侍宴恭賦 二 | ||
元田永孚 | ||
君王手酌菊花觴, 賜與老臣分壽康。 六十衰殘何謂老, 戯言猶喚太公望。 |
君王 手 づから菊花 の觴 を酌 み,
老臣に賜 ひ與 へて壽康 を分 かつ。
六十の衰殘 に 何ぞ「老 」と謂 ふ,
戯言 して猶 ほも 「太公望 」と喚 ぶ。
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◎ 私感註釈
※元田永孚:(もとだ えいふ・もとだ ながざね)儒学者。宮内省官僚。文政元年(1818年)~明治二十四年(1891年)。号は東野。熊本藩出身。時習館に学び、横井小楠の感化を受けた。幕末、京都留守居・高瀬町奉行などをつとめ、維新後は、明治三年(1870年)、宣教使・参事を兼任。宮内省に出仕し、明治天皇の侍読・侍講をつとめた。この間、『教学大旨』、『幼学綱要』を執筆。儒教主義による国民教化に尽力。『教育勅語』の草案を作成。 明治天皇の信任厚く、宮中における保守思想の代表であった。
※侍宴恭賦:宴席に侍(はべ)って、つつしんで詩を作る。 *明治十年(1877年)の作。 ・宴:うたげ。ここでは、重陽の節句に菊花を餐し酒に浮かべて邪を去るという風習に基づく菊花宴のことになろうか。但し、重陽は陰暦九月九日(明治十年(1877年)では十月十五日)のことであり、この詩作は陰暦・十月十七日(陽暦・十一月二十一日)なので、正式の菊花の宴ではなかろう。後出・『元田先生進講録』の文中からも推測できるように、西南の役の影響があって遅れたのだろうか。なお、この詩題は『元田先生進講録』では、ついていない。『元田先生進講録』(近代デジタルライブラリー)の八(33~37ページ)に「十一月廿一日午後四時御乘馬の後御苑萩の御茶亭に於て菊花御遊覧永孚に陪觀を賜はる旨を拜承せり永孚當直の外に此旨を被むりしは蓋し特命に因てなり永孚は御乘馬畢る頃を計り宮を出て萩の御亭に至る 皇上入らせ給ひ間も無く小宴を開き菊花を上覧あり此日舊暦十月十七日天氣晴朗夜に入り圓月天に滿ち菊花爛漫今を正に闌なりとす西南の亂は既に平らき(十月廿四日)虎列刺病は幾んと終熄に垂んとす聖體の御脚氣症も御平癒になり給ひたれは 龍顔も殊に麗はしく温言快語侍臣皆歡嬉の色を顯はせり宴央にして永孚を 御前近く召させられ椅子を給せよとの御諭にて侍從試補椅子を持し來りて之に倚れり御談話の中御盃を賜ひ御饌中の魚肉を親しく 御箸を以て分ち賜はれり聖語快活として古今内外の御論談に及ほされ永孚も旨を禀て應答し奉り覺えす愉快に入りたるに酒も已に酣なる時に汝出師の表を吟せよとの 勅諭あり即聲を發して十一二句迄を吟したるに老音艱澁續き難きを以て後句は辭し奉りたれは元田に茶を給せよとの 仰せにて侍從試補より御前茶を給したり猶又た詩を吟せよとの仰せにより正行を詠せし自作の詩を吟せんと言上しけれは宜しと宣ひたり即乃父之訓銘于骨より至今生活忠烈魂に至るまて聲音朗々と吟し畢り幸にして聲も聯續しけれは大に 御感賞に入りたり彌御興に入らせ給ひ數盃を重ねさせ給ひたれは西四辻侍從御飮の度を過きんことを恐れ 還幸を促し奉りけれは今夜は太公望在り汝患ふること勿れとの御喩なり夜も漸く深けれは侍從又菊圃の夜景銀燭相映し殊更佳觀なり盍そ御坐を移して暫く 覧給はさる乎と言上しけれは菊花の佳觀は明年も又觀るへし元田か詩吟は來年其音聲の今年の如くならさるを愛む 朕は菊花よりも元田か詩吟を愛するなりと 宣ひたり左右の人々皆々感稱し奉りたるに永孚に於ては只々感泣胸を沾し養老の聖徳實に文王にも超させ給ひしと竊に嘆稱し奉りしなり夜十一時を過て常の如く御騎馬にて 還幸あり今夜の御談論は永孚是迄侍讀中未た曾て聞かさる御活見にて眞に驚喜に堪ヘす米田も待從以來始ての御英談と稱し奉り建野鄕三は前後始ての事にて外國の御論は酉洋人をして之を聞かしむるとも肯て間然なからんと驚感奉りしなり爾後は吉井土方の各侍補も御宴に連り詩吟朗詠の御興に入りたるもの度々なりしも今夜の御宴を以て君臣和樂の權輿となりたるなり余此寵榮を記述し後昆に傳へ家門の美譽と永く諼さらん爲めに七絶七首を賦せり因て左に録す
從侍去春花樹筵。東巡西幸又經年。今宵歡會誰無感。菊滿芳園月滿天。
花月相逢此令辰。君臣歡會亦何新。周文善養應無及。御箸分肴賜野人。
君王手酌菊花觴。賜與老臣分壽康。六十衰殘何謂老。戯言猶喚太公望。
人老年々難再壯。花開歳々幾回新。勅言今夜花前宴,不愛菊花愛老臣。」
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(「(明治十年)十一月二十一日の午後四時に、(天皇陛下は)御乗馬の後、御苑の萩の御茶亭で菊花の御遊覧をなされ、元田永孚(=作者)を一緒に見物をさせてくださる思(おぼ)し召しをつつしんでうけたまわった。元田永孚(=作者)が当直の外にこの思(おぼ)し召しをいただいたのは、思うに特命によってのことだろう。元田永孚(=作者)は、(天皇陛下の)御乗馬が終わる頃を見計り、宮中を出て萩の御亭に至った。 皇上がお入りになられて間も無くに、小宴を開いて菊の花を御覧なさった。この日は旧暦十月十七日で、天気晴朗、夜に入っては、円い月が天に満ちて、菊の花は爛漫として、今を正にたけなわとしていた。西南の乱は既に平定され(十月二十四日)、コレラ病(の流行)もほとんど終息しようとしていた。天皇陛下お体の御脚気症も御平癒になられたので、天皇陛下のご様子もとりわけに麗わしく、優しいお言葉にてきぱきとした語りかけで、側に侍(はべ)っていた臣下たちは皆、歓嬉の色をあらわにしていた。宴のなかばで、(天皇陛下が)元田永孚(=作者)を御前近くにお召しになり、「椅子をあげなさい」との御言葉で、侍従試補が椅子を持って来たので、それに腰をかけた。御談話のうちに御盃(=お酒)を賜わり、御饌(=お料理)中の魚肉を陛下自らが 御箸(はし)で分けて下さった。陛下のお言葉は快活で、古今内外について御論談に及ばれて、元田永孚(=作者)も思(おぼ)し召しを受けてお応(こた)えして、ついつい愉快になっていって、酒宴もすでにたけなわとなった時に、陛下から「汝(なんじ)、『出師(すいし)の表』を吟じなさい。」とのおさとしがあって、すぐさま声を発して十一、二句までを吟じたが、歳老いた発声で行き詰まって、続けて吟じるのが難しくなり、後の句はやめさせていただいたが、「元田に茶をあげなさい」との 仰(おお)せがあり、侍従試補より御前茶をいただいた。引き続いてまたも「詩を吟じなさい」との仰(おお)せにより、「楠木正行を詠じた自作の詩を吟じましょう」と申し上げたところ、「よろしい。」と仰(おお)せになった。そこで早速「乃父之訓銘于骨」より「至今生活忠烈魂」に至るまでを音声朗々と吟じ終えた。幸いに、声も連続して出せたので、(陛下は)大いに 感心してほめたたえくださった。いよいよ興(きょう)に入りなさって、数盃を重ねられたので、西四辻侍従は陛下の御飲酒が度を過ごされることを恐れて、 還幸(=御帰還)を促しなさったが、(陛下は)「今夜は太公望(=元田永孚=作者)がいるのだ。汝(なんじ)、心配することのないように」との御さとしであった。夜もようやく深けてきたので、侍従は、またしても「菊の園の夜景は銀燭に映えて、ことのほか美観であります。どうして御坐を移してしばらく 天覧をなさらないのでしょうか」と申し上げたところ、(陛下は)「菊花の佳観は明年もまた観ることができるが、元田の詩吟は、来年その音声が今年の如くにはならないことを愛(おし)むのだ 朕(ちん)は菊花よりも元田の詩吟を愛しているのだ」と 仰(おお)せになった。左右に控えている人々は、誰もが感心してほめたたえたが、元田永孚(=作者)においては、只々感動のあまり泣き、涙が胸を潤(うるお)して、敬老の大御心(おおみこころ)は、実に文王をもお超えになられたと、心中ひそかにに讃嘆し申し上げた。夜の十一時を過ぎて、(陛下は)いつものように御騎馬にて 還幸(=御帰還)なされた。今夜の御談論は元田永孚(=作者)がこれまでに侍読してきた間では今までに聞いたこともない御見識で、まことに驚喜に堪えない。米田も、「待従になって以来の始め聞いた御英談」と称讃なされ、建野郷三は、「前にも後にも、始ての事であり、外国についての御論は、酉洋人に聞かせても肯えて非難すべき点が一つもない」と、驚嘆申し上げていた。(今夜のこと)以降には、吉井、土方の各侍補も御宴に連なって、詩吟朗詠の御興に入るという出来事も度々おこったが、今夜の御宴(こそ)が君臣和楽の第一回目であった。わたし(=元田永孚)は、この寵愛をうけたことを記述して子孫に伝え、家門の立派な名誉を永く忘れないようにと、七言絶句七首を作った。そこで、次に記録しておく。
従侍去春花樹筵。東巡西幸又経年。今宵歓会誰無感。菊満芳園月満天。
花月相逢此令辰。君臣歓会亦何新。周文善養応無及。御箸分肴賜野人。
君王手酌菊花觴。賜与老臣分寿康。六十衰残何謂老。戯言猶喚太公望。
人老年々難再壮。花開歳々幾回新。勅言今夜花前宴,不愛菊花愛老臣。」)。
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とある。なお、文中、文字が一字、二字と空いているのは、尊敬を表す闕字法のため。天皇関聯の名詞(ここでは動詞もの)前は一字、或いは尊敬表現の度合いに応じて、二字分空けている(=空格)。更に尊敬を表したい場合はその字の前で改行をする(=平出)。さらに尊崇を表したいときは、行頭の上側(ホームページは横書きなので外側となるが…)へ、一字はみ出して書く(=単擡頭)。更に尊崇を表す場合は、二字分上へはみ出して書く(=双擡頭)等がある。 ・侍宴:宴席にはべる。 ・恭-:〔きょう;gong1○〕うやうやしく…。つつしんで…。謙譲語。
※君王手酌菊花觴:天子さまは、(わたしに対して)菊花酒を手ずから注(つ)いで下さり。 ・君王:〔くんわう(くんなう);jun1wang2○○〕天子。帝王。君主。ここでは、明治天皇のことになる。 ・手酌:手ずから(自分の)容器に酒を注(つ)ぎ入れること。 ・菊花:キクの花。重陽の節句に菊花を餐し、酒に浮かべて邪を去るという風習に因る。元は、楚の時代にあり、屈原の『楚辭・離騷』でも、「衆皆競進以貪婪兮,憑不厭乎求索。羌内恕己以量人兮,各興心而嫉妬。忽馳以追逐兮,非余心之所急。老冉冉其將至兮,恐脩名之不立。朝飮木蘭之墜露兮,夕餐秋菊之落英。苟余情其信以練要兮,長頷亦何傷。」、また、『九章・惜誦』に「檮木蘭以矯蕙兮,申椒以爲糧。播江離與滋菊兮,願春日以爲芳。恐情質之不信兮,故重著以自明。矯茲媚以私處兮,願曾思而遠身。」というふうに、屈原の時代から、身を清めるために菊の花を餐していたことが分かる。以降、長く伝えられ、陶潛の『飮酒二十首』其七「秋菊有佳色,露其英。汎此忘憂物,遠我遺世情。一觴雖獨進,杯盡壺自傾。日入羣動息,歸鳥趨林鳴。嘯傲東軒下,聊復得此生。」や、『飮酒』二十首其五「結廬在人境,而無車馬喧。問君何能爾,心遠地自偏。采菊東籬下,悠然見南山。山氣日夕佳,飛鳥相與還。此中有眞意,欲辨已忘言。」、前出・東晉・陶潛『九日閒居』「酒能祛百慮,菊爲制頽齡。」と、超俗的な作用をするものであり、重陽節の菊花となった。 ・觴:〔しゃう;shang1○〕さかづき。酒杯の総称。ここは「酒」の象徴として使い、「菊花觴」は菊花酒の意。押韻の都合上、「觴」としている。
※賜与老臣分寿康:年老いた臣下(=わたし)に長寿と健康をたまわりくださった。 ・賜与:〔しよ;ci4yu3●●〕たまわる。くださる。 ・老臣:年老いた臣下。また、重臣。ここでは前者の意で、作者たちを指す。 ・寿康:長寿と健康。重陽の節句に菊花を酒に浮かべて邪を去ることを謂う。
※六十衰残何謂老:・六十歳になったおいぼれに、どうしたことか(「元田老」)と長者の尊称を仰(おっしゃ)ってくださり。 ・六十:作者の年齢。この詩を作った時は明治十年(1877年)で、作者が生まれたのは文政元年(1818年)。 ・衰残:おとろえてだめになる。弱り衰えること。 ・何謂:何をか…をいう。どういう意味か。 ・老:長者の尊称。(尊敬の意をこめた)年をとり徳の高い人。また、老いる。ここは、前者の意。作者は明治天皇の侍読・侍講(=天皇の側に仕え、学問を教授する学者。天皇、東宮の教師。)をつとめていたため、天皇は、作者に対して「元田」と呼び捨てにせず「元田老」或いは「元田老師」(「元田先生」)等と、敬称としての「-老」をつけて呼んだ。前出・「老臣」での「老」の用法とは異なる。「老臣」の「老」は「おいぼれた」といった謙譲の感を込めて使っていよう。
※戯言猶喚太公望:おたわむれで、更にその上、(わたしを)「太公望」とまで呼んで下さった。 ・戯言:たわむれにいう言葉。ざれごと。冗談。 ・猶:引き続いて。なおも。ここでは、「陛下はわたしのことを ①:『元田老』と敬称をつけて呼んで下さった。更にその上、 ②:文王の師である『太公望』に擬えてそのように呼んでくださった。」という累加表現。 ・喚:呼ぶ。 ・太公望:呂尚を指す。周の祖「太公(文王の父)が待ち望んでいた(賢者)」という意味で、「太公望」と呼ばれる。太公望・呂尚は渭水の畔で釣りをしていて、文王に見出されてその師となり、文王、武王をたすけて殷を滅ぼした。周(西周)政治家。武王を佐(たす)けて、殷の紂王を滅ぼし、功によって斉(現:山東省の一部)に封ぜられた。『史記・齊太公世家』に「呂尚蓋嘗窮困,年老矣,以漁釣奸周西伯。西伯將出獵,卜之,曰『所獲非龍非彲,非虎非羆;所獲霸王之輔』。於是周西伯獵,果遇太公於渭之陽,與語大説,曰:『自吾先君太公曰『當有聖人適周,周以興』。子真是邪?吾太公望子久矣。』故號之曰『太公望』,載與倶歸,立爲師。」とある。晩唐~・温庭筠の『渭上題』三首之三に「煙水何曾息世機,暫時相向亦依依。所嗟白首磻谿叟,一下漁舟更不歸。」とある。
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◎ 構成について
韻式は、「AAA」。韻脚は「觴康望」で、平水韻下平七陽。この作品の平仄は、次の通り。
○○●●●○○,(韻)
●●●○○●○。(韻)
●●○○○●●,
●○○●●○○。(韻)
平成23.4.19 4.20 |
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