老來歡娯少, 長日消得難。 偶憶強壯日, 時把舊詩看。 大耋心慌惚, 亦可想當年。 欣戚如再經, 病懷稍且寛。 醉花墨川堤, 吟月椋湖船。 叉手温生捷, 露頂張旭顛。 此等常在胸, 其状更宛然。 瑣事委遺亡, 忽亦現目前。 或遇不平境, 往事夢一痕。 吾詩從人笑, 不必費補刪。 自吟又自賞, 樂意在其間。 |
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舊詩卷を 讀む
老い 來りて 歡娯 少く,
長日 消し得(う)ること 難(かた)し。
偶ゝ(たまたま) 強壯の日を 憶(おも)ひ,
時に 舊詩を 把(と)りて看る。
大耋(だいてつ) 心 慌惚(くぁうこつ)として,
亦た 當年を 想ふ 可(べ)し。
欣戚 再び經(ふ)るが如く,
病懷(びゃうくぁい) 稍(や)や且(しばら)く 寛(ゆるやか)なり。
花に醉(ゑ)ふ 墨川(ぼくせん)の堤(つつみ),
月に吟ず 椋湖(りゃうこ)の船。
手を叉す 温生の捷,
頂を露す 張旭の顛。
此等 常に胸に在り,
其の状 更に 宛然(ゑんぜん)たり。
瑣事は 遺亡に委(まか)すとも,
忽(たちま)ち亦た 目前に 現(あらは)る。
或は 不平の境に 遇(あ)ひたれども,
往事 夢 一痕なり。
吾が詩 人の笑ふに 從ひ,
必ずしも 補刪(ほさん)を 費さず。
自ら吟じ 又た 自ら賞す,
樂意 其の間に 在り。
◎ 私感註釈 *****************
※菅茶山:延享五年(1748年)〜文政十年(1827年)。江戸時代後期の儒者。備後神辺(かんなべ)の人。私塾「黄葉夕陽村舎」(写真上:撮影・提供)を開く。姓は菅波、名は晉師(ときのり)、字は礼卿、通称は太仲。茶山は号になる。
※讀舊詩卷:作者の最晩年の作。自分の来し方、一生をふり返っての作。
※老來歡娯少:年を取ってしまってからは娯楽も減り。 ・老來:年を取ってしまった。年を取ってくる。老いきたる。 ・歡娯:楽しみ事。よろこび楽しむこと。娯楽。
※長日消得難:夏の日の長さい時間をつぶすことに苦労をする。 ・長日:昼の間の長い日。夏の日長のこと。永日。 ・消:(時間を)費やす。(時間を)つぶす。消費する。 ・得:動詞に附いて、動詞の表す内容の程度、結果、方法を表す。ここでは、「時間をつぶす方法が難しい」。のことになる。
※偶憶強壯日:たまたま若かった時分を思い起こして。 ・偶:たまたま。思いがけなく。 ・憶:思い起こす。想い出す。 ・強壯日:若かった日々。身が強く盛んな若年の時期。身体がじょうぶで若々しかった時代。
※時把舊詩看:昔作った詩を取り持って見る。 ・時:時々。 ・把:…を手に取る。また、…を。ここは、前者の意。 ・舊詩:昔(自分が)作った詩。旧作。なお、過去の時代の詩は「古詩」。(形式を指す。作品を指す固有名詞の場合もある)。晩唐〜・韋莊の『晏起』に「爾來中酒起常遲,臥看南山改舊詩。開戸日高春寂寂,數聲啼鳥上花枝。」とある。 ・看:見る。
※大耋心慌惚:とても年を取ったので、頭がぼんやりしているが。 ・大耋:〔だいてつda4die2●●〕とても年を取る。 ・耋:〔てつdie2●〕年寄り。老人。年を取る。老いる。 ・慌惚:〔くゎうこつ;huang(1)3hu1●●〕頭などがはっきりしないこと。ぼんやりしているさま。=恍惚:〔くゎうこつ;huang3hu1●●〕。頼山陽の『日本外史』卷九足利氏十三葉に「松永久秀等攻高政,取高屋城。時長慶老病,恍惚不知人」とある。『日本外史』の成立年と菅茶山の亡くなる年は同年で、因果関係はなかろう。本来は、物事に心を奪われてうっとりすること。
※亦可想當年:(年は取って耄碌はしてきているものの)昔のことは、想い出すことができる。 ・亦:できる。よくする。≒能。…もまた。 ・可:…ことができる。 ・想:懐かしく思う。 ・當年:昔。往時。その時。
※欣戚如再經:(過去の)喜ばしかったことと悲しかったことを、追経験すれば。 ・欣戚:〔きんせき;xin1qi1○●〕喜ぶことと悲しむこと。 ・如:…のようだ。ごとし。 ・再經:もう一度、通る。
※病懷稍且寛:憂慮は、ややしばらく、ゆるくなる。 ・病懷:憂慮。憂えた思い。 ・病:苦しむ。憂慮する。 ・稍:やや。 ・且:しばらく。しばし。 ・寛:ゆるくなる。くつろぐ。
※醉花墨川堤:(江戸の)隅田川の堤(つつみ)でのお花見で桜の花に酔った(時もあった)。 ・醉花:桜の花に酔う。お花見をする。 ・墨川:隅田川。 ・堤:つつみ。
※吟月椋湖船:(京の)巨椋池(おぐらのいけ)で、船を浮かべてお月見をして詩をうたった(こともあった)。 ・吟月:月を見て詩をうたう。お月見をする。 ・椋湖:〔りゃうこ;liang2hu2○○〕巨椋池(おぐらのいけ)のこと。中世までの京都市南部にあった湖沼。面積は7平方キロメートル。周囲17キロメートルになる。現・京都市伏見区、宇治市、久世郡久御山町一帯の平地。豊臣秀吉の伏見城築城のときに宇治川より分離され、その後干拓され続けて、昭和十六年には消滅した。
※叉手温生捷:温庭のように腕を組む毎に、素速く詩をなした。八回叉手する間に八首の排律を作ったという。(葛子琴の思いで)。 ・叉手:腕を組む。 ・温生捷:温庭の素速さ。温庭は、腕を組む毎に、すばやく詩をなしたことをいう。自注で、ここでは葛子琴が敏捷に詩をなしたことをいうためのもの。 ・温生:温庭、温飛卿 のこと。晩唐の詩人。 『花間集』にその作品は極めて多く採録されている。
※露頂張旭顛:帽子を落として、頭のてっぺんを出しても気づかずに夢中になって字を書き続けた唐の張旭のような(倉成善卿が長府侯の座で草書を揮毫したという出来事)。 *自注で、倉成善卿が長府侯の座で草書を揮毫したことを詠う。 ・露頂:ここでは、帽子を落として、頭のてっぺんを出しても気づかずに夢中になって字を書くさま。 ・張旭:〔ちゃうきょく;zhang1xu4○●〕唐代の草書の書法家。草聖とされる。字は伯高。蘇州呉(現・江蘇省呉県)の人。杜甫の『飲中八仙歌』「張旭三杯草聖傳,脱帽露頂王公前,揮毫落紙如雲煙。」に因る。 ・顛:〔てん;dian1○〕狂顛。狂気じみた。
※此等常在胸:これらの事は、いつでも心にあって覚えている。 ・此等:これら。上述のような若い時の出来事。「醉花墨川堤,吟月椋湖船。叉手温生捷,露頂張旭顛。」らの出来事を指す。 ・常在胸:いつも心で思っている。ずっと覚えている。
※其状更宛然:その様子は、ますますはっきりとしてくる。 ・其状:そのさま。その様子。 ・更:さらに。いっそう。その上。 ・宛然:〔ゑんぜん;wan3ran2●○〕そっくりそのまま。あたかも。ちょうど。よくあてはまるさま。
※瑣事委遺亡:些細なことは忘れるにまかせていても。 ・瑣事:〔さじ;suo3shi4●●〕取るに足りないつまらない事。わずらわしい事。些細な事。くだくだしい事。少しばかりの事。小事。 ・委:ゆだねる。まかす。 ・遺亡:〔ゐばう;yi2wang2○○〕物事を忘れること。忘却。≒「遺忘」〔ゐばう;yi2wang4○●〕のこと。
※忽亦現目前:たちまちの内に、目の前に現れてくる。 ・忽:〔こつ;hu1●〕たちまち。にわかに。 ・亦:また。…も(また)。…も。 ・現:あらわれる。出現する。 ・目前:目の前。
※或遇不平境:或いは穏やかでない心境の時もあったが。 ・或:あるいは。 ・遇:出逢う。 ・不平境:心配ごとや悩みなどで心が安らかでない心境。あれこれと不満に思う心境。穏やかでない心境。
※往事夢一痕:過去の出来事は、一場の夢で、僅かな痕跡(を留めるだけとなった)。 ・往事:過ぎ去った出来事。過去の出来事。 ・一痕:僅かな痕跡。わずかな傷痕。
※吾詩從人笑:わたしの作った詩は、他人の評価にまかせよう。 ・吾詩:わたしの作った詩。 ・從:〔じゅう;zong4●両韻〕したがう。動詞。 ・人笑:他人が笑う。ここでは、他人の評価の意になる。
※不必費補刪:添削するに及ばない。 ・不必:…するに及ばない。…を要しない。 ・費:ついやす。 ・補刪:〔ほさん;bu3shan1●○〕加除訂正。添削。
※自吟又自賞:自分でうたい、またさらに、自分で賞味すれば(それでよいのだ)。 ・自吟:自分でうたう。 ・又:またもや。またしても。重ねてまた。 ・自賞:自分で賞味する。自分で鑑賞する。
※樂意在其間:楽しみは、そこのところにあるのだ。 ・樂意:楽しみの心。賢人の楽しみの心。『論語』雍也篇「子曰:賢哉回也。一箪食、一瓢飮,在陋巷人不堪其憂。回也不改其樂。賢哉回也。」また、學而篇「子曰:學而時習之,不亦説乎。有朋自遠方來,不亦樂乎。人不知而不慍,不亦君子乎。」などに基づく。
◎ 構成について
韻式は「AAAAAAAAAAA」。韻脚は「難看年寛船顛然前痕刪間」で、平水韻上平十四寒(難看ェ)。上平十五刪(刪)。下平一先(前年顛然船)。次の平仄はこの作品のもの。
●○○◎●,
○●○●○。(韻)
●●○●●,
○●●○○。(韻)
●●○◎●,
●●●○○。(韻)
○●○●○,
●○○●○。(韻)
●○●○○,
○●○○○。(韻)
○●○○●,
●●○●○。(韻)
●●○●○,
○●●●○。(韻)
●●●○○,
●●●●○。(韻)
●●●○●,
●●●●○。(韻)
○○●○●,
●●●●○。(韻)
●○●●●,
●●●○○。(韻)
平成17.2.20 2.21完 平成23.4.12補 平成27.3. 7 |
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