1200年 (正治2年 庚申)
 
 

7月1日 乙卯
  羽林鵜船を覧玉わんが為、相模河辺に赴かしめ給う。畠山の次郎・葛西兵衛の尉以下
  鵜を愛するの輩、別の仰せに依って供奉せしむと。
 

7月6日 庚申
  尼御台所京都に於いて十六羅漢像を図せらる。佐々木左衛門の尉定綱これを調進す。
  今日到来し御拝見の後、葉上房の寺に送り奉りしめ給うと。
 

7月8日 壬戌
  羽林相模河より帰りしめ給う。その間工藤の小次郎行光、悪馬に駕し険阻を馳すに依
  って禄を賜うと。
 

7月9日 天晴 [明月記]
  人云く、今日京中騒動す。武士六波羅に集まると。その由を知らず。
 

7月10日 天晴 [明月記]
  武士の事実事有るに似ると。その由を知らず。但し大略天魔の所為か。生躰無しと。
 

7月15日 己巳
  金剛寿福寺に於いて、新図十六羅漢像の開眼供養を遂げらる。導師は当寺の長老葉上
  房律師栄西なり。尼御台所御聴聞の為に参堂有りと。


7月27日 辛巳
  六波羅の書状等到来す。佐々木中務の丞経高、帝都警衛の人数たりながら、朝威の條
  々を軽ろじ奉るなり。これ洛中に於いて強盗人を生虜ると称し、その次いでを以て近
  隣の民居等を追捕す。しかのみならず淡路の国を守護せしむの間、国司の命を蔑如し
  国務を妨げるの上、去る九日淡路・阿波・土佐等の国の軍勢を催し聚め、各々甲冑を
  着し騒がしめ給い、殆ど天聴を驚かし奉る。濫觴を尋ね問わるるの処、敵の為に襲わ
  れんと欲するの由これを申すと雖も、更に実證無し。所行の企て奇怪一に非ず。早く
  関東に達すべきの旨勅命に及ぶと。上皇頻りに逆鱗すと。