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現実的な改革案 新聞記者に言論の自由を 
1.日経新聞は社名を改めよ  

 日経新聞は、まず、ジャーナリズムを定義すべきだ。「権力の監視役」という伝統的なジャーナリズムの原点から撤退するのかどうか。社長によると、「ジャーナリズムの原点とは何か。それは政治、経済、社会、文化など、あらゆる領域にわたる情報を的確に、迅速に取材し、読者に提供して、参考にしていただく、役に立つ情報として受け止めていただく、ということに尽きる」(社内報)そうで、権力のチェックは考えていないらしい。

 それならそれで、そう宣言すべきである。「我々は、過去の実績が示す通り、企業や行政の悪いところを暴くことはせずむしろ隠し、彼等がやろうと考えていることを迅速に読者に伝えることこそ第一の使命と考えている」と実態に即して説明すれば良い。欧米諸国からは笑われるだろうが、それで多くのジャーナリスト志望者が応募を辞めるから、入社後にギャップを感じなくて済む。これは両者にとって好都合だ。

 その場合、紛らわしいので社名から「新聞社」をとったほうがいい。伝統的に、「新聞」と名のつく民間の総合一般紙はジャーナリズムの役割を担っていると考えられるので、単に「あらゆる領域にわたる情報を提供して参考にしていただく」という程度の志の低い情報機関だというのなら、新聞社を名乗るべきではない。これは佐高信氏の案だが、“日本株式会社”のPRが実際の主な業務なのだから、「株式会社日本経済」としたらどうか。媒体名も、大前研一氏が述べるように「日本経済界新聞」か「日本財界新聞」と改名したほうがまだ実態に即している。私の案としては「日本経済ウォーカー」を推薦する。実態は、広告と区別がつかない日刊の情報誌であり、「情報誌としては」なかなかいい線いっているからである。 


2.新聞業界は、新聞記者に言論の自由を与えよ

 もし新聞社の冠を降ろしたくないのだったら、少なくとも、新聞記者に言論の自由を与えよ。新聞記者の良心を握りつぶすのはやめてくれ。経営者よ、公共の利益のために働きたいという希望を持って入社した記者の良心を踏みにじるな。記者は、何も企業利益のためだけに入社した訳ではない。そもそも新聞社は明らかな公的企業なのだから、むしろ会社の利益に反することも積極的にしなければならないし、それを評価指標としなければならない。現場の記者が、会社の既得権や利権について少しも批判的なことを対外的に言えないなど、とんでもないことだ。あなたたちに、そんなことを規制する権利はない。

 過去に、どれだけの記者が言論を封殺され、絶望し、辞めていったか。これは社会的損失であり、もはや犯罪である。「社会の自浄作用」を失っているのだ。あまりの理不尽な環境に嫌気が差して辞めていく記者も多い。

  

自己変革は無理
 なぜ個人の言論の自由が重要なのかと言えば、経営者サイドからの改革は、絶対に無理だからだ。株式会社は、株主の利益を追求する建前がある。記者クラブや再販といった利権を手放すことは、社会全体のためにはなるが、日経の経済的な利益には明らかに反する。自ら利権を手放すことで読者の信頼を勝ち得て部数増につながるかと言えば、残念ながら300万もの読者を平均すれば、知的・倫理的レベルはそれほど高くない。欧米の高級紙のように、収入レベル・知的レベルが高くジャーナリズムを理解できる数十万の読者だけを相手にしていれば良い、という訳ではないのだ。

 それに、権力を監視する「調査報道」は、カネと時間がかかる割に量をこなせないため、能率が悪い。紙面を増やすことで広告収入を伸ばすことが、再販・宅配体制で部数が安定した日本市場では確実に利益につながる。紙面を増やすためには、記事を量産できない調査報道に記者を使うのは合理的でない。つまり、ある限られた読者層を対象とした場合(例えば「週間金曜日」など)は別として、総花的な読者層と巨大部数を前提に既に成立してしまっている「既存の」日本市場では、ジャーナリズムとコマーシャリズムは絶対に相容れないのである。もちろん、リストラで自ら規模を縮小してジャーナリズムを志向することは可能だが、カネにしか興味がない日経労組が巨大な利権(規制のおかげで組合員の平均年収1200万円超)を手放すことはあり得ない。

 記者クラブ問題にしても、過去数十年を振り返ればわかるように、全く変革の気配がない。税金を使って役所の一部をタダ同然で占拠し、独占的に一次情報を得ている状況に変化はなく、大新聞・テレビは、変革の必要性を認めながらも、既得権を手放すことは考えていない。泥棒は自ら縄を綯わないものである。記者クラブのテナント料を市場価格で支払うことを決めた瞬間、毎日新聞や産経新聞は経営が破綻しかける。自己変革は絶対に無理だ。しかし、これがいかに社会的な損失であるか、公共の利益に反するかは、考えるまでもない。 

現実的改革案 

 それでは、どうすべきか。私は実現性のない規範論を述べるつもりはない。以下の結論は、極めて現実的である。

 第一に考えられるのは、税金の投入と監視機関の設立だ。フランスでは、新聞社に税金が投入されているそうである。さすが民主革命発祥の地、自由の国だ。ミッテラン元大統領に隠し子が見つかっても「それはプライバシー」と騒がなかった冷静な国民性がなせる業である。これは、現状の巨大部数を極端に減らすことなく軟着陸させる方法としては最良であろう。勿論、税金を投入したからには、権力から独立した監視機関も作る。年に何度か査察が入り、財務状況や評価制度に厳しいチェックを入れる。いかに権力の悪事を明るみにできたか、が新聞社の最大の評価指標である。

 皆がリクルート事件やウォーターゲート事件のようなコストのかかる調査報道をすべきだ、皆が権力に立ち向かうべきだ、というのは容易い。しかし、それを現状の巨大新聞社に求めるのは無理だ。金儲けをうまくやった人が評価され、それは公の職務に反していようが関係ない。例えば、金儲けのため2001年から8ページ増やし48ページにする日経だが、これは関東地区と関西地区のみが対象である。全国の読者の情報格差をなくすというのが再販制度の目的であり公の使命なのだが、そんなことは金儲け主義の前では奇麗に忘れ去られ、都合の良い定価販売(国際標準の3倍以上)の規制だけを享受しているのが実態だ。現状では、チェック機能が何も存在しないのである。

 公の仕事というのは、そもそも市場競争になじまない。だから税金でやるのである。公の使命を必然的に負う新聞社が税金の補助を受けるのは、少なくとも政党助成金が存在するのと同じくらいは合理的である。どちらもカネがかかるが、それは“民主主義のコスト”として正当化される範囲内であり、透明性と監視機能が働いているならば問題はない。

 第二に考えられること、そして私が最も重要だと思うことは、やはり社内的な言論の自由を認めることだ。それだけで最低限、ジャーナリズムは確保されるだろう。経営者が経営の論理を押し切ろうとしたなら、いつでもどのメディアであっても、意見を述べられるようにすべきだ。言論機関は、開かれた存在であるべきなのである。「巨大部数を背景とした経営の論理」と「ジャーナリズム精神」が根源的に相容れない以上、経営の論理に対して異論を唱えられる権利が強く保証されない限り、チェック機能が働かず、健全さを保つことができない。内部の言論の自由だけでなく、報道機関同士の異論・反論も、活発に行われるべきなのは言うまでもない。

 新聞社というのは、他者を批判することを商売としているくせに、自社が批判されることに極端に神経をとがらす。これがおかしいことは、子供でもわかる。自らについては、完全に身ぎれいである必要はないが、透明性と批判に対する寛容性は持っていなければならない。言論の自由を売り物にする以上、社内の言論の自由を最大限に認めるべきである。例えば、会社の天皇死去に対する一方的な報道姿勢に疑問を持ったら、いくらでも個人名で「これはおかしい」と外に向かって言えなければならない。「個人としてはいろんな意見があるが、会社としてはこうなった」というプロセスがあるのが当然で、「編集権」や「経営権」を持ち出して社員ではなく個人としての意見までを統制するのは、言論機関として全く健全でないばかりか、憲法の「言論の自由」の原則に明らかに反する。

 言論の自由があれば、新聞社自身の自己変革は無理でも、それがおかしいということが世間に伝わる。そして、少しづつ経営の論理一辺倒の現状も、公の利益に合致する方向に修正されていくことが期待できる。読者の目を無視することはできないからだ。私は、言論の自由を、インターネットという新しいメディアを利用して実践し、潰された。この言論弾圧が許されない行為であることが、いつか証明されるだろう。

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