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中辻事務所

グラフィック創作室 中辻事務所

(中辻祥悟、文章に挑戦しました。楽しんでください)

小説

「夏の出来事」

(1)
医療現場の不思議な体験

(2)
何を思うや鱗波氏。

(3)
この先生は何者なのか。不思議な感覚に心がゆれる

(4)
鱗波海太、街の雑踏に

夏の出来事

(1)
医療現場の不思議な体験。

〈1〉

 
もうどのくらいになるのか。
四、五年くらいつき合っているのかもしれない。一度は、別れたんだがなァ。俺のは皮がむけて赤い斑点状のが右足の指付近を中心に広がっている、左足にも二年ほど前から移住し始めた。それだけならまだカワイイのだが、右足なんかは爪にまで侵入して分厚く白く爪を変形させている。

 ああ、なんてことだ。あの時、何ヶ月も病院に通ったのに。そして、飲み薬できれいに君とお別れ出来たはずなのに。たった二年でもとの状態にもどってしまった。薬をやめるのが早すぎたのだ。
 俺が自分から、治ったと思い医者に行かなくなったのか、医者の方が、もう来なくていいと言ったのか、どっちだったかよく覚えてないのが・・ま、今となってはそんなことはどうでもいい。完全に治っても再発することだってあるのだから。
 彼は東京のど真ん中、千代田区のお堀の近くの会社に通うサラリーマン四五歳。

 この年の梅雨は男性的で降れば大粒の雨が滝のように降り続いた。その晴れ上がった二千年七月のある日。彼は意を決して、会社に事情を告げ、あらかじめ電話帳で調べていた一番近くの皮膚科に向かった。「兎内皮膚科、ここだな。これは近い。よく前を通っているけど気付かなかったな」

 彼は、ペンシルビルの側面の大きく出ている看板の文字を読みながら、そのビルの入口に入って行った。小さなこの皮膚科の立て看板が左端にあり、奥のエレベーターの方に真直ぐ向かった。「・・何階かな?」と思い、もう一度その小さい看板に目をやり二階であることを確かめエレベーターに乗った。「階段が無いのだろうか、見当たらなかったなァ」等と思っているうちにドアが開いた。
 「うっ」目の前が受付だ。エレベーターのドアから三メートルくらいだろうか非常に狭い待ち合い室だ。要するにこのエレベーターのドアが皮膚科の入口のドアなのだ。

 なんの心の準備も選択する余地もなく放り込まれたような感じである。すでにエレベーターのドアは閉まっていた。
 『受付に保険証を提出する前にもう一度他の皮膚科にするかどうか考える時間が欲しかったなァ・・・ああ・・』
 彼は、そこに入るや、三、四歩前進し、いや、するしかなく。「初めてですがお願いします」と受付の女性に言っていた。
 『ま、いいか。別に狭いだけでなんてことはないよ。色々考え過ぎて結局失敗するということもあるからな』彼は、その狭い医院の待ち合い室の両脇に二つずつ置かれた椅子に座った。
 『なんだこれ。ええっ』受付の下に雑誌と漫画本が置いてある棚があり、その横に新聞が一週間分かけてあった。彼が驚いたのは、その雑誌の汚さと日付けであった。ほとんどが一年前、もしくはもっと古いもの。
 『やっぱりいやな予感がしたんだよな、入った瞬間。もう帰るわけにはいかないしなァ・・・・。

 それに、さっきから聞こえるあの男の声とそれに生返事をたまに返している女の声。あれは何だ。え、あれがもしかして、ここの先生?の声。すると、あのたまに聞こえるのが患者?しかし、あの話の内容は、どう聞いても年寄りの自慢話しだ。聞きたくも無いのに無理して聞いているといった一方的な会話がドア越しに話し声がよく聞こえる。

 「学会で先輩がねェ、なんで君、これが分かるのーって聞くんですよね。それで僕はね、言ってやったんですよ“じゃあ先輩なんで知らないのー”ってね」「はァ」
『そんなこと皮膚科の治療に関係ないだろ。聞いてる女も女だなァ。そんな生返事するから男がいいきになって喋ってんじゃないのか。ああ、本当にこんなところ今日だけにして次から他のところにしよう』もう待つしかなかった。
ニ、三分待っただろうか。『あんなお喋りや、こんな古い雑誌がなかったらもっとイライラせずに待てたかもしれないのに、なんという医者なんだろう早く顔が見てみたいものだ。あーあー、チェッツ!』

 話し声が消え静かになり、ドアが開いて患者と思われる女性が出てきた。
 なんと二十歳そこそこの学生かと思われるくらいの若い落ち着いた服装の女性である。
 『なんで君のような若い女性がここに』
彼は目を疑った。彼の中には、中年のおばさんが出てくるという確信のようなものがあった。そして、しばらくするとドアの奥からその先生と思われる人が彼を呼んだ。

 「鱗波君」
これは、このサラリーマンの名前である。『君(くん)だって。ま、いいか。今までの事は忘れて素直に診ていただきましょう』
 「はい」彼は、ドアを開けて中に入った。
 『目が点にたぶん俺はなっているんじゃないかな』と彼は思った。ま、思うだけの余裕があったといえばそれまでなのだが、あらかじめ心の準備、というか予感というか、予測は無意識にしていたかもしれない。

 とにかくひどい診察室である。この6坪くらいの長方形の部屋はまるで物置きだ。先生?の座る椅子の後ろ一面に古本屋の本棚から本が崩れ落ちたように本や紙、何かの箱等が子供の背丈ほどの山になっていてる。

 『やはり帰るべきだった』彼は思った。そこに机がひとつあり先生が座っている。その横に患者が座る丸いパイプ椅子があった。たぶん、人が障害物なく歩けるのは、ドアからその机までだろうと思われるくらい凄い。あ、受付の部屋からも狭いけど障害物はないようだ。いや、そう言う問題じゃない、これは何かの間違い?いや別の世界にでもまぎれこんだかな。
 彼は、今までの常識が何だったんだろう・・・とにかくまさしく足場を失ったような不思議な気分になっていた。
 「どうしました」その初老の医者が言った。
 『え、どうしましたかって、先生こそどうしました?』
彼は、心の中で返事をしていた。が、「はい、水虫が爪に入ったんですが」と意外とまともに、自分でも驚くぐらい普通に答えていた。
 「あそう、爪にね」この時初めて目が合った。鋭い目である。言葉は柔らかい。体型もブクブク太っていて穏やかな感じなのだが。
 「六年ほど前にいちど治ったんですが、再発しましてそれ以来ずっとなんですが」
 「そう、一度治ってもねェ。またなるんですよねェ」と先生が言った。鋭い目の中に何か弱いものがあるようなきもしたが。
 『いやいや、そんなはずはない。そうだとすればこの部屋を片付けるだろう。この人は物凄い強靱な精神力で、人がどのように見ようが感じようが関係ない、とでもいっているような目だ。きっと』。
 「見ていただけますか」彼は、はやく済ませて帰りたい気持ちで靴下を脱ぎはじめた。
 「ああん」ちらりと目をその足にやっただけで
 「私がね、軍隊にいたときにね、履物といえば風通しの悪いゴムでしてね」
 『ああ、これだ、さっき待ち合い室で聞こえてきたお喋りだ。返事をしなければ、ただの診察でおわるのかもしれない』と、彼は思ったのだが。
 「ええ」と、なんとも人のよさそうに喋っているので、ふと返事をしてしまった。いや、せざるおえなかったのか。相手が先生だから?どちらにしてもすでに相手のペースにはまってしまっていた。
 「そうすると水虫になって爪に入るんですよねェ。それを見た上官ががね、その人に明日までに治してこいっていうんですよねェ」
 「はァ」
 『あ、しまった。また返事してしまった』
 「それでね、どうしたと思います」
 「え、・・・・」彼は先生の顔を見ながら首をかしげて分かりませんとい合図を送ってしまっていた。先生は、そのことで気を良くしたのか、おかまい無しなのか喋り続けた。
 「誰かがペンチを持っていてね、貸してあげてね、爪を抜くんですよ」
 『先生!話は面白いかもしれないけど今聞く話じゃないんじゃないですか』と心の中で叫びながら、よくよくこの先生を観察してみることにした。

 まずはネクタイ。この椅子に座って暫くして気付いたのだが、汚れている。先生は、喋りながら机に向かってカルテなのか何かを書き、ゴム印で薬などの名前をそこに押している。したがって、その横に座っている彼からは正面の姿は見えないのでその汚れに最初は気が付かなかった。
 『ネクタイが汚れているとは、どういうことなのだろう。この人は平気なんだろうか。いやいや平気なんだこの人は。この部屋を見れば分かる。あ、白いカッターシャツまで汚れている。ズボンもか?やはりそうだサスペンダーなんかしてオシャレっぽく見えるけど汚いな。でも臭いはしない。肌は汚れてはいない。こんな医者いるのだろうか』

 カタカタ。キーボードの音だ。机の上に17インチモニターの古びたパソコンが置いてあり本体のキーボードとは別に計算機のようなキーボードが接続されていて、それでポツンポツンと何かを入力している。
 「他の先生がねェ、なんでコンピューター使うのーって聞くんですよ・・・」こんな調子で三十分くらい一人で喋りながら、のろのろとカルテを書き、パソコンに入力し、薬の袋に名前を書き入れる(字は達筆である)。それが終わると診察終了のようだ。患部を診る診察なんか数秒だけだ。

 彼は、六年前のとは違う新しい薬を一週間分もらい、やっと解放されてそのビルを出た時は、なんとも言えない空虚さを感じていた。外は初夏の太陽が肌に痛いはど突き刺さり、肌だけが自分自身であるかのようであった。
 周囲には白い眩しい光りがビルや車をギラギラと輝かせていた。しかし、あそこは何だったんだろう。この都会のまん中に自分の日常とはかけ離れた空間を見たような気がしていた。時間の流れも確かに違っていた。が、それも時間がたつにつれて、都会のぐうたらな医者というものはこんなものかもしれないと思うようになっていった。薬さえもらえば。そして、次は他の医院に変えようと決心し、忘れようとした。
夏の出来事

(2)
何を思うや鱗波氏。

〈2〉

 
薬が今日で無くなる。
 爪水虫絶対治したい。
 『あの先生のお喋りの相手はいやだけど、薬は欲しい。他の皮膚科はだいぶ歩かなければいけないし。・・・そうだ。今日は、薬だけもらうようにしよう。あんなぐうたらな医者なんだから、どうせ患部もろくに診もしないんだからくれるだろう。意外と、他の所よりゆうずうがきくかもしれないな、こういう医者の方が』と、彼は、またまたこの兎内皮膚科のビルに向かった。

 入口に“兎内ビル”とプレートが出ているのに気付いた。
『え、もしかしてこのビルは兎内皮膚科の持物。・・・そうか別に必死に仕事しなくてもいいってことか』
 エレベーターに乗った。また来てしまった。
 患者らしき中年の男性がひとり椅子に座り待っていた。
 「すみません、今日は薬だけもらいに来たんですが」
受付の女性に診察券を提出して、彼はすかさず言った。品のよさそうな四十前後のこの受付の女性も、また、この皮膚科を異様な感じにするのに一役かっていた。といっても、別に変わったところはないのだが、その品の良いおっとりした話し方が、他では気にもとまらないことであろうと思われるその普通さが妙にここでは日常からかけ離れたものにしていた。
 「・・あ、でも・・薬だけお出しすることは出来ない・・のですが・・。あのォ、先生に診ていただかないと・・」困ったように、その女性は言った。社会でもまれた中年女性とは違って、たぶんずうっと主婦をしていて何かの理由で最近仕事を始めた、という感じだ。
 「そうですか。じゃ、分かりました」
 『この人と言い合ってもしかたがないんだ。なんだ、ゆうずうきかないのか。もしかして、真面目な所なのか?そんな訳ないよな。ああ、しょうがない、待つしかないか』彼は、聞こえないように小さくため息をついて、中年男性が座る斜前の椅子に座った。
 年期の入った何処から見てもサラリーマン風の、前に座る男性。大人しくジッと座っている。会社の中でも、自我を殺して言われるままで何も考えない、一社員を演じている。従順さが身に染みていて、賢い?大人と言ったところである。
 この異様な空間に背広にネクタイでいるから、ますます性格のない人間に見えるのだろうか。  『そうか、自分もそう見えているのだろうか。しかし、俺はサラリーマンの出来そこないだ。何回も転職し、いくつになっても夢は消えない。万年平。それにネクタイも、もう何年もしていない。ま、しなくてもいい職場ではあるのだけれど。この人のように無彩色のスーツを目立たないように着て生きれば、落ちこぼれなくてもすんだのだろうか・・・。・・ああ、何を俺はこんなところで反省しているのだろう』

 午後の診察開始時間二時をちょっと過ぎた時刻だ。静かだ。まだ診察が始まっていないのだろう。しかし、時間もルーズだ。
 『患者がいるからこんなぐうたらな医院でもなんとなく安心できるんだろう。もし、いつも待合室に誰もいなければ、薬だってもらっても飲めないかもしれない』彼は思った。
 「山田さん」診察室から先生の声がした。その男性が入って行った。最初の二三分は患者の病状の会話があって、また、あの、世間話風お喋りが、この患者のように社会的に地位のありそうな人でも同じように一方的な会話が始まっていた。
 『初診の人ばかりなんだろうか。そうだとすると、あの電話帳の広告の力だろう』等と思っていると、もう一人エレベーターのドアが開いて三十才くらいのOL風の女性が入って来て受付で診察券を出した。
 『この人は、初診じゃない』彼は、自分の常識を少しずつ疑い始めていた。
 『俺が常識に囚われているのか、今ここにいた、常識の巣とでも言わんばかりの精彩のないサラリーマンや、前で順番をやはり無表情で待っている女性の方が、この誰よりも自由や常識に囚われたくないと常々考えている俺よりも柔らかい精神なのだろうか。社会のなかの常識人達は、表面だけではなく中身もしっかり見ているのだろうか。俺も、しばらくこの先生の外観だけでなく精神も観察してみることにしよう』ドア越しに話声が聞こえる中、そんなことを色々と考えていたら、男性の患者が出てきた。 
 「鱗波さん」
 『?今日は(さん)か。そういえばさっきの人も(さん)だったな。気分的なものか?』彼は、ドアを開けて入って行った。
 「お願いします」丸椅子に座りながら言った。
 「良くなりましたか」
 『そんなに早く爪に入った水虫が治るわけないだろ。知らないと思っているのだろうかこの先生は』
 「いいえ、まだ・・です。爪が生え変わるまで薬を呑むんですよね。前の時そうだったんですが。六ヶ月くらいですか」
 「そうだねェ。そんなにはかからないけどネ。薬がいいからねェ。インターンで病院にいたころにね、患者さんにね、私が処方した薬を出してあげましてね。その患者さんがね、来ましてね。薬がよく効いて、すっかり治りましたってね。で私の先生がね、君、どうして治したんだねっていうんですよねェ」
 『また始まった』と、彼は思った。ま、いいや、嫌な顔をするのも大人気ないのかも、と思い生返事をしながら、この先生と周辺に目をやっていた。

 部屋の状態はこの前とまったく同じである。そして、驚いたことに先生の着ているものが上から下まで先週見たものと全く同じものなのである。同じものを何着ももっているのだろうと思ったのだが、どうもそうではないようである。
 先週見た時よりも汚れがひどくなっている。何回もネクタイに目をやり、確かめた。このネクタイに、何か思い入れでもあるのだろうか。
 若い頃に生き別れた女との思い出が込められているのだろうか。そんなことを思わせるような水色の何やら所々にイエローオーカーの模様の入った六、七十才代の人はたぶんしないだろうと思われる色鮮やかなネクタイだ。
 『この人、その女と分かれた時以来ずーっとこのネクタイしているんじゃないのかな』と、願望も手伝って何故かロマンチックな想像が広がっていった。
 『そうだとするとなかなか面白いではないか、ねえ、先生』で、御本人はというと、まるでそんなことはおかまい無しといった表情で、やはり先週と同じく、お喋りしながら書類にゴム印を探して押したり、何やら書き込んだりしている。で、水虫の爪も見ることもなく三十分ほどたって診察は終わった。
 薬を一週間分もらって仕事場へ帰って、なにげなくその袋の中を見た。
 『あれ、これ先週の薬と違うぞ』
前回のはカプセル。今度は何の説明もなく、錠剤が入っていた。彼は、一気に兎内皮膚科への不信感に襲われた。
 『今まで呑んでいた薬は、だいじょうぶだろうか。この薬は飲めない』あのぐうたらなところを少しは好意的にみようとしたり、ひょっとしたら良い人なのかもしれないなと思うようになってきた矢先なだけに怒りのようなものまで込み上げてきた。
 『普通、薬の名前と効能や禁止事項が書かれたものをくれるんだけど。俺もお人好しだな。何かの事情があって最小限の治療体制でやっているのだろう等と思いはじめだしていたけど・・・電話してみよう』 
 「はい、兎内皮膚科でございます」受付の女性が出た。
 「あ、もしもし、私さきほど診察していただきました鱗波ですが、今日頂いた薬、先週いただいた物と違うんですがこれでいいんでしょうか」少々興奮ぎみだったのでいきなり切り出していた。女性はうろたえたようになって、先生に聞きに行った。
 『別に、うろたえることはないだろう。何かこちらが悪いことをしているようじゃないか。変な女だな』
 「もしもし」その女性が電話に戻ってきた。
 「薬を、持って来てくださいということです。先生がそうおっしゃっています」
 「はい分かりました」
 『やっぱり間違っていたのか?なんだかおかしいな』

 彼は、すぐに皮膚科に行って受付で女性に薬を見せた。彼女は、診察室にいる先生の所に薬を持っていった。薬についてなにやら話声が聞こえる。
 「この薬でいいんだけどなあ」先生の声である。
 『いいんだったら、いいと電話で言ってくれよ』彼は思った。
 「味が違うから変えてくれというのもいるんだよ」等とも話している声が聞こえる。
 彼は、呆気にとられていた。そして、何を考えているのかこの先生、前の薬と入れ替えたものを女性に渡した。
 『味が違うから文句を言っていると思っているのかこの先生は』空いた口がふさがらないとはこのことか。
 『こんなことでよく開業しているなあ』そして、「はい・・・」なんの薬の説明も無く窓口から女性は、その入れ替えた薬袋をさし出した。
 『この人たちの問題意識が別の所にある。こちらの薬に対する心配とはよそに、何か他のことを勘ぐり案じているようだ』
 「いや、皮膚の薬であればいいんですよ」とだけ言って薬をもらいそそくさと帰った。相手にするのも不愉快であった。
 『この医者は、ほんとにおかしい』
夏の出来事

(3)
この先生は何者なのか。
不思議な感覚に心がゆれる。

〈3〉

彼は、会社に戻り、デスクのコンピューターで、薬の名前で効能等を調べら れる“薬110番”というホームページを開き、“イトリゾール”という今もらったカプセルの名前を検索した。モニターに説明が表れた。
............................................................................................
成 分
イトラコナゾール itraconazole
分 類
トリアゾール系抗真菌剤
効能効果
皮膚糸状菌 (トリコフィトン属、ミクロスポルム属、エピデルモフィトン属)、カンジダ属、マラセチア属、アスペルギルス属、クリプトコックス属、スポロトリックス属、ホンセカエア属による次の感染症。
(1)内臓真菌症 (深在性真菌症):真菌血症、呼吸器真菌症、消化器真菌症、尿路真菌症、真菌髄膜炎
(2)深在性皮膚真菌症:スポロトリコーシス、クロモミコーシス(3)表在性皮膚真菌症:白癬 (体部白癬,股部白癬、手白癬、足白癬、頭部白癬、ケルスス禿瘡、白癬性毛瘡)、カンジダ症(口腔カンジダ症、皮膚カンジダ症、カンジダ性毛瘡、慢性皮膚粘膜カンジダ症)、癜風、マラセチア毛包炎
用法用量
1日1回、表在性皮膚真菌症には50〜100mg、その他には100〜200mg、食直後 (適宜増減)。1日最高200mg

禁忌
(1)テルフェナジン,アステミゾールを投与中の患者
:心血管系の副作用が現れるおそれがある。
(2)トリアゾラムを投与中の患者
:トリアゾラムの作用が増強及び延長される可能性がある。
(3)本剤に対して過敏症の既往歴のある患者
(4)重篤な肝疾患の現症,既往歴のある患者
:不可逆的な肝障害に陥るおそれがある
(5)妊婦又は妊娠している可能性のある女性
:動物実験 (ラット)で催奇形性が報告されている。

併用禁忌
(1)テルフェナジン、アステミゾール
:まれにQT延長、心室性不整脈 (torsades de pointesを含む)、あるいは外国では心停止 (死亡を含む)などの心血管系の副作用が報告されている。(2)トリアゾラム
:代謝遅滞による血中濃度の上昇、作用の増強,及び作用時間の延長が報告されている。本剤は肝チトクロームP450 3Aを阻害するので、併用により前記薬剤の代謝を阻害し、血中濃度を上昇させることがある。
副作用例
(1)急性心不全
:骨髄移植後の免疫抑制状態の患者において、まれに急性心不全が現れることがある。
(2)肝臓
:まれに黄疸、ときにGOT、GPT、LD、γ‐GTP、Al‐P、総タンパク総コレステロール、血清ビリルビン、LAPの上昇等が現れることがある(3)(外国症例)
:皮膚粘膜眼症候群(Stevens‐Johnson症候群)
:外国においてまれに皮膚粘膜眼症候群(Stevens‐Johnson症候群)が現れるとの報告がある。

薬効薬理
 作用機序:真菌のチトクロームP‐450に特異的に作用し、細胞膜主要構成脂質のエルゴステロール生合成を阻害。

製品例
イトリゾールカプセル50 (ヤンセン協和-協和発酵)』(ホームページ“薬110番”を抜粋。二千年八月)
............................................................................................
 長々と詳しく書かれていた。専門的なことはよく分からず、ながして読んだ。
 『確かに皮膚の薬だ。間違い無い。とすると、今日もらったこの薬は』メモしておいた二つ目の薬も同じように検索して調べたが、これもやはり間違いなく水虫の薬であった。
 『薬が正しければ、問題はない。大きな看板を都内のど真ん中に出し、長く皮膚科をやっているのだろうから心配ないだろう。しかし、おかしな医者だなあ。なんだかちょっと面白くなってきたな』
 彼は、物好きにもそんなことを思い始めていた。
 鱗波海太は、会社から地下鉄で三十分ほどの所のマンションの五階に住んでいた。妻は、三つ年下。活発、且つ社交的な性格。で、海太と同じく整理整頓好きで、ダイエットしなくてもOKタイプの女性である。昼間は、スーパーでパートをしている。
 子供は、中学三年の男の子がひとりいた。家族三人とも自立しているようで、それぞれの世界を、それぞれに生きているように見えた。悪く言えば、お互いに無関心である。ただ、同じところに住んでいるだけといったところだ。子供の進路等の話し合わなければいけないことも、本人が無難な進路を選ぶので議論する余地がない。問題を起こすのがいやなのか、口論がめんどうなのか、とにかくやることすべてが『あ、そう』で片付いてしまう。
 最初の頃は、彼が会社を何回か変わり、その都度妻と口論が絶えなかったのだが。結婚生活、八月でちょうど二十年。彼にとって、味気ない生活がここ何年か続いている。
 『これでいいのか』と思いながら、なにも考えない。何もしない。と、いったようにまた一週間が過ぎた。
 日常にないもの、自分の生活には見る事のない感覚。どこか心の片隅にワクワクする何か、と同時に嫌悪感も味わいながら、いつのまにか、また兎内ビルの前に立っていた。
 息を大きく吸い込み、エレベーターに乗った。
 二階でドアが開いて、いつものように診察券を出した。今日もサラリーマン風の初めて見る患者がひとりいた。

 あっ、何かおかしいと待ち合い室に入った瞬間、全身で感じていた。こういうことは、目で分かることなんだけども。それは、待合室の天井に二灯のダウンライトが付いていて、その一灯が点滅していたことだ。蛍光灯の電球が切れそうで点滅していることなど何処にでもあることだが、ここは部屋が狭く、二灯しか照明器具がないために、一灯が点滅すると部屋が明るくなったり暗くなったりの差が激しい。
 『あー、次から次から、イライラさせてくれるなあ』と思いながら椅子に座った。前ではやはり、中年のサラリーマンが背中をまるめて座っている。
 『この人、こんなに明るくなったり暗くなったりしているのに平気なのだろうか』彼は、不思議だった。ただただ耐えているのだろうか。それとも、気にならないのか。
 そのうち、男性は、診察室から呼ばれて中に入って行った。その人のようにしばらくは、じっと耐えていた。まるでどこまで耐えられるかの実験室に入れられたようである。受付の女性も気が付いているのかいないのか、知らん顔である。
 『これなら、消してくれた方がいいのに』明るくなったり暗くなったりというのはかなり気分がめいってくるものだ。
 彼はそう思ってスイッチを探した。これだけ周りのことに無関心であれば、こちらでスイッチを探して切ってしまってもへいきだろうと思った。しかし、いくつかあってどれが待合室のものか分からなかった。
 『あやまって診察室の電気なんか消したらあの先生頭から湯気出して怒るのだろうか』等と考えながら。
 「すみません。電気が点滅しているんですけど、消していいですか。その方がいいと思いますが」と受付の女性に言った。
 「あ・・」と言って彼女は、立ち上がり先生の方へ行って
 「電気を消した方が・・・」とか、何か言いながら待合室に出てきた。
 「取り替えようと思ったんですが、高くてとどかなくて・・・そうですね、消した方がいいですね」と言って消して、また中へ入っていって、先生に「消してきました」とか、何やら二言三言、言葉をかわしていた。
 『先生も事情は、分かっているんだ』分かっていても何もしない、なんとも思わない。気にする方がおかしいって感じか。また、ため息がでた。
 そして、この女性もたぶん、もちろん此処のおかしさを感じているのだが、この先生が、ねじ伏せてしまうのだなとも、この時感じた。
 この後、前の人が終わり診察室に呼ばれた。先週と何も変わらない本や紙の山の部屋。それに、なんと着ているものまで同じもので、ますます汚れがひどくなっている。で、先生といえ
ば、落ち込んでいるようでもなく相変わらずのお喋りである。
 「今飲んでいる薬の副作用とかは、どうなんでしょう」話の途中になにげなく聞いてみた。
 「ないですヨ。いつのまにか皮膚がキレイになって水虫がなくなっている。それが副作用だよ」と屈託もなく話している。お伽の国のぐうたら先生とでも言えば愛されるかもしれないが、これは現実である。それに、医療である。と、思いながらもここまで見ていて、この現実離れの兎内皮膚科に何かを期待する自分がいることを、この時また感じていた。
 風変わりで、個性的で、世間に媚びない。皮膚科なんてそんなおおげさに考えることないんだ、と、言いたそうな、人生なんて部屋が散らかっていたっていいんだよ、とか、君の窮屈で退屈な考え捨ててしまえ、なんて言っているようだ
 『なかなか、おもしろいじゃん』
いやだなあ、と思う気持ちが、不思議と先生頑張れの心境に変わりつつあった。会社に戻り、我が家に帰った時にふと思い出した時には、なんだか懐かしさのような感覚まで味わっていた。
 『不思議な先生だな』
と思い、一週間、自分の生活の中でお伽の国の先生が消えては現れしていた。
 もう四回目の一週間になるのか、また兎内ビルのエレベーターのボタンを押した。
 『あれ、やすみか?』
待ち合い室にも、受け付けにも、誰もいなかった。
 「すみません、お願いします」
受付をのぞきながら声をだした。
 「・・・・・・」何も聞こえない。
待ち合い室の照明は、この前のままで、一灯だけが点灯し、受付には明かりがついていた。
 『ほんとうに、来るたびに何かみせてくれるなあ、ここは。一寸待ってみるか』
すると、診察室から先生が顔をだした。
 「なんだね」
 「え、あ、薬をもらいに来たんですけど」
 『なんだねは、ないだろ、この先生何考えてんだ』先生は受付の部屋に入り何やら引っぱりだした。
 「薬と言われてもね」と、悪気も無く話している。
 『あ、何かこざっぱりしているなと思ったら

 今日は先生の服装が新しくなっている。夏らしくネクタイがなく、カジュアルな清潔そうなシャツ姿だ。いつも、そんなふうにしていたら先生カッコイイのに、心境の変化か?何かあったか?』などと思いながら。
 「看護婦さん(そうは思わないのだが)、今日は、お休みですか」この変な先生に愛想がつき辞めたんだろう、等と考えながら、聞いてみた。
 「うん?ああ、あの人、弱い人でね」
 「あ、そうですか」あまり深く聞きたく無かったので生返事のように答えた。
 「旦那を亡くして戻ってきたんですよ」
 『そんなことまで聞きたく無いのに』
 「この辺の方ですか」心とは裏腹に喋っていた。
 「この、近所ですヨ・・・こんな人がいましたよ。若い時に財産家に言い寄って二十歳年上の人と結婚しましてね、一年後に、その旦那が死にましてね。財産が自分のものになってね、それで、また、資産家と縁があって結婚しましたら、また、その旦那が亡くなりましてね」
 ここの受付の女性のことではなさそうだ。なぜ、ここでそんな話をするのかわからなかった。次から次へと話が変わり、人なつっこそうに屈託も無くよく喋る。このことだけだと愛想のいい親しみやすい先生だと思ったかも知れない。
 「あ、そうですか、恐いですね」そんな会話をしながら先生は、受付の窓口で薬を袋に入れ、渡してくれた。受付の部屋で棚から薬袋と薬を取り出し必要なことを書き込むだけで十分もかかっていない。
 『いつも、こうだといいのに、診察もしないのだから診察室で時間をかける必要ないはずなのに』

 いつもの事ながら、またまた、心をかき回されてビルを出た。
 「まぁ、いいか」しかし、外の空気は夏の暑さはあったが、なぜか、さわやかに気持ちよかった。
 もう四回目の一週間になるのか、また兎内ビルのエレベーターのボタンを押した。
 『あれ、やすみか?』
待ち合い室にも、受け付けにも、誰もいなかった。
 「すみません、お願いします」
受付をのぞきながら声をだした。
 「・・・・・・」何も聞こえない。
待ち合い室の照明は、この前のままで、一灯だけが点灯し、受付には明かりがついていた。
 『ほんとうに、来るたびに何かみせてくれるなあ、ここは。一寸待ってみるか』
すると、診察室から先生が顔をだした。
 「なんだね」
 「え、あ、薬をもらいに来たんですけど」
 『なんだねは、ないだろ、この先生何考えてんだ』先生は受付の部屋に入り何やら引っぱりだした。
 「薬と言われてもね」と、悪気も無く話している。
 『あ、何かこざっぱりしているなと思ったら

 今日は先生の服装が新しくなっている。夏らしくネクタイがなく、カジュアルな清潔そうなシャツ姿だ。いつも、そんなふうにしていたら先生カッコイイのに、心境の変化か?何かあったか?』などと思いながら。
 「看護婦さん(そうは思わないのだが)、今日は、お休みですか」この変な先生に愛想がつき辞めたんだろう、等と考えながら、聞いてみた。
 「うん?ああ、あの人、弱い人でね」
 「あ、そうですか」あまり深く聞きたく無かったので生返事のように答えた。
 「旦那を亡くして戻ってきたんですよ」
 『そんなことまで聞きたく無いのに』
 「この辺の方ですか」心とは裏腹に喋っていた。
 「この、近所ですヨ・・・こんな人がいましたよ。若い時に財産家に言い寄って二十歳年上の人と結婚しましてね、一年後に、その旦那が死にましてね。財産が自分のものになってね、それで、また、資産家と縁があって結婚しましたら、また、その旦那が亡くなりましてね」
 ここの受付の女性のことではなさそうだ。なぜ、ここでそんな話をするのかわからなかった。次から次へと話が変わり、人なつっこそうに屈託も無くよく喋る。このことだけだと愛想のいい親しみやすい先生だと思ったかも知れない。
 「あ、そうですか、恐いですね」そんな会話をしながら先生は、受付の窓口で薬を袋に入れ、渡してくれた。受付の部屋で棚から薬袋と薬を取り出し必要なことを書き込むだけで十分もかかっていない。
 『いつも、こうだといいのに、診察もしないのだから診察室で時間をかける必要ないはずなのに』

 いつもの事ながら、またまた、心をかき回されてビルを出た。
 「まぁ、いいか」しかし、外の空気は夏の暑さはあったが、なぜか、さわやかに気持ちよかった。
夏の出来事

(4)
鱗波海太、街の雑踏に。

〈4〉

 
なんの変化も無くまた、一週間が過ぎた。もう習慣のようになりつつあった兎内皮膚科通い。いつの間にか、また待合室にいる、と言った感覚だ。受付の女性も止めずにいたみたいだ。
 このへんな先生に慣れてしまったのだろうか。それに、照明も両方ついていて部屋が明るくなっていた。中には診察中の女性がいるようだ、いつもの話声が聞こえる。
 鱗波海太は、もう慣れたよと言わんばかりに何も考えずに待っていると、数分してエレベーターのドアが開き、息をするのも苦しそうに太った六十代の女性が入ってきた。見ると、胸のあたりはケロイド状にただれている。右腕は、左腕の二倍くらいに腫れあがっている。彼は、心無くギクッとしたが、
 『ああ、きのどくだなァ、水虫よりこういう人が、医者を必要としているんだ』と、心を落ち着かせた。
 その女性は、肩で息をしながら少しの動作も大儀そうにゆっくりと歩き、彼の斜前の椅子に座った。これが医者の世界なんだな。人間の声が、心からの声が聞こえる所か。
 若い頃、彼は、清掃のアルバイトをしていた頃の事を思い出していた。東京女子医大病院のゴミを袋につめ、床を掃き、拭くという仕事だ。毎日、救急室にも入り、注射器やゴムチューブに血がついている使用済の医療用具やゴミ等を集めたりもした。
 最初は、この部屋で今まで生死をわける行為があり、苦しんでいる人がいたんだと思うと、なんと、濃い時間がここにはあることかと深く考えさせられたことがあった。しかし、ここで働く若い看護婦たちは何ごとも無いかのように、血を見ようが、傷を見ようが、死を見ようが、顔色ひとつ変えず働いている。
 ほんとうに、人間に必要なものって何。アルバイトをしている時も、思った。これは、ただの感傷的なつまらない考えなのだろうか。こんなに深くて、深刻な現場にいて看護婦さんたちは、化粧をしているし、ヘアースタイルも普通にオシャレだ。誰も、哲学者のような難しい顔をした人はいない。
 『ほんとうに、人間に必要なもの』
彼は、心の中で考えようとしたがやめた。
 そんなことはどうでもいいんだ、この前にいる女性のように苦しんでいる人がいて、外には、はしゃぎまわっている高校生がいる。ただそれだけのことなんだ、その両方を受け入れることなんだ。これが、必要なんだ。
 彼は、考えを止めた時、結論を得た。
 前の患者の診察が終わり、名前を呼ばれ中に入っていった。先週着ていた服装と同じものを着ている先生がいた。
 『なるほど、とことん汚れるまで着て、新しいものに替えるというスタイルだな』以前より気にならなくなっていた。いつものお喋りが始まった頃、ドアが開き、さきほどの太った苦しそうな女性が入ってきた。息づかいで彼はすぐにその女性だと分かったが先生は気付かぬ様子だ。その時。
 「先生、奥さんが、来られました」と、受付の部屋から聞こえた。
 「・・・・・・・・」
彼は、先生を見た。先生は、聞こえぬようすで、何時ものようにカルテに書き込んだり、ハンコをおしたりしている。
「どこにいったのかな」ハンコを探しているが、なかなか見つからない。
 「なんのハンコですか」と、聞いてみるが上の空である。目の前にあった。動揺しているのかもしれないと、ふと思った。そのうち、奥さんと呼ばれた太った女性は、また、待ち合い室にもどった。
 『この先生、いったいどう言う人』
あらためて思わざるをえなかった。もう、考えるのをやめようとしたのに。診察が終わり、待ち合い室で薬が出るのを待っていると、奥さんが中に入っていって先生に何やら話している。
 「どうしたの」
 「なぜ、来たの」などと、
優しくいたわる先生の声だけ聞こえる。
 『ここは皮膚科だろ、それなのに奥さんがあんなひどい皮膚病になっているとは。あれは、皮膚病ではないのかも。いや、それにしても・・・。もしかして、先生、奥さんに薬物実験もしたのか』想像がぐるぐる頭をめぐった。
 いつもと何も変わらない表情の受付の女性が「鱗波さん」と名前を呼び、薬をくれた。エレベーターのボタンを押し中に入って、ドアの方に振り返った時、奥さんがゆっくり歩いてこちらに向かっていた。
 「下ですか」
閉まりそうなドアを開けて、その奥さんに言った。
 「う・・」
声が出ないのだろう、苦しそうに首をかすかに横に動かした。
 『この上階に住んでいるんだな、やはり、ここの先生のビルなんだろう』

 ドアが閉まり、ため息が出るようにエレベーターは一階まで降りて行った。
 来るたびに、何か変わったことがおきるこの皮膚科。彼は、この先生の医療に対する処置には、多少不安もあったが、なんとなく他の医者に替える気にもならず、いや、それより、ここで爪水虫を完全に治してやるぞ、といったような、へんな意気込みまで生まれていた。先生も奥さんにやさしいところがあって、なかなかいい男と言った感じに思えなくもなかった。
 薬も、効き始めていて皮膚の方は、きれいに水虫は消えていた。後は爪がはえかわるまでこの薬を飲めば完全に治るだろう。
 彼は、その日、会社が終わり週末によく行く焼き鳥屋のほうに無意識に足が向いていた。今日は火曜日だ。いつもだったらまっすぐ家に帰り、ナイターでも見ながら食事をし、その後は寝室のパソコンで自分の世界に入って、いつのまにか寝てしまうはずなのだが。

 「いらっしゃい。ひとり?」
マスターが迎えてくれた。焼き鳥屋なのになぜかここの主人のことをマスターと呼んでいた。六十前後の小柄で中肉中背、どこか品のいいところがあるからだろうか。
 「今日はね。なんかふらっと足がね」
細長い店で、一階は入口の方にテーブル席が三つほどと、カウンターが奥にあり、そのカウンターの一番奥に海太は座った。
 「ビールにしようかな。それと、枝豆、タン、ハツ、レバ」
おしぼりと突き出しをもってきた中年の女性に言った。主婦のアルバイトといった感じだ。
 『そういえば兎内皮膚科の受付の女性もそんな感じだが、この人とはちょっと違うなぁ』そんなことを考えながらまたあの先生の世界をぼんやり思い出していた。
 ここのお客は、ほとんどがサラリーマンである。時間がたつににつれて座席はうまり会社帰りのグループが、それぞれの話題で賑やかにざわめいてきた。会社から離れて少しでもそのかた苦しい気分を切り替えようとしているように見えていた。
 仕事の続きで呑んでいる人たちもいるだろうが、いつもの緊張から解放されたくて来ている。だが、今日の鱗波海太は、違っていた。日常から逃れたくて来たわけではなく、日常に会いに来たような気持ちだった。同じようなサラリーマンや呑んベーたちのいる所。会社も日常、呑み屋も日常。

 「はい」ビールと枝豆を女性が持って来た。
 「いつも一緒にくる人、今日は来ないの」とマスター。
 「呼べばくると思うけど、忙しそうだしね。ま、たまにはゆっくりと一人で、なんてね」仕事仲間のたまり場になっていた。

 政治の話しに夢中になっているグループ、会社の愚痴や、同僚の話題があちこちで盛り上がっていく。
 そういえば、あの先生は飲みに行ったりするんだろうか。そんな日常があるのだろうか。また、頭の中をよぎった。

 「ここの焼き鳥旨いんですよ」お世辞じゃなくそお思っている彼の所に、串にさした焼きたてが来た。

 一時間ほどいて、ビール二本と焼き鳥数本で店を出た。単純なものであるほろ酔い気分で、すっかりあの皮膚科のことも忘れてしまっていた。
 一週間がまたなんの変わりも無く過ぎ、兎内皮膚科の診察室にいた。先生は、やはり先週と同じ服を着ていたし、部屋も本や書類の山が相変わらずそのままであった。何も変わっていない。
 「お願いします」彼は、先週の奥さんのことを先生が気にしているかもしれないと感じ、なるべく何ごとも無かったようにふるまうようにした。
 「どうですか」先生が言った。
 「だいぶよくなりましたが、やはり爪の方がまだ・・」
靴下を脱ぎ見せたかったが、先生は、見る必要がないといったようすである。
 「あなた、ここにケロイドあるね」先生が、いきなり言った。
 「ああ、これ、これはもう治りませんよ」彼は、笑いながら言った。確かに、鱗波海太の左腕にはちょっと見ギョットするほどの火傷の跡があったが、彼自身大人に成ってからはほとんど気にしていなかった。
 『先生、いきなりこんなことを言い出すのは、やはり先週の奥さんの異常な姿のことで、人目を気にしているんだな』彼は思った。
 「・・」彼の、さらっとした態度に先生も安心したかのように顔がゆるんだように見えた。
 『先生も弱いとこあるんだな』
なんだか今までの我が道を行くタイプの人で、人目など全然気にしない人かと思っていたのが一気に崩れ去ったようなきがした。
 『先生、その方が人間らしくていいかも、ついでに部屋も片付けたらいいのに』などと思った。

 慣れなのだろうか、もしくは、この先生が意外に小心者なのではないかと感じてきたからなのか、最初のこの皮膚科に対する嫌悪感は薄れ、何も気にならずに診察を受けるようになっていた。
 もしかして、自分はこの変な先生に、社会での出世コースに乗り切れなかった自身を慰めてもらっているのではないかとも感じていた。こんなに仕事場が汚くても仕事している。小心者でも気にすることはない。価値観を変えて気楽になろう。そんな言葉が頭をめぐり始めた。この先生がそんな考えを持っているとは思わないし、小心者の自分を気にしていないとも思えないのだが、なぜか彼にはそう感じた。

 そして、この日の診察も終わり、また一週間が過ぎた。 
 この先生、この先どんな面白い展回を見せてくれるのか、今度は期待のような変な気持ちで鱗波海太は兎内ビルの前に立っていた。
 エレベーターに向かいボタンを押した。
 ドアが開いた。中に入った。
 「・・・・」

 『しばらく、休みます』

 エレベーターの中の階を押すボタンの上に小さな貼紙がしてあった。ボタンを押しても何の反応もない。
 「へーっ、これが落ちなの。先生。冗談きついな。まいったなァ」
 彼は、数時間して、この先生から解放されたような気分になっていた。そして、翌日、会社からこの兎内皮膚科より十分ほど遠くにあるクリニックを訪ねた。
 皮膚科、内科、アレルギー科、小児科、形成外科などがあり万全の設備で対応していた。これが、普通の医者の姿だ、と彼は思った。待ち合い室は明るく、変なイライラもないただただ合理的に流れていく診察手順。
 ここでは、血液検査もし、飲み薬の他に塗り薬も各二週間分(兎内皮膚科は一週間分)出た。飲み薬は同じイトリゾールではあったが注意書きのカードをくれた。

 そこには・・・


 〈注意〉現在のんでいるお薬がある方は、必ず担当医師にお申し出下さい。また、他の心療科や病院・医院を受診される時には必ずイトリゾールカプセル50を
飲んでいることをお伝え下さい。

 と、書いてあった。


 血液検査は、飲み薬のイトリゾールの肝臓への副作用を調べる為ということだ。塗り薬は、飲み薬が免疫性まで奪ってしまうので塗るようにとのことである。兎内皮膚科は、ただ薬をくれただけだ。この薬について何の説明もなかった。それどころか、副作用はないと言っていた。なんということだ、ホームページで調べた時に記載されていたのだ。もっとよく読んで、あの時、追求するべきだだったのか。
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禁忌
(1)テルフェナジン,アステミゾールを投与中の患者
:心血管系の副作用が現れるおそれがある。
(2)トリアゾラムを投与中の患者
:トリアゾラムの作用が増強及び延長される可能性がある。
(3)本剤に対して過敏症の既往歴のある患者
(4)重篤な肝疾患の現症,既往歴のある患者
:不可逆的な肝障害になるおそれがある
(5)妊婦又は妊娠している可能性のある女性
:動物実験 (ラット)で催奇形性が報告されている。

 
併用禁忌
(1)テルフェナジン、アステミゾール
:まれにQT延長、心室性不整脈 (torsades de pointesを含む)、あるいは外国では心停止 (死亡を含む)などの心血管系の副作用が報告されている。
(2)トリアゾラム
:代謝遅滞による血中濃度の上昇、作用の増強,及び作用時間の延長が報告されている。本剤は肝チトクロームP450 3Aを阻害するので、併用により前記薬剤の代謝を阻害し、血中濃度を上昇させることがある。

 
副作用例
(1)急性心不全
:骨髄移植後の免疫抑制状態の患者において、まれに急性心不全が現れることがある。
(2)肝臓
:まれに黄疸、ときにGOT、GPT、LD、γ‐GTP、Al‐P、総タンパク、総コレステロール、血清ビリルビン、LAPの上昇等が現れることがある(3) (外国症例)
:皮膚粘膜眼症候群(Stevens‐Johnson症候群)
:外国においてまれに皮膚粘膜眼症候群(Stevens‐Johnson症候群)が現れるとの報告がある。
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 ホームページ“薬110番”に「禁忌」「副作用例」として確かに書かれている。
 俺は、人がいいのか、なぜ、あんな見るからにおかしいと分かる所に何週間も通っていたのか。
 また、何とセンチな気分にまでなっていたことか。

 診察が終わり、鱗波海太は、サラリーマンがお昼の食事をするために
溢れ出た街の雑踏に吸い込まれるように消えていった。



                    おわり


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