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SANPO

  明治5年に東京で生まれた樋口一葉は20世紀を目前にした
明治29(1896)年、24歳の若さで亡くなりました。
20代のころ、いつか樋口一葉の評伝を書こうと決心した私は
東京へ行く機会をとらえては、一葉ゆかりの土地を探し歩き、
自分の目と足で一葉の場所を確認してきました。
その時々に撮った写真を織り交ぜながら、一葉の生きた場所を
散歩してみましょう。*写真は平成11年2月撮影。
※一葉関連ページ  評伝【樋口一葉の十二ヶ月】  ・ 【一葉関連エッセイ集】 もどうぞ!

法真寺 ◆浄土宗 法真寺
(地下鉄丸ノ内線本郷三丁目下車、東京大学赤門向かい側)
一葉は四歳から九歳まで、法真寺と隣り合わせの大きな家に住み、 桜の木のあるこの境内で遊び、幸福な少女時代を送った。
写真中央の軒下には「ゆく雲」の中で<腰衣の観音さま、濡れ仏にて おはします御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・>と うたった「腰衣観音」が見える。

安藤坂 一葉は通算して5年半、小学高等科第4級卒業の11歳で学校をやめさせられた。女子に学問は 不要と主張する母親と、勉強好きの娘を進学させたい父親が争そったという。 一葉は「死ぬばかり悲しかりしかど、学校は止めになりにけり」と のちの日記に記している。
14歳のとき、和歌を学ばせようとの父親の計らいで、 向学心の強い一葉は小石川の中島歌子の歌塾「萩の舎」へ入門した。

安藤坂右側ビルのあたりに「萩の舎」があった。
(地下鉄三田線春日駅近く)


菊坂旧居跡 ◆路地奥の本郷菊坂町旧居跡と手前は使った井戸
(本郷から白山通り方面へ抜ける道のもう一段低い道の路地を入る)
一葉は「萩の舎」で上流階級の女性達に交じり、持ち前の負けん気で めきめき和歌の実力をつけたが、長兄泉太郎に続き負債を残して父親も病没。17歳で女戸主となった一葉は、 あとに残った57歳の母と15歳の妹を養う立場に立たされた。
母娘3人は、明治23年9月、本郷菊坂町の借家に移り住んだ。樋口家の没落の始まりだった。一葉はここから小石川の 「萩の舎」へ稽古に通った。

伊勢屋質店 姉妹で洗い張りと仕立物で生計を立てたが貧困はつのるばかり。 「萩の舎」の姉弟子田辺龍子が小説を書いて高額の原稿料を得 たことに刺激を受けた一葉は、朝日新聞の小説記者半井桃水に 頼み込んで弟子入りする。
桃水は大衆受けのする小説の指導をし、一葉は必死で書いたが すぐにお金になるはずもなく、一葉親子は着物や帯を持って、幾 度となく近所の伊勢屋質店へ走って急場をしのいだ。
伊勢屋質店現在は営業していない
(本郷五丁目に現存。昔の面影のまま建つ)

傳通院
傳通院境内(文京区小石川三丁目、淑徳学園高校に隣接)
長兄、父と相次いで働き手を失った一家は、一葉の小説が売れ ることに期待をかけるがうまくいかない。一葉は一時期「萩の舎」に 住み込みで師の手伝いなどもした。
師の中島歌子は一葉一家の窮状を見かねて、傳通院にあった 学校の教師の口を世話すると約束するが、実現しなかった。一葉 の小学校4級卒業までの学歴では無理な相談だったのだろう。


大音寺通り
旧大音寺通り道路奥右手に荒物屋を開店
(地下鉄日比谷線三ノ輪下車徒歩約7分)
萩の舎での醜聞が原因で半井桃水と絶交し、小説も売れない一葉は食い 詰めて商売を思い立ち、新吉原に隣接する竜泉寺町に転居する。
遊郭への道沿いの長屋に雑貨屋を開き、一葉は買い出し、妹が店番を担当した。早朝の買い出しが終わると、 一葉は上野にあった東京図書館へ通って、 小説を書くための勉強を始め、読書に励んだ。


旧居跡碑下谷竜泉寺町(現 竜泉寺3-15-2)に建つ 樋口一葉旧居跡碑
(地下鉄日比谷線三ノ輪下車徒歩約6分)
転居第1夜の日記に一葉は「此家は下谷よりよし原がよひの只一筋道にて、 ゆうがたよりとどろく車の音、飛ちがふ燈火の光り、たとへんに詞なし。行く車 は午前一時までも絶えず、かへる車は三時よりひ ゞ きはじめぬ」と以前住んで いた本郷の静かな夜との違いに驚き、不安を抱いて書き記している。

一葉はこの町で貧民に交じって暮らし、日記の表題を「塵の中」として 萩の舎の上流階級の知人達を避けている。しかし遊郭に寄生する貧民街での 生活体験が一葉に新たな目を開かせ、大きな人間的成長となり、後の小説に結実する。


一葉記念碑一葉記念館前に建つ「樋口一葉記念碑」
(地下鉄日比谷線三ノ輪下車徒歩約5分)

<碑文>
 ここは明治文壇の天才樋口一葉旧居のあとなり。一葉この地に住みて 「たけくらべ」を書く。明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を 慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。
 菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和十一年七月のことなり き。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和 二十年三月この辺一帯焼野ケ原となり、碑も共に溶く。
 有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家として の面目
これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐ に由なし。
僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
       昭和二十四年三月
            菊  池   寛撰
            小島政二郎補並書
                 森田春鶴刻


一葉記念館なつかしの旧一葉記念館(現在は新館に建替え)
(地下鉄日比谷線三ノ輪下車徒歩約5分)
 ・建設の趣旨【記念館発行の資料目録『樋口一葉』より引用】
  明治文壇の天才一葉樋口なつは、この地に住み名作「たけくらべ」を書いた。 台東区はここに一葉の文学を顕彰し、その業績を永久に保存するため、一葉 記念館を建設したのである。  昭和三十六年五月  台東区長 
※毎年一葉忌にあたる11月23日に館内は無料公開され、一葉祭として 記念行事が行われている。


  一葉記念公園 千束稲荷神社
「たけくらべ」ゆかりの地より

←一葉記念公園 一葉記念館前にある。右手奥に「一葉女史たけくらべ記念碑」が見える。

  千束稲荷神社→ 「たけくらべの」子供達が遊んだ神社   


一葉碑一葉終焉の地に建つ碑 ビル建築により裏手より表通りへ移された
(地下鉄三田線春日駅近く)

 一葉一家は開店して10ヶ月足らずで店をたたみ、本郷区の丸山 福山町へ転居する。この地は新開地にありがちな銘酒屋が建ち並ぶ一角で、一葉は 遊女たちと知り合い、明治の風俗の一端に直接触れることになる。その見聞の中から一葉は 真に自分の書くべきものを掴み取っていく。
 一方、一葉は頻繁に訪れる『文学界』の若い青年たちとの交流を通して、 外国文学や新しい文学の潮流に目を開かれ、強い刺激を受ける。やがて『文学界』 に「やみ夜」「おおつごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「わかれ道」と矢継ぎ早に小説を 発表。どれも激賞されるが、一葉は冷ややかに成り行きを見守る。
 名声が高まる中、一葉の身体を肺結核がむしばみ、明治29年11月23日、一葉は ついに24歳の生涯を貧困のうちに閉じた。


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