我が家のニュース編
 




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2005 1/01日 賀正  


明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。!

2004 12/31日 父帰宅  


13:15’に病院に迎えに行き、連れ帰る。みぞれの中店の前に車を止められず車椅子に乗り換えて中栄信用金庫の前から店へ、階段を手助けしながら自力で2階え、戻るなり我がままナ雰囲気、自分のうちに帰った安堵間だろう。それからソファーをつたって向かいに移動するなり、意欲的に活動しようとする姿勢は、自分を戻そうと言う意欲が感じられる。後は母が絶えられるかだ。本人のためには自宅介護がいいように強く感じる。

2004 12/29日 明幸夫婦帰省  


正月を秦野で過ごすので今朝かえってきました。AM2:00の予定が御殿場秦野間が事故渋滞で246号に迂回しても渋滞で4:30’着でした。植田のお父さんが丹精込めて作った野菜を積んで、ありがとうございますいつもたくさんの野菜、米20kgも。例年とは違う感慨のお正月だと思いますが良い年をお迎え下さい。
今年はそんな訳で早くお飾りもつけて正月準備も早く出来ました。今日は片付けと庭の掃除、ミニチュアの飾りを作る予定。


2004 12/26日 メリークリスマス  


昨夜は娘とフィアンセの門出を祝ってクリスマスディナーを、いい夜でした。

2004 12/24日 大安・クリスマスイブ  


大安なので仙波家にお祝いに行きました。かえって気を使わせて恐縮しました。原宿の叔父の所まで送っていただき有難うございました。当事者の久治君もクリスマス商戦と年始商戦で忙しいとの話で、充実しているようです。叔父も体調管理に苦心しているようです。が元気そうでした。

2004 12/23日 年末小掃除 


大げさですが大掃除までいかない掃除です。妻も多忙なので少しずつ、今朝は幼稚園の販売表や注文票の校正修正をやってからの掃除、幸昇は部の納め会で朝帰りでまだ寝ている。暖かい日なた網戸の洗いが昼に終わる。

2004 12/18日 順天堂体操競技部納会 


アテネの金と今後の学生の活躍を祈って納会に参加しました。昨年は鹿島の褒章祝いと加納先生の教授昇進を祝う会でしたが今年はもっと歴史的でした。体操日本の復活の立役者私もちょっと仲間に入れてもらいました。


2004 12/14日 訃報連絡 


昨夜、友人の円城寺さんから高校の恩師で順天堂卒業生の近藤矩夫先生が亡くなったと知らせてくれました。まだ退職して何年も経っていないので無念と思います。肺がんが転移してという事のようで年金も貰わないでなくなるのは気の毒です。ご冥福を祈ります。

2004 12/12日 携帯を紛失 


昨日は、父の面会後、本厚木で、平養時代の教え子の角田くんと秋場さん、橋本隆さんと忘年会そのあと3次会の地元の店で歌って帰るが、どうも携帯を忘れてきたようだ。オーナーにメールを出してあるがはっきりするには明日の夜か!

2004 12/09日 慰労会 


父の見舞いに毎週きて頂いている俶子さん、美枝子、裕子さんと病院の帰りに夕食を食べました。ちょっとした慰労会になりました。父が倒れて半年近く、週T回でも長くなると大変だし、交通費だけでもかなりかかる。親族のいたわりを感謝するしだいです。

2004 12/07日 訃報 


従兄の靖敏さんは6日の9時頃になくなりました。昨夜お悔やみの電話お入れ、今日通夜なので弔電を打ちました。明日告別式ですが田舎の兄達と相談して後日墓参りに行くようにします。

2004 12/05日 従兄、危篤 


晋也さんからの夜中のメールで靖敏さんの危篤の知らせ、5時に12月8日の日のテスト問題を作ろうと起きてメールを見たら、....,回復を望みたい、今日中に試験をつくり、明日段取りをして、鳥取へ備えたい。

2004 12/02日 デジカメが戻る 


丹沢湖マラソンの駐車場でカメラを落としたと思い、次の朝探しに行きましたが見つからず、大会本部に問い合わせたところ、届いていたようで無傷で戻ってきました。駐車場で落としたのか、バスの移動中なのかはわからないが、届けていただいた方に感謝する次第です。大会に行く途中の富士が真正面に見えて居たので撮っておいた写真のみですが


2004 11/28日 丹沢湖マラソン 


暑いぐらいの好天に恵まれました。紅葉は終わった感じですが、桜が咲いていて、異常気象を感じるしだい。走る仲間や家族に会ってほのぼのとした気分でしたが、デジカメを何処かに忘れたか、落としたようで写真がありません、

2004 11/27日 最後の渋柿 


来週まで待つと渋柿が全部熟してしまうので、取り残しておいた渋柿を全部取り、欲しい人に持っていってもらい、10個ほど我が家もつるして干した。今年は寒くないのでかびたりして難しい。いよいよ紅葉も深まりを増し、木枯らしの季節だ。

2004 11/23日 勤労に感謝する日 


日本版収穫祭ではないのか!、収穫祭のような日になりませんでした。午前中は丹沢湖に備え、1時間ジョグ、午後は知人の見舞いに国立療養所秦野病院に、その後父の病院へ、介護のケアーマネージャーと合流してプランの検討を含めた相談をした。

2004 11/21日 渋柿を取る。 


干し柿のリクエストの多い家のはす向いの渋柿が熟し、葉も紅葉して葉と実を見分けにくい状態、少し干し柿用に取らないと欲しい人にあげられないので金木犀や庭の垣根の選定後に実を取り欲しい人にもっていく、最後の最後ではしごの二段目の横木が抜け落ち、落下、幸いに怪我に至らず良かった。老化を感じるが原因は目の視力の違いが大きい気がする。

2004 11/15日 父は転院します。 


本日午後、秦野病院の痴呆病棟に転院します。予想外の展開で地元に戻るのですがこれからが再スタートです。本人は昨日は立つ練習をしようと積極的でした。秦野病院には教え子の水谷さんの奥様安子さんが看護士として働いています。ちょっと心強いです。

2004 11/13日 土谷家でガーデンパーティー 


予てより計画していた焼きサンマ&ベーコンでのガーデンパーティーを14:00より、午前中にサンマと肉・レバーを燻煙して肉は土谷家で加熱処理。単に焼きサンマとベーコンと思っていたのに豪華な食事と酒で大歓迎していただき感激しました。お兄さん夫婦の赤ちゃん「ミユ」ちゃん、「さくら」・「ももこ」のペット犬、含めて11人、果報というか繁栄というか贅沢というか合う言葉が見つからない。好天に恵まれ、おいしい銘柄の酒をいくつも出していただき感激した次第。花粉か風邪かわからない体調で望んだので少し舌が狂っていたように思うが味はすっきり系でよい酒を吟味して出していただきありがたくご馳走になりました。焼きサンマは謙介さんが自ら備長炭で柚子やだいこおろしで豪快に焼き楽しい1年の収穫祭のような和やかな時間を過ごさせていただきました。最後のブランデーも香りの良い高級なもの、炊き込み御飯のシンプルな味酒飲みの私にはこの上も無い贅沢な空間、ご馳走様でした。ベーコンは洋酒やビールには合うと思います、出来立てのベーコンは格別の味、是非チャレンジしてください。土谷家・橋本家の繁栄を心より祈念いたします。

2004 11/05日 田舎の従兄が病気入院 


兄からのメールで「広岡の靖敏さんが入退院をくりかえしている」と、父方の唯一の従兄で私たちにとっては兄貴というより叔父さんんのような存在であった。母の叔母が90歳を超えて存命なので元気で居てもらいたいと願う。見舞いにも行きたい。

2004 10/22日 同僚の結婚 


平塚養護時代の新採用の養護教諭の小島さんが9月に結婚され、家庭に入るので当時の縁の人に会いたいということで25人が集結。相手の男性は専業農家で両親と同居とか32歳の彼女が20歳近い歳の差を越えての結婚。遠くて近くは男女の仲とはよく言ったものだ。

2004 10/20日 立って歩く 


台風23号接近の中母が病院へ、今日は介助付だが立って歩いた。母が大変喜んで帰宅報告。一進一退を繰り返す父だが体調が良いと意識が黎明するようで歩く意欲が復活かできたら継続したいものだ。

2004 10/17日 雲山の兄は 


郁代ちゃんの結婚式はいつか?の問い合わせのメールを書いたのですが返事がきません、昼間に携帯にかけても電源が入っていないとつながらないこれはニュースだ

2004 10/11日 体育の日が結婚記念日 


東京オリンピックから40年経ったそうだ。が10月10日は昨日である。体育の日を避けて11日を結婚記念日にしたが巡り合わせだ。結婚29年ということだ29回目の結婚記念日

2004 10/10日 台風を連れて来た。 


金曜の夜台風より先に明幸夫婦が戻ってきました。10日の友達の結婚式の二次会に出るために来たのだが後から台風が来て昨日は夕方風邪が強く吹いたが4時半から5時半の1時間ぐらいで静まった。
今朝は7時から1時間みんなで散歩した。

2004 10/06日 幸枝が泊まりに来た。 


昨夜、修学旅行の帰りが9時頃、駅に迎えに来てもらったが、幸枝も帰るとか、会社の後輩が厚木に入院しているというので見舞いに来て泊まり、そのまま朝会社に出勤した。

2004 10/01日5:55’イチローあと1本に 


第2打席にヒットのあと第3打席は三振であったが6:31分に第4打席をレフトフライの凡打で終わった。あと1時間でどうなるか、明日から沖縄修学旅行であるが出勤前のニュース配信である。

2004 09/29日 中古ワーゲン到着 


保険会社が140万振り込んだという事で納車の話を進めていたら結局29日の夜8:00に納車、現金を支払う追加60万を足して、父が買った車を廃車にして違う車だと申し訳なくステーションワゴンタイプにグレードアップした。父が乗る時にわかるのかどうかだが<BR><BR>

2004 09/25日 幸枝が夕食に 


たばこ祭りの日曜日、母が幸昇と父の病院に行っている間、店番をしている時幸枝が彼と夕飯にくるということで、5時から準備、10時に帰ったが、結婚式の日取りは3月26日27日に決定のようだ。

2004 09/25日 幸家の叔父を訪問 


幸家の叔父に梨を貰っていたのでお彼岸に行こうと電話したら。デイサービスにいく日ということで25日にした。耳が遠くなってはいるが元気である。大和の叔母の墓と同じ所に奥さんの墓もあるというので両方の墓参りをして帰った。また土産を貰った。<BR>

2004 09/24日 バリ旅行へ 


明幸夫婦はバリへ今日出かけました。新婚旅行の続きだそうです。

2004 09/20日 敬老の日 


今日は敬老の日でありながら私の誕生日である。3連休の日が誕生日は初めてかな!

2004 09/18日 今日の父


今日は東海大大磯病院退院後の病院の手続きに富枝が1時に出かけ1時間で帰る予定が4時に、予定では2時に帰り別の見舞いに東海大学伊勢原病院に行こうと思っていたら4時に、明幸が出張で東京に来ていて今夜秦野に寄るというので小田原に干物を買いに行き返りに大磯病院に寄る。6時半に到着。このところ落ち着いている父だ。食事を自分で大体食べるらしい。会話の中で自分が頭が上手く回らない事を自覚している。お金の会話しかしていないのは自覚は無いが、おしゃべりが頭の回転を維持回復につながっていると思う。黙ってしまったら本当に父は廃人だ。身内や知人の記憶を基に自分で物語を作っている金のことを柱にして。医学的に回復不能に見えてもまだ期待が持てる部分があるように思う。できるだけ大磯病院に居たいものだ。

2004 09/18日 朝飯まえ


青山の叔父が20日に墓参りに来るというので富枝が草むしりをすると6;00に起きてきた。仕方なく駐車場も、5月、7月、8月、9月と既に4回め、そろそろ枯れ始めると思うが今年は草木が元気良い。


2004 09/09日 富枝デビュー


商店会の「奉仕会」という客へのサービス機関が企画する小旅行(長野方面1泊2日)に参加しています。主催者側ですから接待という事になる。店売りの時に奉仕券を出し、券何シートで参加資格を得るという仕組みのやつ、今までは便乗していたがこれからは違うのでデビューである。

2004 09/07日 父の様子について


二期制前期期末試験2日め、1時間早く早退して、二の宮で妻に拾ってもらい病院に、ナースセンターには美枝子・裕子さんも3時から来ていたらしい。佳子ちゃんもきていて行き違いで帰ったあと。 主治医の篠田先生と病状の確認とこれからの事を相談するため妹にも同席してもらったのである。「年齢と脳出血を起こした人の経過を見ると再出血の場合が多い。 糖尿による動脈硬化症を背景に考えると出血も心筋梗塞も考えられる。」とのこと。こちら「転院先で病気が出たらどういうところが受け止めてくれますか、出来たら今までの経緯から東海大で治療を受けたいが?」 「地域医療の核の病院、秦野では日赤・三次医療は伊勢原東海大です。転院先病院での患者の様態や状況でのはんだんです」。」 こんなやり取りをした。今日の父の様子はとても穏やかで良く会話ができた。まるで自分の病状を理解していて「家に帰りたい」とも言わないで、妹に「感謝してるよ」と涙を見せる状態。本当に痴呆症状なのかと疑いたくなるが今日が比較的いい状態であって、 「病状は高齢と糖尿病などの病状を背景に考えるとよくなる見通しはない。薬は痴呆とアルツハイマー(人格の統一性崩壊)を予防する薬を投与しているが」 「転院先は100点満点はありません、程ほどで考えれば」ということである。

2004 09/04日 奈良で震度5


和歌山と三重県では沿岸で津波らしいが、大した事はなさそう。こちらでもかなりゆれた。すぐ明幸と大淀に電話をしたが電話はかからない状態。10分ぐらいして幸昇に電話が入り幸昇から「無事」の知らせ幸昇は福島にいて明幸は大坂からの連絡であったそうだ。19:45
19:50'明幸より電話、大坂ではなく家にいた。佳代さんは宿直で病院にいるようだ。ちょうど地震の時電話で話していたらしい。無事とは思うが病院内の対応で大変だろう。危機管理を誰がやっているのか

2004 09/04日、従姉妹の純子さん家族が来ました。


柏・流山の叔母さんの娘純子さんが秦野へ寄ってくれました。叔母の見舞いに行った時に会っているが秦野に来るのは何十年振り、長女の聖子ちゃんが沼津に嫁ぎ、その行き帰りに寄り先祖の墓参りをして帰った。娘の聖子さんは主人と男の子5歳・2歳の男の子二人を伴いあうのは同じく何十年振り、聖子さんは熱海の函南にパンやケーキの店を出したそうです。主人は農大で同窓生、家業の造園業を継ぎ、嫁の聖子さんは管理栄養士の資格を持ちながら学生時代にテレビに特集されたパンの創作を生かして開業、ホームページを出しているので見てください。売りは自然の素材を生かした製品、突出すべきは食品アレルギーの人向けのケーキは今の時代では行けます。インターネットで注文販売すれば店売りより売れる可能性大です。主人の造園業もインターネットで注文を取ればすごいと思います。妹のひろかちゃんは来週の土曜日11日結婚するそうです。一区切りが付くので先祖に報告に来たのでしょう。
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2004 09/03日、鳥取の梨


横浜の叔父と雲山の兄が梨を送ってくれた。この前の台風で、落下が予想され早く収穫したという事で例年より1週早い。味は良いが今年は雨が少なく少し小粒のようだ。

2004 08/27日、施設見学&今日の父


夏休み最後の日を午前は出勤して、午後から丹沢病院、秦野厚生病院に大磯病院退院後の受け入れについての打診と施設の見学をして大磯病院に、妹の裕子さんが2時間付き合ってくれていた。3人でお茶のあと父に食事をさせた。裕子さんが主に食べさせたがいつもよりとても穏やかに良く食べた。看護士に「今までで一番いい雰囲気で食事を出来た」と話して二ノ宮で3人で夕食を食べて裕子さんと別れる。裕子さんご苦労さんでした。9時半頃には着くかな?

2004 08/22日、今日の父&小峰神社納涼祭り


昨日は帰宅したのが店ではなくて曽屋の我々の家で到着時は興奮気味であったが、昨夜は良く眠ったようだ。オムツの取替えなど大変な事はあるが詳細は控える。朝食はお粥、鮭のフレーク、ナスのお汁を喜んでよく食べていた。明日は病院へ帰すが母と娘のウオーミングアップである事は間違いなさそう。
小峰神社祭りを兼ねての納涼大会が夕方から、昨日の夕方と午前中は御輿準備と軽トラに載せて行幸

2004 08/21日、父は今日外泊で帰宅


13:30'に病院に行き父を連れ戻る。店に連れて行かないでウチにつれてくる。本人は何処かの人と待ち合わせていて人を待たせたらと心配しているような、お金を払わねばならないと思っているて心配で気がかりな気持ちをしゃべりっぱなしである。疲れる介護の出発だ!

2004 08/17日、体操日本復活


四時に目覚めテレビを衝けたら男子体操をやっている。不思議な目覚めだ。日本が2位に着けていて跳馬、平行棒、鉄棒で決着、ルーマニア、アメリカが失敗する中、順天堂の後輩の米田、鹿島、富田が優勝を決める演技、すごい事だ、体操日本の復活に順天堂が貢献したのだ幸せな時間の2時間であった。AM5:57'表彰台でこれから金の授与5:58'4328年ぶりの金メダル渡し終わると6:00であった。君が代6:00.43
加納監督(1年後輩)の幸せそうな顔も印象的、良かったね。!

お盆


2004 08/13日、父の様子


午前中は仕事に行き、帰りに明幸夫婦と病院で待ち合わせ、1時前に着くと昼食をあまり食べてなくて看護士が薬を溶かせて食べさせようとしていた。昨日血圧が下がった関係かリンゲルの点滴をしていた。昨日より表情は元気があり、明幸達の顔を見て感激の涙をリハビリのとき見せて、PTの人も初めてだと驚いていた。意識レベルが1番高い状態である。会話になっているのだ。

2004 08/12日、父の様子


美枝子さんと久治くんが墓参りに寄ったのでその足で病院へ、行くと俶子さんが来ていて「リハビリ中に血圧が下がったという事でベットにいて、今看護士が下の世話をしているから病室に入れないので待合室にいたところ」ということでしばらくして病室に行く。久君のことがわかり穏やかに話せた。食事は美味しいかという問には笑いながら「まずいと」言う。帰りがけに「気を着けて」という。意識レベルは今まで1番か2番ではないか、一昨日の商工会議所の面々の時に準ずるのではないかとおもう。明日の明幸と華代さん達の対面が楽しみだ。

お盆の入り

2004 08/08日、父の様子


遅くなってしまったが、火曜日は今後の相談を病院のワーカーと行う。在宅で介護するか、老人福祉施設・特養・老人病院等、対応を考えておかないと入所入院が大変という事だ。今の状態では急性期医療の状態は脱したので、3ヶ月過ぎたら退院ということのようだ。

2004 07/30日、父の様子


今日は夏期休暇で朝から家にいた。サマージャンボの最終日なので富枝の代わりに見舞いに行こうと思っていた。2時ごろ美枝子さんが病院に来ていて連絡をくれた。3時過ぎに病院で合う。父は美枝子さんとわかる会話をしていたようで、顔も今まで1番精気のある表情で、受け答えがリアリティーが合った。5時近くなったので二ノ宮駅まで送って帰ってきた。

2004 07/26日、父の様子


昼間は幸昇が母を送って見舞ったようだ、仕事帰りに寄ったら意識は混乱しているようで聞き分けがない。しきりにパジャマの下から財布を出すしぐさ、財布からお金を出して何か訴えたいらしい。看護士に許可を得て1階ロビーまで散歩したりして6時からの夕飯と格闘、気持ちが食事に向わなくて薬も飲まない、食べない状態が7時前まで、いろんな言葉のやりとりはあるのだが「たべないと死ぬよ」というとこのフレーズは認識回路に伝わるのか、おかゆを8割かた食べた。看護士の手お焼く状態は本人にはマイナスなのだが理解できないので困った物だ、糖尿の薬の管理にてこずっている。

2004 07/24日、父の様子


お祭りの合間を縫って富枝が見舞う。一進一退は続いているが、自分で小便を訴え、尿瓶で採尿してもらったそうだ。
祭りの境内では見舞いに行っていいのかと知り合いに問われたが「病状も少しづつ回復してきているので、わかるかどうか何ともいえませんが適宜」と言っておいたが富枝は見舞って醜態を見せたくないような気持ちのようだ。

2004 07/23日、父の様子


土・日がお祭りなので見舞いにいけそうもないので2時から見舞う、(富枝はお祭りの時店に品がないのも寂しいと仕入れに朝出かけていた。夕方は組や町内のお祭りの準備もあるので)病院に着いてナースセンターに顔を出すと。父はすぐ気づき「日出夫」と呼んだ。病室に連れ戻り会話をする。「アサの銀行口座の勧銀と浜銀を・・・・」、どうも銀行口座の事が気がかりらしい。「早く帰って、十全に相談しろ」、この内容は、帰って富枝と話すと口座の残高の確認のことなので会話の内容は整合性があるようだ。結局4時前には帰ってきたが。帰りがけにナースセンターに戻す時、「帰るよ」というと納得して目で見送っていた。看護婦さんも「少しつじつまが合ってきている」といっていた。

2004 07/22日、父のこと


父の経過について主治医との話し合いがありました。「脳以外の身体的問題は回復が早いが損傷による認知や判断が混乱していて、まだ医志&看護士との意志の疎通が出来ない状態でリハビリのステップアップが出来ない」状態との現状確認と、「2ヵ月後(退院後)の対処を家庭サイドで考えて置くように」との話であった。

2004 07/21日、今日の父


昨日は美枝子、裕子姉妹が3時頃から見舞ってくれていた。5時過ぎに学校を出て病院に寄ったが先先日よりおとなしく眠そうであったようだ。今日は富枝が4時ごろ見舞ったそうだが元気のいい時の悪いパターンであったようだ。暑いといってパジャマを脱いだり乱暴なおしゃべりが続いたようだ。あすは主治医からの話が母と富枝にあるそうだ。富枝は不安そうである「医者に最後通告されるのでは」と

2004 07/19日、今日の父


海の日で休みであるが、私は朝から頭痛がしている。昨夜エアコンが効きすぎたのかどうもこのところ体調不良だ、午前中は学年通信&クラス通信を印刷に出て午後は見舞いに行くつもりでいた。印刷をして帰りに明幸に電話をしてみた。週末に鳥取の母の処へ行くような場合こちらにも知らせて欲しい旨を伝えるがその明幸も風邪で寝ているとのこと。みんな疲れでダウンということだ。結局見舞いは夕方富枝が行く。
帰ってきての感想は「昨日より悪いかも・・・、私を認識しての会話かどうかわからなかった」と「夜、おとなしく寝かせるために薬で眠らされるので、一進一退なのかな」との見解

2004 07/18日、今日の父


幸枝が昼過ぎに帰っていて夕方富枝と見舞う。昨日より情緒は落ち着き、幸枝の名前を呼んで応じていたような話、昨日より少し前進しているようだ。

2004 07/17日、今日の父


母と17:00頃に見舞う。昨日と同じ状態ながら店の金策の気がかりな部分を母に訴えているが実際は何についてかよくわからない。気持ちは病院にいる状態ではなく早く返せと訴えているように思えるが現実認識が無い状態である。夕飯時で食事を食べさせたがなかなか食べなくて、看護士が糖尿の薬を飲ませているので食べないと血糖値が下がりすぎてしまうと八分目までなんとか食べさせて戻った。しばらくこのような状態が続くのであろう。

2004 07/16日、今日の父


学校を5時15分に出て病院へ向う、電話をすると病院に裕子さんと富枝がいた。裕子さんは2時から見舞ってくれていたそうだ。夕飯時についたので食事が部屋に運ばれていて看護士が食べさせるところを富枝が食べさせたが食事より金のことが気になるらしく気をそらせながらの食事であった。今まで出一番意識がはっきりしていて言葉もはっきりしてきた。そうなると整合性のある会話を期待するが残念ながら今は取り留めの無い言葉の羅列になっている。今のままだと痴呆老人であるがこれからどれだけ戻るかであろう。

2004 07/15日、55歳の「はしか」?は自家感作性湿疹だそうです。


ホームドクターから連絡があり、はしかではなさそうなので皮膚科の診察を進められ、紹介状をもって皮膚科へ、問診もそこそこに自家感作性湿疹(自分なりの解釈では自己免疫疾患)自分の汗等に反応してでる湿疹ということになる。肝機能もホームドクターは問題ないといっているのだが、しばらく皮膚科へ通うようだ。そんな訳で、父の病院に母といってきた。日曜日よりはるかに目覚めの状態で会話できたが少し情緒的には落ち着きすぎかな、言葉がはっきりしない文聞き取れなくて本人ももどかしいようである。帳面の話は嫌な気分にさせるらしくしきりに独り言を言っている状態だ。お互いの意思の疎通ができることが最大のポイントになるだろう。

2004 07/12日、55歳の「はしか」?


2週間前ぐらいから最初は股のあたりに湿疹がぽつぽつでていてかゆいので「ムヒ」やたむし用の薬を塗っていて治まったと思っていたら1週目には腹から首・背・腰と広がり、寝る前や起きた時が酷く痒い、父の病院に寄る関係で思い切って受診する間が無かったが、今日は1時間年休を取って戻り、ホームドクターに診て貰ったら、「はしかの兆候・疑いあり、検査ではっきりするまで学校へは行ってはいけない」といわれてしまった。家に戻り妻に話す。見舞いは妻が続け自分はいけない状況になった。学校に6時過ぎに戻り、密かに課題や今後の対応を同僚にお願いして戻った次第。大秦野高校時代に風疹で1週間出校停止というのがあったが、「はしかはめずらしい、学会に報告しよう」とドクターは言っていた。今日の父の見舞いは妹・美枝子と隣の伯母親子が行った、経過は良いようで悪い場面しか見られなかった妹も喜んでいたようだ。富枝は母と宝くじの販売で今日は病院は行っていない。

2004 07/11日の父の様子


明幸夫婦が帰る前に見舞う。今日は車椅子にまた手袋をされていたが、意識は少しずつ戻っているようだった。聞き取れない部分が8割であるが、帰りがけに、旅行の話をしていて、ある受け答えに、即座に「俺は嫌だよ、金が無いから」と言って笑ったのである。これには一同驚きと喜びにひたれたのである。

2004 07/10日の父の様子


結納は滞りなく済み、我々夫婦が結婚式をした陣屋で会食、その後父を見舞う。昨日より意識と言葉がはっきりしていて、意思の疎通が出来た。幸枝が「結納した」というと微笑んだ。入院して初めての微笑であり、眼にはっきりと精機がよみがえってきたようだ。覚醒と眠りを交互に繰り返しながら、神経ネットワークが再構築されるのかなと思わせる感じでもある。



2004 07/10日 幸枝の結納


かねてから進行中の幸枝の結納を午後から行います。着物を着るそうですが暑い1日になります。明幸・華代夫妻も見舞いを兼ねて帰ってきました。

2004 07/09日の様子


出張の帰りに寄った。昨日より顔色もよく、眼を開けてうわごと的にしゃべったり、寝入ったりを繰り返していた。若い執刀医が、薬が合って熱も下がり、良かった。糖尿の薬のバランスが崩れていて、調整が難しいと話して出て行く。昨日看護士に話したことを受けてしゃべったなのかわからないが、彼も嬉しかったのかも知れない。明幸にメールで写真を送ったが携帯の写真はちょっと見にくい。

2004 07/08日の様子


夕方の5時半頃、富枝から電話、美枝子さんも一緒であり、これから帰るが、父は軽い肺炎を起こし熱があり、検査をして部屋に、戻ったと連絡を受ける。3年の成績、借り評価を出す仕事の手伝いの途中だが、病院に寄る。
富枝は帰ったあとで、病室で寝ている父は痰が絡んでいるらしくゼイゼイ呼吸をしながら、寝ている。耐性菌のことが気になるので、看護士に「先生とお話できますか」と取り次いでもらったが、「窓口を1ッポンにして欲しい、さっき奥さんに話した。」という事で断られる(看護士と先生が話すのを見ている)、病室に戻ると、今夜の看護士が痰を吸引しに来て、会話をする。「病状が悪化したりしたら連絡します。」というがそうではなくて、「素人でも、耐性菌の心配や、合併症が心配なのだからそれなりに応じて欲しい、窓口の1本化の気持ちはわかるが」と話す。「悪化しないようにするのが望みですよ」と言って帰宅した。

2004 07/07日の様子


昨日は径管栄養を止め食事にしていたが、薬も飲まず、食事も自発的に食べないのと血糖値も300にあがったという事で径菅に戻り、夕方5時にいきたときは熾しても車椅子の上でひたすら寝ようとする状態であった。主治医のリハビリ通告書というか「小泉内閣になってからこのような書面を取り交わす事になった」インフォームドコンセプトの一環と思われる書面にサインして控えを貰う。PTやOTと今後のリハビリの方法を聞くのかと思っていたが主治医の単に説明であった。一進一退でどれくらいよくなるのか母・富枝は昨日を見てないので不安のようだ。

2004 07/06日の様子


午前に幸昇が洗濯物を届ける。(富枝が仕入れのため)、美枝子・裕子も見舞ったそうだ。6時に帰り、病院に寄る。ナースセンターにいたが、夕食の流動食をこぼして前が汚れている。部屋に戻り顔を合わせる相変わらず自分のペースで言葉にならない声でしゃべっている。指を使えないように手袋のような保護具がいやらしく、取ろうとしたり、はさみを呉れといっている。看護士さんが薬を飲ませようとしていたが嫌がっていた。篠田先生が通りかかり、「ナースセンターで車椅子から落ち、右腕や頭を打ったので、検査をしたが問題なかった、申し訳なかった。」といわれた。早いリハビリはこのようなリスクをしょっているのだろうと思った。その後30分ぐらい車椅子で病棟を回ったりして8時に戻る。
戻ると明幸から電話が入って様子をはなした。

2004 07/05日の様子


午後、富枝が行くと、CTスキャンなどの検査で不在であったようだ検査後は検査のために眠らせた余波でまだ寝入っていたそうだ。今日は点滴も取れ、食事を食道で食べさせる予定がおとなしくないので個室に戻されたたそうで、検査結果は特に進行無しということのようだ。

2004 07/05 昨日の様子


3時から、母と、幸枝、幸昇4人で見舞う。ナースセンターで車椅子に座っていた。部屋に連れ戻り、会話する。意識の混濁は続いているが、「暑い」「アイス」など自分を主張する時の目が本来の目に戻ってきてしっかりしてきた。いろんな言葉のフレーズが出ている。「暑いよグッチヨグチョ」という表現は運動言語としては問題ないと思う。感覚言語として人の会話を理解しているかだが、理解しているようだが詳しい事はわからない。ただ身内と、看護士さんの区別はしているし、対応も切り替えている。我々の会話の途中に、看護士さんが語りかけると態度を変えるからだ。この1週間でどれぐらい回復するか・・・・

2004 07/03 遅いニュース


6月24日9時ごろ父が頭が痛いというので、東海大学伊勢原病院に連れて行き、CTスキャンで診断、出血が60ccあるが年齢と、バイパス手術を昨年している経緯から保存的治療とCTスキャンをしながら出血部位をピンポイントで吸引する手術が可能な大磯病院に移送され、土曜日・日曜日経過をみる。この日息子明幸夫婦も夜中に秦野に来ていて土日は見舞った。月曜日の検査で現状ではよい経過を辿らないという判断から手術を決めた。(母・娘3人立会いのもと)、夜7時半から10時半まで、11時に主治医の説明を受けた。手術前にも混乱はしているが、意識もあり、左手だけあまりうごかない状態であったが、術後の経過で、昨日から、車椅子に座らせ、刺激を与えるリハビリが始まっているが、側頭部の出血で、感情の起伏が激しく、運動機能の損傷が少ないようで動き回るので、点滴の管が外れないように手を縛られている。今週の水曜日はリハビリの説明を受ける事になっている。 この1週間、娘の仙波美枝子さん、とその家族、林裕子さんとその家族、姉妹にしか父のことは伝えていない。叔父が中元のお礼に電話をしたがいつもと違うという事で、察知したようで、電話で母がしらせた。が、まだ隣の伯母には知らせていない。もう少し様態が安定し、本人も意識や記憶が安定してからのほうが良いと思うからである。商店会や、祭りの氏子総代の関係も現段階では見舞いを断っている。明幸・華代夫婦も来週見舞うような電話をくれるが、8月のお盆でいいと伝えた。この1週間で鳥取の晋也さんは町村会が解散、しばらくは気高町の職員で11月から鳥取市の職員にリストラクションされるそうです。町村合併により新しい機構に再編されるわけです。退職慰労金が出たそうですが本当の退職金は鳥取市に移行されるのでしょう。林の恒生さんは今週はメキシコに出張だそうです。

2004 06/13 梅ジャムづくり


久しぶりに田舎の母に電話をして、春欄が元気が無いので植え替え・シュロ竹も植え替えして、前の日にとってあって熟れすぎの梅をジャムに、硬いのは梅酒にという事でジャムづくり、雨上がりの作業である。



2004 05/31 晋也さん大名旅行


2泊東京で、3日北海道というメールが入っていました。すごいね!

2004 05/16 雨の市民体育祭で中止


昨日、すえひろ小学校に準備に駆り出されましたが中止、雨音で5:00に目覚め、燻製の準備にはいる。永山さんに貰っていた。冷凍の鮎を昨夜仕込んでいたので、鮎の塩出し、燻製の網を洗ったり、チップを用意したり、火を熾したり、のんびり燻製になるには7:15分からであった。

2004 05/09 ツキのない母の日でした。


接触事故を起こしました。不幸中の幸いでお互いに怪我は無く保険会社に対応を依頼しています。

2004 05/05 雨の子供の日


ゴールデンウィーク最後の日が雨、子供の幸昇はゴルフキャディーのバイト、子供はいなくなったので私も仕事しに出かけます。

2004 05/04 疲れでダウン


昨日からついにダウンしました。昨年は盲腸切除でしたが今年は嘔吐・下痢・発熱、多分風邪によるものでしょう。腰が痛いとも、2日の日に昼はうどん定食、 夜はステーキ3人とも同じ物を食べていたが、辛抱強い妻が昨年よりうなっている。食べ合わせで違う物としたら昼のうどんに付くカツ丼に負けたかの違いである。 カツ丼が食中毒なら大変、今朝は落ち着いているので大丈夫でしょう。昔の私は連休中は疲れて熱を出したり、付き合いで飲んだら暴漢に仲間が襲われて自分も肋骨に ひびが入り連休は寝ていたり、と連休にまつわるエピソードがいろいろあります。が医者がいないのが一番困る。

2004 05/01 新婚夫婦奈良へ戻る


午後から友達回りしたり、近所に挨拶回りして夕食後奈良へ戻りました。明日の午後から大淀の実家に挨拶に行くのでしょう。

2004 04/30 新婚夫婦戻る


息子夫婦はプーケットから無事戻りました。昼前に秦野に着き、午後は東京に挨拶に、ところが、渋滞で大変往復で4時間の渋滞にはかえって疲労困憊、明日の夕方に奈良に帰るようです。

2004 04/29


横浜高島屋へ行きました。1時間で横浜に買い物にいけるようになりました。



2004 04/28 原因は最初のテープ


夕方仕事から帰り、再挑戦したらまた再生できない、店に行きヘッドクリーナをかけたら再生できた。クリーナをもらい家で再挑戦、うまくいくので昨夜のダビングした部分を再生すると画質が余りにも悪い。カメラではなくビデをデッキのヘッドクリーニングを何度しても良くならない。入力端子の接続が甘く画質が荒く録画されていたのに気付く、再レコーディングしようとしたらまた再生できなくなった。どうやらテープに傷があるので安全回路が働き、止めることに気付く、安全回路が働く前に止めて巻き戻しをし、2本目につなぐ事で解決した。このマスターテープは別に移し変えないとそのうちテープが切れたらおしまいだ。

2004 04/28 ビデオがまたこわれました。


あさ、ダビングしようと再生したら横縞が出て音もしない、初期設定の関係かと、リセットをしたりしているうちに再生もできなくなった。2台目も壊れた事になる。欠陥商品かな?午前中年休を取って販売店へ行くことに

2004 04/25 夜・ビデオを取り替えて復活


ビデオの再生が可能になりました。これから編集作業をします。ただし期待は出来ません。とりあえず証拠写真1枚を見てください。


2004 04/25 無事結婚式・披露宴を済ませ、プーケットヘ出かけました。


「とても和やかでいい披露宴だ」と好評ですが、出席していただいた皆様、有難うございました。式・披露宴の写真が公開出来ません。デジカメを誰かが持ち帰り、ビデオは終了直前に壊れ、再生できません。

2004 04/23 いよいよ明日です。


87名の参加をえて明日、長男明幸は華代さんと一緒になります。15時式、16時披露宴の予定。今日、奈良から今日上京し備えます。

2004 04/11 叔父は元気


神宮前の叔父が体調の維持管理(糖尿病による血糖値調整)が夕方は難しいので、明幸の結婚式には出られないという事で「お祝い」を届けてくれました。いろいろなお話をうかがいました。

2004 04/03 桜が見頃


午前中は店のレジスターを総額表示に対応するように変更作業をして明日は雨らしいので足早に桜を撮りに行く。秦野は白泉寺・運動公園・銘木百選の南小の桜と弘法山など有名だが・・・・



2004 03/27,28 明幸の引越し


結婚を控えて3LDKの賃貸マンションに引っ越すのに、27日は西大寺のアパートの掃除に幸昇と富枝がでかけました。28日に最後の荷物を移動して完了!いよいよ大詰めです。

2004 03/20 雨のお彼岸


せっかくの休みで彼岸の日が雨となりました。昨夜到着した明幸達はパンパシで打ち合わせに出かけて夕食に間に合うように帰ってきました。

2004 03/14 園芸作業


取り込んでいたシンビジュームなどを屋外に出して、油カスなどの施肥をした。春めいた1日であった。名古屋女子マラソン、サッカーとアテネオリンピックの選考レースやアジア予選が重大局面を迎えている。

2004 03/13 土曜出勤


学校の5日制がすすみ授業確保が叫ばれ、逆にゆとりを無くしている状態、自宅に仕事を持ち帰って仕事したくてもその事で起こるトラブルが大きなリスクになっている。答案を忘れたり、通知表を無くしたり、パソコンを盗まれたり等、教員の事故が多い、そんな訳で成績事務で休日出勤でした。

2004 03/07 加賀の人


幸枝は土日を利用して大学の友人のとこで雪国の風情を味わったようです。金沢・兼六園の風情が気に入ったそうです。昨夜帰って来たと連絡がありました。

2004 02/29 うるう年の日で大安


明幸のお祝いのお客様が見えました。大安の日曜日、午前中は雨であったが午後は晴れた。春めいた1にちであった。

2004 02/28 キャディー誕生


幸昇君はゴルフ場で3000円のアルバイトをしていましたがアルバイトキャディー1日8000円だそうですが客が少ない日は仕事はないそうです。

2004 02/22 叔父の3回忌法要


1昨年亡くなった叔父の法要をし、富士霊園に墓参、その後会食、穏やかな1日であった。孫達が大きくなり、生きていれば喜ぶだろうに、大変暖かい日であった。

2004 02/14 ソフト修正


先週の金曜は私の学校のマラソン大会であった。記録をパソコンストップウオッチで取り込み、データー処理をエクセルマクロで処理、これを元同僚の安福氏の学校で使いたいというので修正して使い方のリハーサルを午後実施した。

2004 02/08 打ち合わせ


明幸がフィアンセと結婚式の打ち合わせに、移動を考えたら車がいいのではと事前に話していたが仕事がハードなので電車できた。ホテルでの打ち合わせ後今日2時に秦野に1時間いて打ち合わせ小田原4:10'で帰る。ハードな1日だが帰りの電車で休みながらいい旅を!

2004 01/31 同期会


大学の同期のメンバー5人で箱根の学校共済保養所に出かけました。小田原11:45分に集合、箱根駅伝のルートを辿りにスタートします。

2004 01/29 幸昇は後期試験最後の日


昨日で後期試験が終わる話を聞いていた。午後からの試験で遅く出かけたようだ。今朝、帰っていない。と思ったが玄関に靴があった。・・・

2004 01/22 幸枝が平日に


気が向いたら土日に帰ってくる娘が平日の昨夜帰ってきた。「久しぶりに会社が定時に終わった」というのだが・・・、1人で暮らしているとどうやら親としゃべりたくなったらしい。だんだん大人の苦労がわかる歳になってきたのか?

2004 01/12 幸昇君成人式


二男の幸昇が成人式を今日迎えました。ラジオ・テレビでも荒れる成人式が話題になっていたので、式に出てもバカやらないよう釘を押しておいたが不思議な会話だ、大人なのに・・・3人の子供が成人したのだからめでたいことだ。

2004 01/06 初ドライブ


横浜ベイシェラトンとパンパシフィックホテルの衣装室探検に出かける。横浜まで車で行く練習を兼ねて、カーナビは無いが概ねインターネットのマピオン地図で予定通りK3狩場線からK1線に入り横浜駅東口を過ぎ第三京浜・三沢方面に向うと西口出口へ、出てすぐベイシェラトン それからみなとみらい通りに思ったより簡単であった。

2004 01/05 寝正月


3日の日に明幸は奈良に、幸枝は4日に中野に戻ったが、3日あたりから鼻ずまりと咳、熱がでるわけではないのでもう花粉症かと思いながら、うっとうしいので花粉症の薬を飲む。鼻の状況や咳はいいのだが良く眠れる。5日から会社に行こうと思っていたが特別な用もなくなったので年休の連絡。家でエクセルマクロの工夫三昧とうたた寝。いよいよ老後のスタイルに・・・・・

2004 01/01 明けましておめでとう


初詣は我が家のお稲荷さんです。0:00とともにおまいりです。午後から林・仙波の家族が年始に、四つ角の店の3階で年始の宴楽しい時間を過ごしました。

2003 12/31 格闘技が紅白に勝ったようだ。


家族が揃っての大晦日、ボブと曙戦、1ラウンドでけりがつき、桜庭も負けた、世界で一つだけの花が紅白の取り、男が締めくくった2003年であった。

2003 12/24 クリスマスディナー


PM7:00の予約をトラブルがあって8:00に変更してもらい、なんとかイブを過ごしたが、幸枝は8:00の段階で会社勤務、幸昇はもてない男同士で酒盛りイブのようだった。こんなイブは初めてだ。

2003 12/21 大学体操競技部の納会


加納監督の教授昇進祝いと鹿島選手の叙勲祝いと部の納会。秦野を1:30’に出かけ5:00に着くという強行軍でしたが楽しい会でした。懐かしい先輩・後輩いろいろ刺激にもなりました。

2003 12/19 鳥取の冬の味覚


夕方、田舎から松葉蟹が届きました。早速ゆでて、ゆでたての肉の甘みと肉の柔らかさは先先週の「食べ放題」とは違う味、子持ちの味噌汁がまた絶品、明日も味噌汁が楽しみ。ありがとう。

2003 12/14 すばらしい1日


明幸が植田のご両親を秦野に案内しました。富士が好きなお父さんにとって昨日から快晴が続き、もてなす我々にも「すばらしい恵み」です。十分もてなせたとは思えないが、3時間の短い時間でした。

2003 12/13 採点


テスト最終日の試験なので採点が手間取ると月曜日に返却できない。学校で2/5採点し今朝5時から2時間で○付けがおわる。得点集計にはあと3時間ぐらいかかるか!、我々の場合は残業手当もつかないのに、ボーナスも給料も実質ダウン、今日は明幸が奈良の両親を横浜に案内します。富士が今日は良く見えると思う。

2003 12/10 空ディスク


昨日の朝8割出来ていた試験問題を職場で、完成させようと思い、フロッピーに保存したはずなのに入ってない。出勤してからの仕事の段取りが大きく外れてしまった。1時間早く早退して昨夜&今朝、どうやら完成。今日は年休で明日印刷できるよう段取る。娘も昨夜グアムから無事帰ってきた。

2003 12/07 午後から忘年会


午前中は家の片付けをし、午後から体育科の忘年会、真鶴のペンションへ、明日から後期の中間試験、保健は12日の最終日です。採点がきつい。

2003 12/06 幸枝は機上のひと


ひと足早い年末休暇でグアムへ出かけました。友達の結婚式とか・・・・・・・・

2003 11/30 結納の儀


土曜日29日に京都の高尾・清水寺の紅葉を楽しんで奈良の息子の社宅に、日曜日・植田家で結納の儀、仲人のいない略式ではあるが厳かにうやうやしく行われました。固めの宴席を吉野の料亭にセットしていただき心温まるもてなしに感激した次第。二人と両家の幾久しい繁栄を祈ります。

2003 11/27 妻の誕生日


昨日は妻の誕生日。誕生日イブはバラの花をもらい、昨夜は夕食を食べに出かけた。国府津の「かつ平」でおち合うつもりが定休日、「カキフライの美味しい店で」が 急きょ「うなぎ」になった。「うな和」での夕食。初めてだが外見と違い中はおしゃれな洋画を多く壁にかけた落ち着いた高級うなぎや。ちょつとリッチな気分で「ほね揚げ」・「白焼き」・「肝煮」・「うな重」のうなぎ定食2900円

2003 11/24 勤労感謝の日の振り替え


3連休は何とか雨が降らず,もみじ狩りはにぎわったようだ。我が家は静かに勤労に感謝して出かけなかった。娘が帰っていて骨休め、昼食を食べに出かけた。

2003 11/15 内視鏡検査


10月30日の集団検診でバリュームを呑んだら、要精検といわれたのでホームドクターのところで検査、肥厚性胃炎とモニターを見ながら診断、昨年同様の結果でした。なんと3割負担になると初診料を含んで5000円・薬が胃酸を抑える薬と・潰瘍の薬2週分で2000円高いか安いか、スナックで1万円払い二日酔いや潰瘍になる事を考えると安いか。

2003 11/09 ウオークラリー手伝い


青少年指導員のOBとしてスタート・ゴールの手伝いをしました。
家に帰ると仙波夫妻が「彼岸に来なかったので」と見えていました。



2003 11/07 畳替え


先週に引き続き、6畳の畳替え、荷物の移動がないので女房1人で畳の下の新聞紙の取替えなど出来たようだ。

2003 11/02 畳替え


30数年ぶりに畳を替える、さしあたって居間の4畳半から、5時に起きて6畳に本やテレビを移動、自分で堀コタツの縁のベニヤ板を張り直し昼に新しい畳が入り、片付けたら夜10時であったがまだ残っている。

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