1189年 (文治5年 己酉)
 
 

10月1日 丁亥
  多賀の国府に於いて、郡・郷・庄園所務の事、條々地頭等に仰せ含めらる。就中国郡
  を費やし土民を煩わすべからざるの由、御旨再三に及ぶ。しかのみならず一紙の張文
  を府廰に置かると。その状に云く、
   庄号の威勢を以て、不肖の道理を押すべからず。国中の事に於いては、秀衡・泰衡
   の先例に任せ、その沙汰を致すべしてえり。
  凡そ奥州御下向の間、鎌倉を御出の日より御還向の今に至るまで、毎日の御羞膳・盃
  酒・御湯殿各々三度、更に御懈怠の儀無しと雖も、遂に以て民庶の費えを成さしめざ
  る所なり。上野・下野両国の乃貢を運送すと。人以て欽仰せざると云うこと莫し。ま
  た河野の四郎通信土器を持たしめ、食事毎度これを用ゆ。榛谷の四郎重朝乗馬を洗う
  事日々怠らず。これ等則ち今度御旅館の間、珍事の由人口在りと。
 

10月2日 戊子
  囚人佐藤庄司・名取郡司・熊野別当等、厚免を蒙り各々本処に帰ると。
 

10月3日 [薩藩旧記]
**源頼朝御教書
  北郷太郎兼秀訴うる弁済使職の事、これにハ子細を知らず候の間、解状をつかハすと
  ころなり、申す所相違なくハ、安堵せさすへし、且つは奥入の御共なんとして、奉公
  ある物なり、あなかしこ、
    十月三日           盛時(奉る)
  宗兵衛の尉殿
 

10月5日 辛卯
  手越の平太家綱と云う者有り。征伐の間御共に候す。その功に募り賞に行わるべきの
  由言上す。且つは駿河の国麻利子一邑を賜う。浪人を招き居え、駅家を建立すべしと。
  仍って申請の旨に任せ仰せ下さる。散位親能の奉行として、早く宛て行うべきの趣、
  内屋の沙汰人等に下知すと。
 

10月10日 丙申 天晴 [玉葉]
  夜に入り能保卿示し送りて云く、頼朝卿申し遣わして云く、去る九月三日泰衡を誅し
  をはんぬと。天下の慶びなり。
 

10月11日 丁酉
  御厩舎人平五新籐次、去る夜鎌倉に参着す。駒十疋を相具する所なり。これ御帰着に
  先立ち、若公の御方に進せらると。仍って今日、若公南面に於いてこれを覧る。また
  佐々木の次郎の奉行として御所中を掃除せしむ。還御近々の由、平五等これを申すに
  依ってなり。
 

10月16日 壬寅 [玉葉]
  今日法皇天王寺より還御す。便に通親卿の久我亭を御覧ず。種々の進物等有り。人以
  て可と為さず。弾指きすべし。今夜御宿、明日六條殿に還御すべしと。
 

10月17日 癸卯
  御台所鶴岡宮並びに甘縄神明に御参詣。これ報賽の御神拝なりと。
 

10月18日 甲辰 [玉葉]
  頭の中将成経、御使として来たり。頼朝の賞の間の事なり。子細を申しをはんぬ。夜
  に入りまた来たり。先ず問わるべしと。師卿に仰すべきの由、召し仰せをはんぬ。人
  々に問われずと。定長卿来たり、招きに依ってなり。條々の事院奏せしめをはんぬ。
 

10月19日 乙巳
  二品下野の国に於いて宇都宮の社壇に奉幣せしめ給う。蓋しこれ御参詣の巡道に非ず。
  偏に御報賽の為なり。則ち一庄園を奉寄す。剰え樋爪の太郎俊衡法師の一族を以て当
  社の職掌に為すと。
 

10月20日 丙午 陰晴不定 [玉葉]
  能保卿示し送りて云く、奥州の事併せて召し取りをはんぬ。一人も漏らさずと。
 

10月21日 丁未 [玉葉]
  定長院の御使として来たり。奥州の間の事を示す。
 

10月22日 戊申
  愛染王の御供米を慈光山に送らる。また長絹百疋を衆徒の中に下さる。これ素願成就
  に依ってなり。


10月24日 庚戌
  申の刻、鎌倉に御帰着。営中に入御の後、未だ温座せられざるに、因幡の前司を召し、
  御消息を師中納言並びに右武衛等に遣わさる。その詞に云く、
   奥州の泰衡を追討しをはんぬ。彼の党類を召し具し、今日(二十四日)鎌倉に帰ら
   しめ候なりてえり。
  雑色この御書を帯し、飛脚として上洛す。その後御家人等盃酒を献る。これ予め御所
  に儲ける所なり。出羽の国地検を遂ぐべきの由、留守所に仰せ置かる。御進発の後、
  地頭等愁い申して云く、地検の間門田を顛すべきの旨、留守張行するの由と。仍って
  今日件の事を停止すべきの趣、御書を遣わさるる所なり。
   当国検注の間、所々の地頭の門田を倒さるべきの由の事、尤も驚き聞こし食す。出
   羽・陸奥に於いては、夷の地たるに依って、度々の新制にも除きをはんぬ。偏に土
   風を守り、更に新儀無し。然れば件の門田等何ぞ停廃せらるや。有限の公田の外門
   田は、年来の如くにて相違有るべからざるの旨、鎌倉殿の仰せに依って執達件の如
   し。
     十月二十四日         前の因幡の守
   出羽留守所
 

10月25日 辛亥
  鶴岡の別当法眼参入せらる。御請に依ってなり。供僧等同じく召しに応ず。これ奥州
  追討無為の條、偏に祈祷玄応に答えるかの由、賀し仰せらるるに依ってなり。次いで
  砂金・帖絹・藍摺等を施せらると。
 

10月26日 壬子
  奥州より御還向の処、葛西の三郎清重の母所労の由、路次に於いて聞こし食さるるの
  間、御使を葛西の住所に遣わしこれを訪わしめ給う。彼の使者今日鎌倉に参着す。所
  労指せる危急の事無しと。清重別の仰せを奉り、奥州條々の事を沙汰し鎮めんが為在
  国せしむと。
 

10月28日 甲寅
  景時申して云く、安藝の国の大名葉山の介宗頼、伊澤の五郎の催しに依って、奥州御
  下向の御共として、勇士を卒い参向するの処、駿河の国藁科河の辺に於いて、すでに
  御進発の由を聞き、その所より帰国しをはんぬ。自由の至りなり。誡めの御沙汰無く
  ば、自今以後傍輩の思う所如何と。仍って宗頼の所領等を収公せらるべきの由定めら
  ると。