南朝古木鎖寒霏, 六百春秋一夢非。 幾度問天天不答, 金剛山下暮雲歸。 河内路上金剛山遠望 右(南側)の雲に隠れている峰 |
南朝の 古木 寒霏を 鎖し,
六百の 春秋 一夢 非なり。
幾度か 天に 問へども 天は 答へず,
金剛山下 暮雲 歸る。
◎ 私感註釈 *****************
※菊池溪琴:寛政十一年(1799年)〜明治十四年(1881年)。菊池海莊の方が通っているか。江戸後期の儒者、詩人。本姓は垣内。名は保定。字は士固。通称は孫左衛門。渓琴、海莊は号になる。紀州の人。
『日本外史』「楠氏夢」南有大樹 赤坂城址 赤坂城址 河内路上・河内側の金剛山麓
※河内路上:河内の国の旅路にて。河内は楠木正成の本領。現在の大阪府の東南部。河内の各地に楠木正成や南朝の遺蹟がある。原詩は明治書院の『日本漢詩』より採った。
※南朝古木鎖寒霏:南朝時代から茂っている(楠の)老木(の森林)は、冷え冷えとした霧が立ち籠めている。 ・南朝:後醍醐天皇から後亀山天皇までの、大覚寺統の朝廷。吉野朝。 ・古木:老木。 ・鎖寒霏:李Uの『烏夜啼』「無言獨上西樓,月如鈎。寂寞梧桐深院 鎖C秋。」とあり、封じこめている、という感じになる。情景から言えば「たちこめている」になるが。「南朝古木」で後醍醐天皇の夢である「南の木=楠」になる。 ・鎖:とじこめる。封じこめている。とざす。籠もらせる。語法から言えば使役、他動詞とすべきところ。 ・寒霏:冬の寒々とした霧やモヤ。
※六百春秋一夢非:六百年に亘る(確執は)一夢のようにはかなく終わってしまったが(、天道 是か)非か。 *菅茶山の『宿生田』「千歳恩讐兩不存,風雲長爲弔忠魂。客窗一夜聽松籟,月暗楠公墓畔村。」を踏まえていようか。「六百春秋」とは「千歳恩讐」の義を含み、「一夢非」とは「兩不存」で、「非」は「不存」の義を含んでいないか。 ・六百:ここでは、楠公の奮闘した延元以降の星霜になる。 ・春秋:年。歳月。 ・一夢:夢のように儚い。如一夢。 ・非:…でない。悪い。「非」の用法は、李清照の『武陵春』「風住塵香花已盡,日晩倦梳頭。物是人非事事休,欲語涙先流。」。晉の陶淵明の『歸去來兮辭』「歸去來兮,田園將蕪胡不歸。既自以心爲形役,奚惆悵而獨悲。 悟已往之不諫,知來者之可追。實迷途其未遠,覺今是而昨非。」 とある。「今是昨非」とは、「現今」は、「是(ぜ)」と(是認)すべきものであって、「昨(過去)」は「非(ひ)」と(否定)すべきものである。また、「物是人非」とは、物(風物、自然、天)は、そのままであり(「是(ぜ)」)、人(人間)はそのようではない(「非(ひ)」)と「物是」と「人非」は対にして見、つまり「変化があった」。自然の風物はいつまでも、変化が無く、本来あるようにあるが、人の身は同じではない、変化があった。「物」は「是(ぜ)」であるが、「人」は「非(ひ)」である。しかしながら、これらの意は、「是」と「非」を対にして述語として使っている。この作品では、語法上そのような使い方は見られず、構文を語法に基づいて見れば「悪いとする」「間違いとする」の意の「非」が妥当になる。
※幾度問天天不答:何回か、天に:「天道 是か非か」と、問いかけたが、天は答えようとしない。 ・幾度:何回か。 ・問天:天に問いかける。 *「天道 是か非か」との問いかけである。『史記・伯夷列伝』後半の「天道無親,常與善人。若伯夷、叔齊,可謂善人者非邪?…行不由徑,非公正不發憤,而遇禍災者,不可勝數也。余甚惑焉,儻所謂天道,是邪非邪?」という表現に基づく詩句である。古来、世の不条理によく使われる語句である。晉の陶潛『飮酒・二十首』其二「積善云有報,夷叔在西山。善惡苟不應,何事立空言。九十行帶索,飢寒况當年。不ョ固窮節,百世當誰傳。」と、その精神では同じである。 ・不答:問いかけに答えない。返答しようとしない。
※金剛山下暮雲歸:(天は答えないものの、ただ、楠木正成の故郷である)金剛山麓に夕焼け雲は、帰ってきた。 ・金剛山:大阪府の東南角にある山。西北山麓に楠木正成の城砦である赤坂城、千早城のある、楠木正成生誕の地、本領である。 ・暮雲:夕暮れの雲。夕焼け雲。 ・歸:(本来の居場所に)もどる。夕方になって(湧きだした)元の山へ戻って行くこと。帰雲。ここの「歸」は、殷末周初の伯夷『采薇歌』「登彼西山兮,采其薇矣。以暴易暴兮,不知其非矣。神農虞夏,忽焉沒兮,吾適安歸矣!吁嗟徂兮,命之衰矣!」とその義はややずれるが、雰囲気は似ている。
◎ 構成について
韻式は「AAA」。韻脚は「霏非歸」で、平水韻上平五微。次の平仄はこの作品のもの。
○○●●●○○,(韻)
●●○○●●○。(韻)
●●●○○●●,
○○○●●○○。(韻)
平成16.5.12 5.13完 令和3. 9.26補 |
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