「ヴァージン−僕は世界を変えていく」/リチャード・ブランソン/98年、TBSブリタニカ

 多くのいわゆる伝記と同じく、家庭環境、特に両親の影響が大きいことを感じる。反逆精神を植えつけようとした両親。前に進んで何でもやるようにと励ましてくれた両親。それが雑誌「スチューデント」創刊、更に、ロンドンでジャーナリストとしての人生をはじめるようと考える高校時代につながる。

 ブランソンのビジネス哲学には共感できる部分が多い。「『楽しさ』がヴァージン成功の秘密」「ビジネスとは人の生き方そのものである」「何よりも、誇りにできるものを創造したいのだ。これがいつも私のビジネス哲学だった。金儲けだけを追及してビジネスをやったことは絶対にない、と正直にいえる」等々。そして、客や社員の提案をどんどん受け入れ、アイデアを重視する姿勢。社員を大事にする姿勢。

 また、「私は初対面で会って60秒以内に、その人が信頼できるかどうか決める」「膨大な量の統計を調べるよりも、はるかに直感というものに頼る」というように、直感を重視する一方、リスクヘッジの重視も随所で強調されているように、バランスの良さが印象的だった。

 ブランソンの最大の武器は、これらの根本にある「人間的な魅力」と「行動力」だろう。それが、周りを吸付け、巻き込んでいくように見える。アメリカ人の弁護士が航空会社を設立することを提案してきたり、気球狂のスウェーデン人が一緒に大西洋横断をしようと持ちかけてきたりといった、様々な突飛な出来事がそれを物語っている。それこそが、マネしたくても出来ない競争力の源泉だろう。(2003年1月)
------
 僕たちは、両親とまるで友達のような感じで話しながら成長した。まだ子どもながら、父親の裁判について話し合ったし、ポルノについても議論し、また実態がまったく分かっていなかったのに、麻薬が合法化されるべきか否かなどについて議論を戦わせたものだった。両親は、自分たちの意見を持つことを奨励し、こちらから聞かない限り、ほとんどアドバイスをしなかった。

 私の難読症は学生時代ずっと問題だった。現在もスペリングが時々分からないこともあるが、自分自身を集中する訓練をした結果、最悪状況を克服できた。幼少の頃の難読症が私の洞察力を高めてくれたようだ。ビジネスの提案書を受け取ると、詳細の事実や数字を吟味する代りに、読んでいるうちに自分の想像力が広がるのを感じるのだ。でもスポーツは得意だったので、教室の外で大いに名誉を回復できた。イギリスの私立学校では、スポーツほど重要なものはない。スポーツが得意であれば、学校のヒーローになれる。

 これらの企画で金を儲けられはしなかったが、数学について勉強することができた。実際の問題を解決するために実用的な数字を使う時は、数学というものが理解できるんだということを発見した。クリスマス・ツリーがどのくらい大きくなるかとか、セキセイインコが何匹に増えるか計算すると、その数字は現実味をおびてきて、計算を楽しむことができた。しかし、教室の中での数学はまったくだめだった。ある時IQテストを受けたが、質問が本当にばかげていた。数学の問題のどれにも集中することができず、多分点数はゼロ点に近かっただろうと思う。このような種類のIQテストで馬鹿のレッテルを貼られたすべての人たちのことが気になってならない。

 両親は僕に反逆精神を植えつけようとしたに違いないと思う。規則というものは破られるものだといつも思っていたが、ストウ校には軍隊と同じくらい多くの規則や制限があった。そしてジョニー・ジェムズと私は、この多くの規則がまったく時代錯誤で、的はずれだと思っていた。…1966年の1月から2月頃、ジョニーと僕は、どうやって校則を変えたらいいか話し合い始めた。僕たちは15歳だったが、物事は変えられるものだと信じていた。両親の教育のおかげで世界は変えられると思っていたので、ストウ校のやり方を見て、それを改善できると確信していた。ストウ校は実際にかなり自由主義的で、学校について意見があれば提出するようにすべての生徒にすすめていた。

 校長先生はこういう意見を校内誌に発表したらどうかと促してくれたが、ジョニーと僕はまったく新しい編集方針の雑誌を作ろうと思った。ファギングや体罰、そして強制的な礼拝や試合観戦やラテン語などに反対する運動を開始したかった。こういうアイデアは、校内誌に発表するにはあまりにも革命的すぎた。…「男子生徒のすべてがもっと政治に興味を持ち、イギリス国内のすべての学校で行われている改革や実情について知ることができる、新しい形の政治的雑誌。…」“スチューデント・パワー”ということが話題になっていた時期だったので、僕らは雑誌の名前を『スチューデント』とすることに決めた。この頃は、大学や専門学校で学生による座り込み、占拠やデモなどが盛んに行われていた。若いということがワクワクする時代であった。

 学校での成績はますます悪化の一途をたどった。しかし、自信をもって事に当たるにはすばらしい教育を受けていたのだった。雑誌はまだ存在せず、2人の15歳の生徒が編集するという、そんな雑誌の広告スペースを大企業に売り込もうというほうが馬鹿げている。もしも5,6歳年がいっていたら、電話をかけようという気にはならなかっただろう。でも僕は非常に若く、失敗なんていうものは考えなかった。

 僕は恵まれていた。両親とはまるで親友のような関係で、いつでも話ができた。2人は僕を追い詰めるかわりに非常に温かく反応してくれ、僕たちはいつでもお互いに意思疎通ができるようにしていた。…2人は前に進んで何でもやるようにと励ましてくれた。いろいろな企画をいつも誉めてくれたわけではなかったが、それでも思いやりと精神的な支えは常にさしのべてくれた。

 「スチューデント」に専念しすぎていて、成績などまったくかまわなかった。ストウ校をできるだけ早く通過して、ロンドンでジャーナリストとしての人生をはじめるつもりだったのだ。1967年、17歳になろうとしていた頃、僕はストウ校を去ったが、その時、校長先生は次のような別れの言葉をおくってくれた。「ブランソン、おめでとう。君は監獄に行くか億万長者になるか、どっちかだと思うね」

 ジェラルド・スカーフは仕事についてこう語った。「私はいつでも絵を描いていたい。それはエネルギーに関連しているんだ。私はやめることができないのだ。それはまるで、食べることのように、私の体の一部なんだ。アイデアが湧いた時は、それを外に吐き出さなければならない。これはまるで、病気というか、肉体的機能というか。そんなものだね」

 自分自身のことをビジネスマンだとは思っていなかった。ビジネスマンというのは、ピンストライプの背広を着た、シティにいる中年男で、結婚していて、2・4人の子どもがいて、郊外に住んでいて、金儲けに取りつかれている連中だ。もちろん、「スチューデント」でも儲けたいと思っていたし、生き残るための金が必要だった。しかし、これを金儲けというよりは、むしろクリエイティブ活動だと見ていた。後になって、ビジネスもそれ自体クリエイティブな活動になりうることが明らかになってきた。雑誌を出版するということは、オリジナルで、数ある中で目立ち、永続し、できれば何か良い目的にかなう、そんな何かを創造したいと思ってやるのだ。何よりも、誇りにできるものを創造したいのだ。これがいつも私のビジネス哲学だった。金儲けだけを追及してビジネスをやったことは絶対にない、と正直にいえる。それが唯一の動機だったら、やらないほうがいいと信じている。ビジネスとは、人を熱中させ、面白く、クリエテイィブな本能を駆使するものでなければならない。

 人をやる気にさせるには、肩をたたいたり株を譲渡したりといろいろなやり方が考えられるが、監獄に入りたくないというのは、私が経験した最も強力な動機付けであった。…最終的に私は全額を払い、母が払ってくれた保釈金を返して貰った。…税関に返済ができなかったら、残りの人生はめちゃくちゃになっていたかもしれない。犯罪歴のある人間だったら、航空会社の設立を許されたり、全国宝くじ経営の候補者として、まともに相手にしてはもらえなかっただろう。

 われわれはいつも繁華街の外れの地価の安い地域を探した。人の往来の激しい通りを少し行った所で、法外な家賃を払う必要のない場所だ。…町の中には多くの目には見えない透明の線が走っていて、ある種類の人々はそれを決して超えようとしないし、20メートル離れただけで、同じ通りでも性格がまったく変わってしまうものなのだ。 

 成功するには大胆にやるしかないということを、私は心得ていた。もしもあなたが危険を冒す人であるなら、リスクを上手にとる方法は、うまくいかなかった場合の自己防衛策を考えておくことだ。

 音楽はほかのどんなビジネスよりも国際的な広がりがある。フランスとか日本のような幾つかの国では、その国独自の好みがあるが、スティービー・ワンダー、ポール・マッカートニー、フリートウッド・マックなどのビッグ・スターは世界的に売れる。これは工業製品を作っている会社では夢のような話である。どの会社にとっても輸出を伸ばすのは難しいが、音楽はほとんどの国境を越えるビジネスである。音楽は電波に乗り、口コミで広がり、バンドが成功しはじめると可能性は限りなく広がる。ドイツやスカンジナビアの聴衆はビートルズを何の抵抗もなく聴いてくれるし、英語の歌は世界中で売ることができる。一方、「ジュテーム」とか「ビーバ・エスパーニャ」のような根拠不明の例外はあるが、われわれ英語を母国語に持つ人間は、外国語のポップ音楽を聴くことにほとんど我慢できない。

 私はどこにいようが、いつでも電話に出るようにしている。ほかのビジネスマンが、「後からかけなおすよ」というのを何度か見てきたが、私にはできなかった。そうできたらいいなと思うこともあるが、私は電話をかけてきた人たちと話さなければならないという強迫感があった。1つの電話がその次の電話につながり、そして次のビジネス・チャンスにつながることがあるのだ。私は収支の帳尻を合わせるのに汲々としていたので、いつも次の契約を取ろうと戦っていた。私の人生は絶え間ない電話の連続だった。

 大体、私は初対面で会って60秒以内に、その人が信頼できるかどうか決める。ぴったりした黒のズボンに、先のとんがった靴を履いたマルコム・マクラーレンを見たとき、彼とビジネスをするのは容易だろうかといぶかった。

 1977年の女王陛下即位25周年記念日の日、マルコム・マクラーレンはテムズ川で観光船を一隻借り、国会議事堂に向かって川をさかのぼった。…下院のすぐ横に着くまで待って、バンドの連中はギターとドラム・スティックを取り出し、彼ら流の英国国歌を叫び始めた。…警察は彼らを逮捕した。その週、「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」は10万枚売れた。…テレビとラジオで放送禁止になった。われわれの観点からすれば、これはすばらしいビジネスであった。禁止されればされるほど、さらによく売れたからだ。セックスピストルズはわれわれが探し求めたバンドであり、転換点ともなった。

 繁華街を歩くすべての買い物客、すべての農家、すべてのバスに乗っているすべての乗客、すべてのオバアチャンまで、セックス・ピストルズのことを聞いていた。そしてそのような民衆からの抗議に接しながら生活するのは、わくわくするほど楽しかった。オスカー・ワイルドがこう書いている。「あれこれいわれるよりもっと悪い唯一のことは、何もいわれなくなることである」…彼らの悪評判は、実際に有形資産であった。報道のほとんどは否定的だったが、15年前にデビューした頃のローリングストーンズもそうだった。
 1980年のヴァージンの経常損失について、ニックの予測は正しかった。ヴァージンの赤字は90万ポンドにのぼった。

 多くのビジネスマンたちは、自分の仕事と家族を切り離している。オフィスに子どもを連れて行くことはほどんどないし、家庭では仕事の話はめったにしない。食事の時は金の話はしないというのがイギリス人の性格だが、ビジネスのことを全く話さないのは、それだけ可能性が失われるということだと思う。ビジネスとは人の生き方そのものである。ビジネスが家族から除外されている時、起業家が多く出てこないのは当たり前のことだ。

 人に会って30秒以内に品定めをするのと同様に、私は新しいビジネスの提案書も、それがワクワクするものかどうか、やはり30秒以内に決断するようにしている。膨大な量の統計を調べるよりも、はるかに直感というものに頼ることにしている。多分、難読症のために、数字というものを信用しないからかもしれない。数字はなにかを証明するために、あれこれ操作できるという気がするのだ。

 パリのメガストアは、信じられないほどの大成功だった。…今日でも一平方フィートあたりの売上げは、世界中のどんなレコード店と比べても2倍以上を誇っている。…最上階のカフェでさえも、フランスのビジネスマンたちが落ち合うスマートな場所になった。

 我々は丸井とジョイント・ベンチャーを設立した。丸井は鉄道駅の重要性を理解した最初の小売会社であった。大きな駅のえきるだけ近くに店を作り、おびただしい数の乗降客をつかんだ。…丸井は東京の中心部の主要なショッピング・エリア、新宿の丸井ファッション館にすばらしい物件を確保してくれ、わが社は1000平方メートルを取得した。それは丸井の物件だったし、私たちは売上高の一定のパーセンテージを家賃の代りに支払うという消化仕入れ方式に合意したので、法外に高い敷金を払わずにすんだ。

 <個人的プロフィール。ブランソンは、独立した、ほとんど「非体制派」のイメージを築き上げた。彼は若い人たちと、日本人に非常に人気が高い。日本では、偶像視されている>

 多分、自分の求める正義のために戦うという意味で、私はナイーブだろう。多分、それは理想主義だろう。あるいは私は単に頑固なのだろう。しかし、BAの行動が違法であることは分かっていたし、その償いを求めていた。そして、私の態度を「ナイーブ」と片付けたすべての人たちに、その言葉を撤回させようと心に決めていた。

 他のどのような要素よりも、「楽しさ」がヴァージン成功の秘密である。ビジネスが楽しく、創造的だという考えは、旧来の考え方と真っ向から対立する。ビジネス・スクールではそうは教えていない。そこでは、ビジネスとは単調でつらい仕事とか、たくさんの割引資金繰表や正味現在価値などを意味するのだ。…成功を約束する要素や技術はこの世に存在しない。…成功するためには、自分自身でやってみて、実戦を身に付けなければならない。…他人の手法を真似するだけでは、成功はまったく保証できないのだ。…私の知る限り、会社というものは絶対に静止していない。…1993年以後、多分ヴァージンはヨーロッパのどんな会社よりも速く拡大し、その過程で大きな変革を行ってきた。

 いくつかの最高のアイデアは突如として降ってくるが、これらの利点を見るだけのオープンな心を持っていなければならない。1984年にアメリカ人の弁護士が私に電話をかけてきて、航空会社を設立することを提案してきた。1987年に気球狂のスウェーデン人が、一緒に大西洋横断をしようと持ちかけてきた。これらの提案は次から次へとやってきて、次にどんなものが来るのか私にも予想がつかない。しかし、注意深く耳を傾ければ、よいアイデアというものはなぜか不思議とヴァージンの本質にぴったりとフィットするのだ。

 私は決心をした後で反対意見に見舞われると、ますますやってやろうという気になってしまうのはいつものことだ。…地元の学校から始め、その後イギリス全国で実施した目隠しテストで、ほとんどの人たちが他社製品よりもヴァージン・コーラを好むという結果が出た。そこで我々はヴァージン・コーラの発売に踏み切った。

 ヴァージン・コーラを売って、大幅な赤字は絶対に被らない。生産費用は非常に安く、ほかの製品と違って、製造コストは無視できるほどだ。したがって、広告費と流通費を、直接販売高と対比できる。コカコーラ社の貸借対照表を一目見れば、これがいかに利益率の高いビジネスか、そして、そのように高いマージンが取れるなら、他社がちゃんとしたコーラを持っていれば、コークやペプシの横で売るだけの余地が十分あるということが分かる。
 
 ヴァージン生保とヴァージン銀行を設立しようというアイデアは、アルビオン通り時代の昔の社員やわれわれの第一号のレコード店でビーズ・クッションに寝そべっていたお客が聞いたら、震え上がっただろう。しかし、消費者が不利な取引をさせられているのを見ると、私は介入して行って、何とかしたくなるのだ。

 資金を集めるには50−50の合弁が最高だと今でも信じている。いずれそうなることは避けられないものだが、何かうまくいかなくなった場合に、パートナー同士はそれを正す同等の動機があるからだ。

 私はいつもリストを作りながら、毎日を送ってきた。電話をかけなければならない人のリスト、アイデアのリスト、設立すべき会社のリスト、事を起こせる人たちのリスト等々。毎日私はこれらのリストに従って仕事をし、これらの一連の電話が私を前進させる。

 すべてのヴァージンの会社で提供されている追加サービスは、お客様から提案されたものばかりなのだ。そういうアイデアがどこから出されようが、それで差がつくのであれば、私は気にしない。また、社員にも提案をするように常にいっているし、私自身も彼らの仕事を実際にやってみる。

 伝統的なやり方は、会社はまず株主を大事にし、次に顧客、そして社員は最後である。わが社にとって、いちばん大事なのは社員である。もしも幸せでやる気十分の社員がいれば、顧客も幸せになる可能性が高い。そしてやがて利益が株主を幸せにするだろう。

 新しい会社を設立する時、私のまさっていることの1つは、ビジネスに対して複雑な考えを持っていないということだ。ヴァージン・アトランティック航空の機内でどのようなサービスがいいかと考える時、家族や私自身が気に入るかどうか想像してみるのだ。往々にして、それほど単純なものなのだ。

全体のHomeへ 書評のHomeへ