きの悪かった2L以上果も、この時期になると色が来て実が締るため、Lサイズとして拾い出し出荷に当てる。一晩寝かし、22日朝8時過ぎに軽トラへ積み込み、10時の出荷に合わせて自宅を出発した。はるみは、糖度がそんなに高くなくても、どの果を食べてもべた付かない爽やかな甘みが楽しめる。兄弟種なのに不知火(デコポン)とはまるで違う味だ。この出荷が来月初めまである。それが終るといよいよワケアリ頒布が始まる。

Feb 21 占領下時代のコールサインの続報
友人のJK2VOC福田氏が、2月17日の占領下時代のQSLカードの行を見て、メールを送って来た。色々調べてWebサイトで紹介されているJJ1WTL本橋氏のサイトへの案内が記されていた。早々に訪ねてみると、自分が知りたかったその時代のコールサイン情報が事細かく記されていた。早々に本橋氏へメールを送ると、その日の内に返信があり、過去CQ誌に3回に渡り関係する記事が掲載されたことが記されていた。CQ誌は1985年以降は欠かさず購入して来たのにお恥ずかしい限りだった。アンカバだと思っていたJA#$$コールは、申請者のイニシャルから取ったモノが殆どと思われ、免許は占領軍司令部から下りているようだ。そして日本でアマチュア無線が解禁される1952年までに、いわゆるKAプリフィックスへ移行されたそうだ。また#部分のエリアは現在と異なり、2は関東になっていた。JA2DKは私書箱から判断して厚木だろうと本橋氏の弁。その他興味ある情報やJA当該OMのサイト(BLOG)へもリンクされている。ただ、OM陣も年代的には90を超えられていると思われ、閉鎖されつながらないサイトもあり、時の経過を感じてしまう。それにしても多くの情報を収集しWebサイトとしてまとめられたJJ1WTL本橋氏の努力には敬意を表したい。ちなみにCQ誌の掲載は、@JA5RGについてのカラー記事(1999年9月号)、A連載コールサイン百年の旅(2006年9月号〜2007年2月号)、B日本のアマチュア局のコールサインの変遷(2013年9月号付録)とメールに記されていた。

Feb 20 さらばインターネットエクスプローラ…ミカンの剪定講習会
2月20日の晩、IE11(インターネットエクスプローラ)を起動しようとアイコンをクリック。するとPC画面にいきなり「IE11は終了しました」とメッセージ。何てこったぁ!と思っていると、画面は新しいブラウザ「Edge」に切り替わった。それ以降、IE11のアイコンをクリックしてもEdgeでしか起動しなくなった。いよいよかと思ったが遂にその時がやって来たのだ。ただEdge設定でIE互換モードにするとIEもどきの表示が出来る。完全におさらばしたわけでもない。どうしてIEに拘っているかって?…そりゃ四半世紀近い昔、IE3かIE4時代に作成したHTMLファイルがHPサーバーに一杯あるから。IEでないと表示が可笑しくなったり動かなかったりすることがあるのだ。もう止めとけよと言われそうだが、多分死ぬまで併用するんじゃないかと思う。例えば、古いHTMLファイルに書いたTAGの「onmouse」制御が、IEの終わり頃や今のEdgeでは反応しない。このため、onmouseした時に写真が切り替わらない不具合が発生する。古いHTMLを書き換える元気は今のところないが、自分が参考のために見ようとすると困るので、果たしてどうしたモノかと思っている。ネット上はインターネットエクスプローラを振り返る記事で賑わっている。有線電話ModemとWindows95の時代からのお付き合いで懐かしさが込み上げてくる。左は、IEとEdgeのツーショットロゴ。右の青虫の様なEdgeロゴより左のIEロゴの方が「らしくて」好きだった。
オンマウスは20日午前中に行われたミカンの剪定講習会。地区の柑橘委員の手前、園地依頼などの段取りを行った。

Feb 18-19 SPE/Expert 2K-FAが転がり込む
友人のSPE/2K-FAリニアアンプが動かなくなり、発送したからと17日に連絡があった。18日午前中、ヤマトさんがでかい箱を抱えてきた。30kg近いと言っていた。家業の合間に開梱し状況把握が始まった。Italy製アンプを診るのは初めてのことだ。機構品の作りが丁寧で、ビス孔の勘合もドンピシャでビックリ。そう言えばOlivettiタイプライタを半世紀前に叩いていたが、使い易さは国産品では遠く及ばなかった。フェラーリやアルファロメオ等、車のデザインや色遣いもやっぱ違うなぁと今でも思う。リモートシャックのヤンマーディーゼルも実はMaide in Italyだ。144MHzアンプ作りで友達になったItalyのIK0SMG/Pinoは、私のGU-74Bアンプを模倣していたが、出来栄えは彼に軍配だった。彼等には独特のセンスや器用さがあるのだ。2K-FAの印象は、良く出来ていて業務機を思わせる造りだった。アマチュア機に散見されるカットアンドトライ痕、妙な再ハンダや強引なビス締めが無いのだ。
さてその不具合、調べると+48V電源出力がない。SW電源(48V/62.5A/3kW)を外部制御している。OPERATEで出力ON、POWERで電力制御(Max/48V-Mid/35V-Low/30V)を行う。制御信号(12V)は来ているので電源不良を疑い、外部電源(自作Amp)からケーブルで供給(オンマウス)すると動作を始めた。それではと、元の状態へ戻してみると何と電源出力は正常になっていた。多少理解不足や前後関係が曖昧なところがあるが…。一番影響していると思われるのは、制御コネクタ2個の抜き差しを2回ずつ行っていること位。コネクタはコーキング材で固めてあったものを取り外している。何らかの接触不良が無かったとは言えない。その後の通電とRFドライブは正常で、僅か一泊で依頼主へ発送することになった。

Feb 17 JA2DK 2枚のQSLカード
昨年ネットサーフィン中に米国のサイトで昔のQSLカードを販売するページを見た。そしてそのコールサインがJA2DKとありビックリ。交信データは29/Mar/1951/CW/14Mcと読み取れた。画像がそのカードのコピー。運用地を思わせる富士山の写真とHR IN JA LANDの記入、そしてQTHは米国CALIFとある。1951年はJAでアマチュア無線が解禁される前だから、進駐軍関係者による運用と思われる。名前はDONALD E.KITCHENとあるので、DKは頭文をとったと推測できる。占領下だから米国人ならKAとかのプリフィックスが割り当てられたと思うし、まさか日本国政府が解禁前にこんなコールを与えるとは思えない。無線好きが個人的にアンカバーをやっていたと思うのが妥当なのかも知れない。ローカルのJA2JZ佐野OMは、最初からアンカバーで日本からの運用かどうかも怪しいと言って居られた。そのまま終わるのはチト面白くないので、当のJA2DK深沢OMと昨日連絡をとった。OMは既に95。我々の大先輩で無線の先生だった。少年時代に製作した無線機器の数々には、OMの助言が生きている。FAXで送ったカードを見て、直ぐアンカバーだと呟かれた。そして本日ご自宅を訪問し歓談、未記入のQSLカードを頂いてきた。それで何とかカードにデータを記入したくてハンディ機を用意して頂き、自宅に戻ってから430MHzでの交信(Tks JP2YFR)が実現した。オンマウスがそのQSLカードでOMの了解の下記入。OMとは小5からお世話になっているが、無線での交信は今日が初めてだと気付いた。

Feb 15 寿太郎出荷と先代最後のポンカン伐根
親父が30年近く前に植えた太田ポンカンの老木が玄関前の畑にある。何年か前、植えたばかりのゆら早生に目が行っていて、ゴマダラカミキリの産卵を許してしまった。それ以来毎年樹勢が落ち続けていた。昨年12月の収穫時期は、果は生らせているものの、栄養が行き渡らず成長が著しく遅く感じられた。もう潮時で、来年はもう無いなぁと独り呟いていた。そして今日、天候が優ない曇天の朝、寿太郎の出荷を終えて帰宅すると、ミツバチ飼育で親父の弟子だった先輩O氏が来られカミサンとミツバチ談義中だった。それに加わり世間話へ発展して行く内にその老木に手が掛った。孟宗竹のつっかえ棒を外すと既にグラグラ。本当に潮時と思い、枯れる前にと力の限りを尽くして浴びせ倒しにした。そして幹を捻じり樹を引き抜いた。写真はその様子。本来なら円周状に根が張る筈だが、一部が朽ちて無くなり、ほぼ一方方向のみになっている。10年近く前の台風で、収穫前のポンカンの殆どが60度位に傾き、それを戻してつっかえ棒で支えたことがある。それを期に樹勢が落ちほとんどが枯れる運命となったが、この木だけは辛うじて生き続けていた。自分の不注意が無ければ延命出来たことは間違いないので、ちと後ろめたさがある。この園地には昨年までに植え付けたゆら早生が育っている。オンマウスは本日出荷した寿太郎の選果スナップ。僅か6本からの収穫だが出荷量は300kg程度になる。将来は500kg程度は獲りたい。

Feb 14 R-390/PTO vs H-Mode_Mixer(with Analog_SW)
昨年JA2AGP矢澤OMよりR-390AのPTO(オーブン無し)が届いていた。諸作業に追われ無線三昧出来ない小生の状況を気遣ったくれたのだろうか…簡単に無線と実験が出来るPTOなど如何?って具合に。その後半年もほったらかしにしてあったが、相変わらず家業や地元のことを中心とした案件に時間が割かれていた。またJA1VKV田中OMからも同じ頃アナログSWを使ったH-Mode_Mixer基板が届いていた。こいつらをドッキングして、純度の高いPTO出力をMixerへ放り込んだら面白そうだなぁと構想が湧いた。おまけに田中OMは矩形波用と正弦波用の基板を提供してくれた。アナログSWは1か0の制御だが、正弦波だと流通角が狭まるので、これが特性にどう影響するか課題だった。アナログMix(唸り:Beat)時代には想像もしなかった課題だ。
それでちょっとウサ晴らしに、送られてきたPTOを梱包箱から取り出し、Toshibaの通信用6BA6を実装し、実験用電源をつないでみた。電源はヒーターの他PとSg(Reg)が必要だが、今回はテストなのでPとSg電源はパラった。時間は22時頃。と、ところがウンでもスンでもない。6BA6のヒーターは点灯しているし、電極電圧もあり管面は熱くなっておりIpも流れている模様。単純なカソードタップハートレーだから嫌でも発振する筈なのに。工房は寒くこの晩の作業は中止。翌晩カバーを外すとビックリ、コイルのホットエンドリードが配線してない…なんだこりゃ!。つないでみると勢い良く発振、出力は9Vp-p(解放)あった。

Feb 11 県境に積雪…伊野のハッサク収穫
写真は原畑総から望む新丹谷畑総方面で遠方に雪を被った山梨県境付近の山並み。一番右奥が山梨県側の十枚山で、続いて県境の青笹山、更に静岡県側の湯野岳、そして真富士山辺りまで積雪がある。手前の道路は清水いはらICの料金所へ繋がる。10時頃の撮影。オンマウスは、伊野のポンカン畑の西際にあるハッサク。今年は甘夏とう同様で全体に小振りな出来。しかし完熟状態のため、枝へ振動を与えるだけで落下する状況に苦戦。一部にはヘタ落ちも混ざった。取引業者へ頒布案内をしたら早々に注文があり、この日の内に発送となった。

Feb 9 山切わいわい倶楽部に「ふるさと貢献賞」…柑橘生産者大会参加
地元で奉仕活動を続ける山切わいわい倶楽部が、静岡新聞社・静岡放送文化福祉事業団主催の第12回ふるさと貢献賞を受賞した。内容は左の静岡新聞朝刊の通り(クリックすると拡大)。特にやまきり新聞のルーツは、山切青年団時代まで遡り、地元へ何らかの貢献をしたいと願う若者たちの心意気が伝わって来る。地元のイベントや催しに様々な形で貢献し続けている。画像は今月1日、新聞の取材の応じ自治会館に集まったメンバーの一部。テーブルに乗り切らない程の資料があり、やはり継続は力なりを感じさせるが、そうさせている心意気は今も健在だ。今夜は新聞を見ながら祝杯だ。
オンマウスは午後グランシップで行われた静岡県柑橘生産者大会の表彰式の様子。コロナ感染予防対策で3年振りの開催となった。

Feb 8 早朝のミカン配達とFT8モバイル運用…ANTローテータ不具合原因
友人からのリクエストに応え、ワケアリ青島ミカンをコンテナ4杯(約80kg)に入れて富士市を往復した。時間は6時20分に家を発ったが、ブーベ島のペディションが気になり、途中から軽トラのPCを立ち上げてリモートシャックへ接続。発電機を回しWSJT-Xを起動した。R1を走り田子の浦ICを下り下道を走ると40分程で到着する。その間信号待ちの時にディスプレイに目をやる。こんな運用などリモートシャックを始めた7年程前には想像も出来なかった。せいぜい固定地点を結んだリモートしか考えられなかったし、モバイル運用など思いもよらない話だった。それがインターネット網とモバイル端末させあれば、日本国内はもとより世界中からモバイル運用が出来てしまう。恐ろしい話だ。だから最近、DXCCのエンティティ稼ぎやQSLカード集めなど怪しさを感じるようになてしまった。まぁそんなことより、自分で構築したシステムが思い通りに動いて、何処にいてもアマチュア無線運用が出来ることが嬉しい。写真は何処だったか忘れたが、コンビニか何かの駐車場で10MHz/FT8をリモート運用している様子。実はこれ、時間つぶし持って来いで、あれよあれよという間に時間が経過する。Micを握った運用も当然可能だが、目はディスプレイに行き、耳はカーラジオを聴いている。それをミカンを積んだ軽トラからやり、地球の裏側のDX局をゲットする…何とも言えない雰囲気を味わえる。オンマウスは時々CWが回らなくなったリモートシャックのANTローテータのI/Fリレー。よく見ると半田を流してない処があり苦笑…これかぁ。

Feb 5-6 マシン乳剤・液肥散布…青島ワケアリ個配開始
年明けからミカンの選果や出荷と荷口検査当番、そしれ清水いはらフェスの対応等々でやたらと忙しかった。しかし、2月に入ってもはるみの選果や出荷、それに寿太郎の選果と出荷、JA絡みの大会や剪定講習会等々…多忙感は殆ど変わっていない。しかし自然は待ってくれない。年末からの課題だったマシン乳剤の散布を暖かくなった5日に始めた。ところがこれも、一気に片付けたかったのだが所用が多く、1日に600リットルを散布する程度を数日繰り返すことになった。初日の5日は、今期もっともヤノネとルビ等カイガラムシが多かった汁見谷(はるみ・青島)と伊野(太田ポンカン:写真)へマシン乳剤重点的に散布。この際毎回忍ばせる液肥も混合させた。先に汁見谷をこなし、伊野を掛け切る直前、数本を残して農薬切れ。既に日没が近く作業は6日へ継続。そして6日は舞台(早生・スルガエレガント)と寺山(寿太郎)をこなしたら、伊野を忘れていたことに気付き残り数本へ散布。そして田んぼを南側から散布するが、凡そ半分を残して農薬切れと時間切れ。残りは3日目(2月8日)に残すことになった。
5日朝頒布案内を配信したワケアリ青島の注文が250kg程になり、平行して箱詰め(オンマウス)と発送作業に追われている。貯蔵庫のモロブタあら殆どが箱に詰められるのだが、さすがに腐敗果と萎びは外すため1個1個手にして確認するため時間が掛かる。そしてモロブタ毎に味見をして確認する気の入れ様。この時期になると酸味は全く気にならないが、自分で食べたくないと思う味の果も外す様にしている。

Feb 4 ピーターパンフォークフェスティバル
地元でバンド活動をする後輩のY君から、昨日のライブで「ピーターパンフォークフェスティバル」のチラシを見たと、写真に収めた画像ファイルを4日の朝送ってくれた。4月9日(日)静岡の東草深「アイセル21」(生涯学習センター)でライブがあるらしい。"50年の時を超えて〜1回限りの復活祭〜"とサブタイトルが付いている。画像は後日アイセル21を訪ねて頂戴して来たチラシのコピー。オンマウスしてクリックすると拡大する。最上部にはピーターパンフォークフェスティバルとタイトルが記されている。余りにも懐かしかったので、かつてピーターパンの一員だったH氏へ電話を入れるとこの企画をご存じなかった。それではとチラシ画像をメールで送ったら涙もので、即参加申し込みすると返事があった。H氏は1976年6月26日に行われたピーターパンフォークフェスティバルの仕掛け人で、オンマウスはその時のポスター。ポスターはH氏の後輩W氏がデザインしたもの。ゲストは今回のチラシにも記されているフォークデュオJUNKのお二人。多忙な中駆けつけてくれ、演奏終了と同時に会場の県民会館を後にされた。翌日の仕事先である鳥取へ向かわれたのだ。そのコンサートは自前のオール自作のミキサーとパワーアンプ、そしてスピーカーで対応、今では考えられない仕掛けだが、とにかく懐かしい。この1976年のコンサートが縁で、JUNKの小川ロンさんとは手紙でのやり取りが一時続いていた。彼は携帯やメールを当時やらなかったので…。そしてもう一方の金海さん、訃報をチラシ上で初めて知りビックリ。上足洗でK-Musicを興され、小川ロンさんのアルバムCDがそこから出ていた。購入時に1976年のコンサートの思い出話をメールに綴ったことがある。2003年と2004年の11月、一晩だけのJUNK復活ライブが鷹匠町の「蔵」であったが、当時は勤務地から遠く駆けつけることが出来なかった。ピーターパン繋がりで色々な人や思い出が脳裏を駆け巡っている…1枚のチラシが何倍にも増幅されて。ちなみに4月9日の申し込みはアイセル21の予約ページで行うことが出来る。

Feb 2 はるみ初出荷…LDMOS破裂写真
ワケアリ太田ポンカンの頒布作業をこなしたらもう2月になっていた。暫くしたらワケアリ青島の頒布案内をしなきゃいけないと思っているが、本日2月2日はるみ2L〜4Lサイズの出荷があった。1月中に2L以上を仕分けて置いたのだが、1ヶ月近く時間が経った昨日の選果は、ギリギリ2Lだった果が軒並みゲージをスルー。おかげでコンテナ16杯予定していた出荷量は半分の8杯になってしまった。まぁ次は2L以下の出荷があるのでそれまでは貯蔵待機と言うことになる。今季は摘果で手を抜いたと言うか落し切れなかった樹が幾つかあり小玉が目立つ。ただ、サイズで選果落ちするとワケアリ頒布へ流れるので、はるみファンの皆さんには喜ばれるハズ。ちなみにはるみのサイズ呼称は温州ミカンより1サイズ違い、はるみのLは温州ミカンの2Lに相当する。
ところで後輩のJA9LSZから破裂したLDMOS-FETの写真が届いた。表面にMRF1K50NとありNXP社製と思われる。SPE社のアンプ(1.3K-FA)で不具合がありItalyまで送って交換したらしい。2系統あるアンプの内の片側のドレイン端子が無くなっている。ひょっとしたらもう片方は生きているのだろうか。プッシュプルでは使えないがシングルで使ったら半分の900Wは期待できるかも知れない。貧乏品のとんだ思い付きだ。それにしても何が原因でこんな状態になるのだろう。保護回路は何を見ていたのだろうか。と疑問が湧いてくる。

Jan 30 清水いはらフェスの余韻…ワケアリ太田ポンカン発送作戦
昨日の夕食は、いはらフェスの話で大いに盛り上がった。カミサンは、地元の知人や子供たちが描いた画を拡大コピーしてパネルを作り、ステージ飾りとして提供してくれた。当初はポスターによる市松模様背景だったが、空きスペースへの画パネル追加で楽しさが倍増。おまけに友人を引き連れてウォークラリーに参加。高山へ登り、庵原の素晴らしさのPRに余念が無かった。スタッフでもない婆さんの奮闘に、何時も下がり気味の頭が更に下がる状況だった。
いはらフェスの余韻が冷めやらぬ30日、先週より注文を頂いていたワケアリ太田ポンカンの個配向け箱詰めと発送に明け暮れた。大玉が多く残っているため、先ず半分まで大玉を詰め、その後小中球を詰めた。大玉を多くすると、箱の蓋が閉まらないので、そのバランスが実は難しい。荷が何時出来るか分からず、佐川急便の引き取り依頼の時限を超えてしまった。結局軽トラに満載して鳥坂の佐川急便へ運び込んだのは17時頃だった。また、富士の友人のところへは、翌31日晩コンテナ配達で80kgを届けたが、一部量が不足したためチョット勇み足だったがはるみの小玉で補充した。由比〜蒲原辺りで何故か雨に遭遇したが、気にしないで突破した。これでワケアリ太田ポンカン凡そ300kgは無事発送完了となった。未だ木箱に1杯程度大玉があるがご希望の向きは連絡をどうぞ。写真は熟成室での箱詰め作業風景。次はここにはるみが運び込まれる。