「東京の下層社会」/紀田順一郎/2000年、ちくま学芸文庫

◆知るべきことを知っていなかったな、というのが第一の感想だ。新聞記者をやっていながら、自分は、自国の新聞記者の歴史さえ良く知らなかった。日本にも、明治〜大正の時代、つまり私の祖父母が育った時代には、ジャーナリズムを実践する記者が活躍しており、生き生きとしたルポが書かれていたのだ。このような事実は、本来、新聞社の社内研修などによって組織的に知られるべきだと思うが、ジャーナリズムを忘れ情報産業化した既存新聞社にそれを期待するのは無理ということか。
 「むかし、新聞記者が取材のため変装するのは日常茶飯事であった」というのは衝撃的である。今ではそのような記者はほとんどいない。本多勝一氏のように、取材をし易くするために変装し、顔を明かさないジャーナリストは、最後の砦と言えるほど珍しくなった。そもそも現代では、新聞からルポが消えた。
 「細民」は「さいみん」と打ってもワープロ変換が難しいほど死語となっているが、一億総中流とまで言われるようになった日本にも、つい爺さんの代に、このような悲惨な細民が沢山いたのか、と思い知らされることしきりだ。しかし、物価が七千分の一の時代から生きている祖父母の世代というのは、何とも不思議である。
 貧しさが引き起こす現象には世界共通のものがあるようで、それは残飯による生活であり、スラムであり、車夫であり、凄惨な工場労働なのであろう。t現代における「もの食う人々」(辺見庸)のバングラディシュのリポートなどはその典型だ。人類は、反省し改善することなく、同じ問題を引き起こしている。改善のためには事実を知ることが必要だ。明治時代の記者は貴重な資料を残したことになる。(2001年8月)→関連日誌
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 明治初期から半ばごろにかけての下層社会を調査した横山源之助(「日本の下層社会」)によれば、棟割長屋の家賃は日掛けで二銭五厘から四銭程度だった。そのころの住民一日の生活費用が三−四人家族で三十三銭以上四十五銭ほど。最大の支出項目は米代の二十銭前後だった。ところが収入のほうは、人力車夫などは一日四、五十銭になったようだが、ほとんどは一日に十銭にも満たないありさまで、これでは生活不可能なので、女性や子供が屑漁りという内職で補い、食費を残飯で浮かせたりした。平均日収を二十銭として、これを二十五倍した五円を月収とみなすことにすれば、当時安月給の見本のようにいわれた小学校教員や巡査の初任給が七、八円だったのに比較しても、最低生活というしかない。月収五円の価値を現代の物価に換算するのは容易ではないが、一つの基準として明治中期から現在まで約七千倍に騰貴している米価を基準とすれば、当時の五円は現在の三万五千円程度に当たる。また、明治半ばごろにおけるスラムの家賃の平均を三銭とし、月額(三十倍)を九十銭と計算し、これを当時一般的な長屋形式の賃家(六畳・四畳半・三畳・台所・洗面所)の家賃三十八銭と比較するとき、いかに苛酷な金額であったかがわかるであろう。

 むかし、新聞記者が取材のため変装するのは日常茶飯事であったが、いまはその種の感覚が薄れてしまっている。一億総中流のため、あらゆる職業がサラリーマン化し、変装なんかする必要もなくなった。明治から対象にかけての記者がスラムの探訪記事を書く際に、まず苦心したのは返送であった。この傾向のきわまるところ、対象初期の変装記者として木賃宿や無料宿泊所のルポを書いた村上助三郎「東京闇黒記」(1912)や、縄暖廉の店員などを実地体験した知久政太郎「人生探訪変装記」(1912)、「変装探訪世態の様々」(1914)のごとく、変装そのものを売物にした探訪記のブームとなり、内容もむしろ猟奇を競い合うようになる。しかし、このような記者の先駆をなしたのは、明示中期に反政府系の新聞(「国民新聞」や「日本」など)に掲載された一連の貧民窟探訪ものの著者といえよう。彼らは当時日本経済がはじめて経験した恐慌により大量に生まれた貧困階級の実態を、スラムの真っ只中に身を置きながらきわめて迫真的な報告にまとめあげたのである。その一人が咲きに紹介した松原岩五郎(「最暗黒の東京」)だが、ここにとりあげる「貧天地飢寒窟探検記」の著者桜田文吾もそれにひけをとらない、すこぶる臨場感あふれるルポを残している。

 この時代に車夫が多かったことは、明治末年の内務省「細民調査統計表」でも下谷浅草地区約三千所帯中、四百三十五人を数えることでわかる。20年代にはもっと多かったと思われる。一口に車夫といっても医者や官吏に雇われる「お抱え」、車宿に雇われる「やど」、停車場などで客町をする「ばん」(溜り車夫・株車夫)などがあったが、最も多いのは流し専門の「もうろう」で、汚れた車を夜陰にまぎれて流し歩くことからこの名があった。

 軍隊から味噌汁の冷めない距離を保つことは、福祉なき時代の極貧階級にとって生存のための必要条件だったのである。帝国陸海軍の廃棄物によって、社会の底辺が支えられていたというのは皮肉というほかはないが、当時は軍隊側も残飯の処理に窮していたので、払い下げに協力的だったという。ところが、日清戦争以後、産業構造の大きな変化によって細民の数が激増すると、とても軍隊だけでは追いつかなくなってきた。彼らは工場や大学など、残飯の新たな供給源を求めて奔走しなければならなくなる。残飯源の拡大と多様化が、即明治社会の発展にほかならないというのも、やはり皮肉というほかないであろう。このような残飯源の変遷にはじめて着目したのは、新聞記者出身の細民研究家、草間八十雄(1875−1946)であった。松方デフレ政策により没落した長野の素封家の息子として生まれた彼は、新聞記者時代に四谷区旭町のスラム街を取材したのがきっかけで極貧階級の生活に興味をいだくようになり、のち東京市社会局の嘱託として細民調査に協力し続けた。

 早くからこのような女工の実態を暴露したものとして、最初の章に記した横山源之助の「日本の下層社会」(1899)や前述の「女工哀史」、それに近年では信州出身の製糸女工を描いた山本茂美「ああ野麦峠」(1968)などがあり、今日文庫化もされているため内容もよく知られているが、このれらに匹敵する重要なドキュメントで、研究者以外にはあまり読まれていないものがある。その筆頭に位置するのが明治36年(1903)、時の農商務省(のち、農林省と商工省に分離)商工局による各種の工場の調査記録「職工事情」である。いわば官製の記録であるが、実地に経営者や事務員、女工をふくむ職工たちに面接、精細にその証言を採録することにより、当時急激に社会問題化しつつあった工場労働の実働の実態を把握しようとしたもので、その態度は概して客観的である。