曹操(155〜220年)

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字は孟徳。前漢の宰相曹参(そうしん)の子孫。祖父は宦官(かんがん)の曹騰(そうとう)で、養子となった父嵩(すう)は、
大尉の位を一億銭で買い取った人物で「入り婿、宦官の孫」と曹操がさげすまされたのは、このためである。
曹操は、少年時代から機知が働き、権謀術数に長けていたが、不良となり放蕩無頼の生活を送った。ただ、武芸
は抜群で、兵法書を好み、「孫氏」注釈書を著している。当時の人物批評の大家許子将(きょししょう)から、「治世
の能臣、乱世の姦雄]と評された。

184年、黄巾の乱がおこると、近衛騎兵隊長に任命され、反乱軍を討伐。その後、首都防衛のため西園八校尉が
新設されると典軍校尉となつた。この時期何進と袁紹が反宦官クーデターをおこすが曹操は参加しなかった。
やがて都を制圧した董卓に協力を求められると、洛陽を脱出陳留で資財を投じて反董卓の兵を挙げる。
時に曹操35歳、兵5千、姦雄の出番である。
















劉備(161〜223年)

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字は、玄徳。前漢の景帝の子、中山靖王劉勝の子孫と称した。身長は、七尺五寸(173センチ)、手は膝まで届く
ほど長く、耳は自分でみえるほど大きかった。(んな、ばかな)
幼くして父を亡くし、母と草履や筵を織り生計を立てていた。15歳のとき、遊学に出、儒学者の盧植(ろしょく)
もとで学んだか゛、もっぱら学問より男の付き合いを重んじた。

黄巾の乱がおこると、関羽と張飛らと共に周辺の若者を集め討伐軍に参加。
























関羽(?〜219年)

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字は、雲長。劉備と張飛との3人は、挙兵以来の関係で、寝食をともにし兄弟同然の中だったという。
「演義」の桃園の義は作者の創作であるが、彼らの間柄をよくあらわしている。
関羽といえば、「義の人」のイメージが強い、
























張飛(?〜221年)

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字は、益徳(翼徳)。年長の関羽を兄とあおぎ、その武勇は関羽とともに「兵一万に相当する」といわれた。
<長阪坡(ちょうはんは)の戦い>
208年劉備が曹操に追われ、妻子とはなればなれになってしまい(「劉備は妻子を捨てて、諸葛亮、張飛、
趙雲ら数十騎で逃げた」と、正史蜀書先主伝より)惨憺たる敗北をした時、張飛は、殿をつとめる。
張飛はただ一騎で橋の上に立ち「われこそは張翼徳なり、我と思わんものは来れ、死を決すべし」と叫ぶ、「敵みな
懼れ敢えて近づく者なし」と、曹操の大軍をその場にくぎ付けにした。おかげで劉備は助かることができたのである。


























諸葛亮(181〜234年)

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字は、孔明。小さい頃父珪(けい)を失い、叔父の諸葛玄に引き取られる。叔父の死後襄陽(じょうよう)の西、隆中(りゅうちゅう)
で晴耕雨読に励み処士の徐庶(じょしょ)らと交わり、「臥龍」(がりょう)と称された。身の丈八尺(185センチ)とある。
207年、徐庶の推薦により劉備は、「三顧の礼」をもって諸葛亮を招く。そのとき、「天下三分の計」を劉備に示し、以来
劉備と、「水魚の交わり」を結ぶ。