おいらとゴルフ


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♪打ち方スタイル色々あれどー♪
何処かのコマーシャルソングじゃあないけれど、 ゴルフのスウィングに関しては千差万別、多種多様である。
そして雑誌、テレビのレッスン番組と師匠にはこと欠かないのだが、 プロによって理論が全然違う。 グリップひとつでスウィングが変わってくるのだから、 当たり前と言っちゃあ当たり前なのだけど頭の中は大混乱。
そんなおいらの自己流ゴルフの歴史をたどって行こうと思ってます。

*** 目 次 ***

2/6◎出会い江戸川の河川敷の打ちっぱなし
2/9◎距離と方向性初ラウンド
2/23◎お師匠さん殿様ゴルフ
3/5◎上達への近道マナー、エチケットそしてルールテニスブーム
3/28◎クラブの進歩(その1)再びゴルフブーム会員権購入
5/4◎クラブの進歩(その2)コースへ一人旅何!Oさんが30台を出した?ハンデキャップ取得
6/9◎1987年のおいら会員同士のコンペ己が姿に冷や汗(;-_-メ;)タラリ
7/22◎1988年のおいらアドバイススィングスピードロングアイアン
8/25◎1989年のおいらハーフ初の30台シャンク試行錯誤2個目の会員権
9/30◎我流の勧め(その1)初のオフィシャルハンデ平成6年はよい年だホールインワン

2001.2.6/記
出会い

最初にゴルフのクラブを握ったのは昭和42年頃だったと記憶している。 多分第何次かのゴルフブームだったに違いない(僕がやるくらいだから) ちょうどジャンボ尾崎がプロデビューした頃だ。
きっかけはスキーで骨折した事(それも初めてのスキーで) こんな危険なスポーツは無い!どうせお金を掛けるのなら・・・。 という訳でゴルフをやり始めたという単純な動機でした。
当時はスキーもゴルフも贅沢な遊びだったのだろうな?

江戸川の河川敷の打ちっぱなし

姉のお友達から中古のハーフセット(キャディバッグ付)を ¥8,000也(当時としては大金でしょう)で譲ってもらい、 近所の友達と江戸川の河川敷きの打ちっぱなしに行ってました。 もっぱらどこまで飛ばせるかっていう勝負で、 思いっきり引っ叩いてたっけ。 (ダフッてゴムマットも叩いたっけ)しまいにはドライバーのシャフトが歪んでしまいました。 最初は引っ掛けボールばっかりだったような記憶があるが、 そのうち色んな豆知識が登場してナイスショットはスライス、 と相場が決まった。
そして初ラウンドまで約2年間の月日が流れるのである。 back↑
つづく

2001.2.9/記
当時ゴルフは飛ばしてナンボだと思っていたので、 コントロールするなんて事は考えもしなかった。 それが今日の飛距離につながっているのかもしれない。
そこで飛距離と方向性について考えてみる。

距離と方向性
距離と方向性は反比例の関係にあり、 概ね左の図のようになるのではないでしょうか。
経験的に妥協点のスウィングスピードは、「コンチキショウ!」 と振ったときの70〜80%のような気がする。
とにかく最初はクラブをビューンと振る事を覚えるのが肝心。 最初から方向性を気にすると、 どうしてもボールに当てに行く様になってしまう。
そしてある程度ゴルフが判ってきたらスウィングスピードを調整していくのが望ましい。

タイガーウッズみたいにあんだけ強く振って曲がらないのが理想だけど、 そうも行かんでしょう。物が違うんだから。
でも「飛びますねー」と言われる快感は捨てがたいですよね。

初ラウンド

昭和44年ピーターパンが開店(3/5開店)した年の夏、 当時毎日のようにいらしていた同年代のTさんに青梅ゴルフ倶楽部へ連れて行っていただいたのが、 初ラウンドなのです。
クラブを握ってから2年が経っているのだけど、 その間打ちっ放しに何回行っただろう? もちろんトラック一杯のボール(参考) なんぞ打ってるわけが無い。
ずいぶん前のことなので記憶は定かではないけれど、 スコアが67-65の132だった事と、 グリーン周りから何番アイアンかで"ガチャッ!ポン" とチップインした事はハッキリ覚えている。
何でもそうだけど 好きになるのも嫌いになるのも初体験
スキーと違って多分楽しかったんだろうなー。
皆さん初めてラウンドする方とご一緒する時は盛り立ててあげましょうね。
ゴルフが好きになるように。 back↑
つづく
2001.2.23/記
お師匠さん

その後河川敷のコースへ下手同士で数回は行ったような記憶があるが、 もっぱら気持ちよく飛んでいくドライバーショットを楽しむゴルフである。
昭和45年にお客さんで来ていたS氏とお友達になった。 ゴルフコースやホテルなどを経営している某観光会社に勤めていて、 歳も同じだった事もあり親しくさせて頂いた。 そしてこのS氏のセッティングで定期的にラウンドするようになった。 もちろんゴルフも上手で、 このS氏と出会った事で僕のゴルフも少しづつスコアを考えるようになった。
言わばゴルフについて色々教わった師匠なのである。

殿様ゴルフ

S氏の勤めていた某観光会社の経営するホテルで前泊、 翌日コースへという贅沢なゴルフを格安でさせてもらった。
仲間はその頃知り合ったやはり同い年の広告代理店に勤めるT・M、 T・Tの両氏と家の近所の友達O氏。 S氏を除く4人は皆同じレベルで100を切れないビギナー達。 年に7〜8回行ってたかしら?
コースを後にするとき 「よーし、定期的に練習しよう!!」 って何度となく思ったが、 実際に練習に行くのは次回の予定が決まった時1〜2回程度。
そんなゴルフが3年位続いたが、皆ついに100は切れず、 S氏の転職を機にトンと機会が減った。 back↑
つづく
2001.3.5/記
当時の僕は3年間でコースへ20数回、 練習場へは多分50回程度だったのだろうと思う。
こんな量は情熱さえあれば半年で消化できちゃう回数である。 そんな自分の反省です。

上達への近道
ハンデキャップはゴルフを始めて3年で18、 その後一年に一つづつ縮めていくと言う。 という事はシングルの入り口にたどり着くには12年掛かる勘定になる。
これは一般的な話で「好きこそ物の上手なれ」といって、 目標と情熱を持ってすれば、 より早くシングルになるのも可能だと思う。
そうそう、それに 良き指導者と時間、お金 が自由になれば・・・・ね〜。

コンチクショウ!練習して上手くなってやる! と思っても一晩寝るとすっかり忘れちゃってるんです。
やっぱり或る時期バーっとのめり込むような短期集中型が良いようです。

マナー、エチケットそしてルール

前述のS氏のお陰で、コースでのマナーやエチッケトを直接的に、 或いは間接的に教わったのは今になってとっても役立っている。
グリーンのディポットの修理、旗ざおの置き方、バンカーの入り方、ならし方、等々。
そして用語やルールに対しても同様である。
今でも気になるのはグリーンのディポット、カップ周りのスパイク跡 (時々ソフトスパイクで無い人もいる)それとのったり歩いているプレイヤー。 毎ホール続くとね〜〜。
最初からうるさく言うと嫌になっちゃうし、 教える人も気を使うけど興味を持った頃にちょっとづつ教えるのが良いのかな?

テニスブーム

記憶では48.9年頃、丁度オイルショックを境にゴルフ人気は下降線をたどり、 世はまさにテニスブームへと移っていった。
そしてゴルフが再びブームになるのに5〜6年掛かったのではないだろうか? この間、僕もご多分に漏れずテニスコートへと足繁く通ったのである。 back↑
つづく
2001.3.28/記
約4〜5年の間ゴルフのクラブは埃をかぶっていたんじゃないかしら? そう言えば最初に買った中古のクラブは当たり前だけど すでに無く、アイアンはいま5セット目になっている。 練習場でゴムマットを引っ叩いてシャフトが歪んだドライバーが懐かしいな〜。

クラブの進歩(その1)
現在使ってるクラブは、ドライバーは45インチのチタンヘッド、 アイアンは鋳造軟鉄のキャビティ、シャフトはカーボンである(詳しくはいずれ又)
今大半のゴルファーがこの種のクラブを使っているが、 僕がやり始めた頃はウッドはパーシモン(柿の木)或いは合板を張り合わせた物(安価) で、シャフトはスティール。
昭和40年代後半にメタルヘッドにカーボンシャフトと言う組み合わせの物が出てきたが、 金属の重さに耐えがたく、ヘッドの大きさはかなり小さくなっていた。つづく

実はこの頃のメタルヘッドンの#3ウッド(スプーン)とパーシモンの#4ウッド(バッフィー) は現在も使っている。なんたってクラブって高いからねー。

再びゴルフブーム

昭和53〜4年ごろになると、お客さんの中からゴルフの話題が再び出始め、 コンペなどにも誘われるようになって来た。
おいらのゴルフは相変わらず良く言うところの"迷惑の掛からないゴルフ" っていう奴。練習も以前と同じで誘われると練習場へ駆けつけるという付け焼刃のゴルフでした。
そしてこのブームは青木、尾崎、中島のいわゆるA、O、Nの出現によってバブルの頃まで続いた。

会員権購入

昭和55年に当時よくいらしていたT田さんから勧められてオープン前の
埼玉国際ゴルフ倶楽部
の会員権を購入した。
ゴルフをやり始めてからしばらくして会員権の一つも持っていてもいいんじゃないかな? とは思っていたのだが、こういうものはきっかけが無いとなかなか買えないもんだ。
それと僕のゴルフの師匠である前述のS氏のポリシーが「平日行くのなら安いし、 一つの所ばっかり行っても飽きるし、何回行って元が取れる」というような考え方だったので会員権の購入をしそびれていた。 人によっては、影響ある人から「ゴルフを始めたんなら会員権の一つも持ってないと上達はしないよ」 と言われて早々に購入する人もいる。
もしS氏が後者だったら僕も、もっと良いところを安く購入できたのに・・・・。
さてこの埼玉国際「オープンしたら倍の価格になる」という誘い文句に乗って購入したが、 オープン後行ってみたらひどいコースでガッカリした。
当時からすると最近は改良も進んで、JGAの登録も済みコースらしくなってきた。 back↑
つづく
2001.5.4/記
現在大半の人がウッドはチタンヘッド、アイアンはキャビティ、 そしてシャフトはカーボンのクラブを使っている。
各ゴルフメーカーも素材の開発と設計に力を入れている。
プロの世界でも易しいクラブを求めて、 アマチュア用のクラブを平気で使うようになっていると言う。

クラブの進歩(その2)
ウッドの進歩は目覚しく、その素材はいまやウッド(木)ではなく、 メタルヘッドに変身している。 そしてチタンの出現によって飛距離は格段に伸びた。
パーシモンの頃はジャンボ尾崎に代表されるプロの飛ばし屋で 250y位ではなかったのでしょうか?アマチュアで220y飛んだら飛ばし屋と言われていたし、 トーナメントコースもミドルで400yを越えるホールは余り無かったような記憶がある。
このチタンは軽いのでヘッドを大きくする事が出きる為、 スィートスポットも広くなる。その広さはパーシモンで一円玉、 チタンで五百円玉の大きさだそうだ。
ボールの進化と相まって飛距離は10数%伸びたのではないだろうか。 これに伴ってコースの改良も必要となってきた。狭い国土なのなにね〜。 つづく

最近ドライバーのヘッドの容量は300ccを越えるものが主流のようだ。 スプーンなんかもたまに人のを借りて使ってみるとヘッドが大きくて当たりそうな気がする。
今使っているマルマン"弾丸"に比べたら・・・。

コースへ一人旅

昭和57年にやっとオープンした埼玉国際へは仲間を誘って時々行ってはいた。
せっかく買った会員権なのだから一人で気ままにふらっと行くのもいいかな・・・ と思ってみたものの一人で2時間弱車を運転して行くのも、 見ず知らずの人たちと一緒にラウンドするのも億劫で仕方が無かった。
この頃になると既に100は切れるようになっていたようだが、 スコア的に迷惑をかけるのではないかという問題より、 単純に面倒臭いのである。
意を決して一人で行く様になって色々なメンバーさん達と知り合い、 楽しくメンバーライフを過ごせるようになった。
そう言えばフロントの女性から名前を呼ばれた時は嬉しかったっけな〜。 "名前を覚えていてくれてる!" と思った時、会員として認知されている実感を得た。

何!Oさんが30台を出した?

ちょうどこの頃、近所に住むお友達のOさんと久し振りに会った時、 「どう?ゴルフやってる?」って聞いたら 「ボチボチやってるけど、そう言えばこの間30台が出たよ」 って言うじゃありませんか。 こっちとら40台の前半が出たら喜んでいた時に。
一緒にやり始めて、100も切れずどっちが飛ぶか? ってなゴルフやってたのに、しばらく会わないうちに(--)ム!30台を出したとは。 ここでよっちゃんの負けじ魂(負けず嫌いのが正解?) に火が付いちゃったのです。
こんな事がきっかけで、記憶では定期的に練習に行くようになり当然スコアも上がって行った。 やっぱりライバルって必要なんです。
蛇足ですが最近Oさん五十肩でゴルフは全然やってないと聞いて、 ちょっぴり寂しく思う今日この頃です。

ハンデキャップ取得

昭和63年に埼玉国際もコースレートを取ったり、 コースの改良を重ねて、月例競技等のクラブ競技を行うようになった。 それに伴い、いよいよハンデキャップの取得が出来るようになり、 3ヶ月に5枚のスコアカードを提出して、 最初に貰ったハンデは24でした。
そしてこれを機に(もちろんライバルのOさんの出現も伴って) 年間ラウンド数も増え、練習も一層熱が入っていった。 言わばこの頃が本格的な"おいらのゴルフの幕開け"と言って良いかも知れない。
初ラウンドから何と17、8年経っていた。 今考えてみればゴルフに関しては中身の無い歳月でした。 やはり物事は短期集中で凝縮させる事が重要と痛感させられます。 back↑
つづく
2001.6.8/記
そんなこんなで、多分昭和61年(1986年)頃から練習量も増え、 コースへも年20回ほど行く様になったように記憶している。 折りしもバブルの始まりで新規のゴルフ参入者も増えた頃だ。
そして手元にも昭和62年(1987年)からのゴルフの記録が残っている。
これを見ながら昔を振り返ってみようと思う。
1987年のおいら
ノート上の記録には結構細かいデーターとラウンド後の感想が記されている。
恥ずかしながらかいつまんで見ると例えば、 ラウンド数21回で、アベレージ97.8。ベストハーフ41。ベストラウンド87。 という具合である。
パット数などは35.1で今とそんなに変わらないのだが、 パーオン数(3.0ホール)、パーの数(3.7ホール)で少なく、ダブルボギー以上のホールが(4.4ホール)と多い。
そしてメモには「軽く振り抜く」「欲を出さない」 などの記述があり、何ら今のテーマと変わってないのでした。
アプローチに至っては「不安感あり」と有り、今の下手さ加減はこの頃から引きずっていた様です。
締めくくりに目標として30代を出す事と、アベレージを90位にしたいとあった。  目標達成に何年かかったのでしょうか?

この頃になるとラウンド数も多くなったせいか、練習場にも足繁く通っていたようだ。
メモにも練習場でよいショットが打てるのにコースへ行くと不安感が付きまとうとある。
そう言えば鏡の前でよく素振りをしてたのもこの頃かな〜。
(今でもやってる)***影の声***

会員同士のコンペ

昭和62年の夏一人で埼玉国際へ行った時に組み合わせになった方達 (皆一人づつで来ていた)の中のお一人が、飯盛会というコンペを主催していた。 蛇足だが飯盛会という名称はコースの中にある御神体を奉った小さな山の名前である。 その方は新宿からコースが仕立てているリムジンバスを利用して来ているらしい。 そしてそのバスを毎回利用するメンバーで立ち上げた会だということなのです。
目的は会員の意見を反映させない埼玉国際に対して、 幾分かの圧力をかける為ということでしたが、 深い意味もなく誘われるまま飯盛会に入ったのです。
20人程度の会員数でしたが、 この入会をきっかけに顔馴染みも増えて楽しいクラブライフを満喫できるようになりました。

己が姿に冷や汗(;-_-メ;)タラリ

ちょうどこの頃だと思うのだけど、前述のご近所のOさんと一緒に近くの練習場へ行った時、 練習場でビデオ撮影のサービスをやっていたので撮って貰う事になった。
イヤーまあ( ゚_゚;)びっくり!自分じゃあ判らないんです自分の格好が。
今でもはっきり覚えているけど、簡単に言うとテークバックで右腰が突き出て、 言わばギッコンバッタンって言う奴になっているんです。
言葉ではこれ以上の説明は長くなるので止めときますが、 何しろ醜いスィングだったので(もちろん悪スィング)それからと言うもの、 洗面所の鏡の前に行っちゃあ、必死で矯正に励んだのでした。
テークバックからトップの位置で突き出た右腰を、 逆に目標方向(左側)へ突き出す矯正です。
いつ矯正できたか?って言うのは判らないけど、そんな涙ぐましい(?) 努力の成果は知らない間に身に付いているのでしょう。 back↑

つづく
2001.7.20/記
引き続いて1988年の記録を覗いてみる事にする。
この年になるとゴルフの交際範囲も増え、 今までのゴルフ仲間に加え、色々な方とラウンドしている。
そして埼玉国際へも月例(4回)、飯盛会(3回)、プライベート(6回) と急激に回数が増えており(前年2回)、 この年からゴルフに対してより積極的に取り組み始めたようだ。
1988年のおいら
ラウンド数34回、アベレージ95.1、ベストハーフ41、ベストラウンド85。
前年よりアベレージで2.7ストローク、ベストラウンドで2ストローク縮まっている。
個別に見てもパーオン、パーが増え、Wボギー以上の数が減っている。 努力の甲斐あって、ショットの安定性が増したようだ。
しかし感想欄に書いてあることは、今現在思い悩んでいる事と何ら変わりがない。 この十数年何やってたのかしらね?
そしてこの年もアベレージ90は切れず、目標は翌年へと引き継がれている。


アドバイス

前年(1987年)の暮れに竹林隆光氏(注)にアドバイスを受ける機会があった。 大叩きをする原因の一つ、スライス撲滅の為のアドバイスを頂いた。 彼はクラブも持たない僕の素振りを見て、原因を指摘し、そして其の矯正法を教えてくれたのです。 10回練習場へ行けば大丈夫と言われて早速取り組みました。
簡単に言うと3番アイアンを使用してティアップしたボールを、 目標より15ヤード位右にプッシュアウトに打つ練習なんです。 その後身体の回転で右に出たボールを左に引き戻すという訳なんですが、お判り頂けたでしょうか? 疑問のある方お店の方にどうぞいらして下さい.受け売りします。
このアドバイスという奴も、自分自身が信頼できる人から受けなければ効果がないのである。 疑問符?が付いたら一寸でも上手くいかないと「やっぱりダメだ!」で終わっちゃうのである。
そしてこの打法が開花したのはこの年5月になってからであった。

(注)竹林隆光氏
存知の方もいらっしゃると思うが、現在クラブ設計家として又、 ゴルフ雑誌などのメディアにも幅広く活躍している。 成蹊大学ゴルフ部OBで、ツァーでもベストアマを取った実績もある。
彼は学生の頃からピーターパンに来ていて、ゴルフクラブに関してはいろいろお世話になっていた。 そして彼のオリジナルクラブ(Fourteen)の愛好者も多く見られる。

スィングスピード

竹林氏が高島屋の本店5階にショップを開いていたので時折ブラーッと寄っていたのだけど、 ある日スィングスピードを計ってもらった。
1988年10月29日のメモによると

★ヘッドスピード 44〜47m/s(平均45m/s)
★球の初速 60m/s(平均)
★ミート率 14
★軌道 インサイドアウト(オープンフェイス)

この数値が何を物語っているのか良く把握していないのだが、 記憶に寄れば当時尾崎建夫がこのショップで計ったときのスィングスピードは50m/sを超えていたということと、 おいらのスィングスピードはアマチュアでは飛ばし屋に入るが、ミート率が悪いということ。
そしてスィング軌道はまさに改善されていているでは有りませんか。スライスからフックへ一年で見事変身です。 

ロングアイアン

アベレージゴルファーの方なら誰でも経験があると思いますが、 ロングホールの第2打目にフェアウェーウッドを使ってチョロや、 大スライスでOBなどという大叩きの原因になったり、 或いは距離のない狭いミドルホールのティショットでドライバーを使ってOBを打っちゃうなんて事。
実はおいらも当時はこの手の失敗で大叩きをしてました。 前々から上級者の人達から、攻め方の一つとしてロングホールの2打目を欲張らずに “第3打を打ちやすいところへ置いておけば良いのでは” と言うアドバイスは受けていたのですが、頭では判っているのだが実際コースへ出てその場になるとウッドを掴んでいたのです。
前述の竹林氏のアドバイスがきっかけでロングアイアンもそこそこ捕まるようになったのでコースで実践するようになってから、 ロングホールや狭いミドルホールの大叩きは減ってきた。
使用クラブは4番アイアンで、もちろん練習場でかなり打ち込んだと言うことを付け加えておきます。 back↑

つづく
2001.8.23/記
1989年(昭和64年、平成元年)、バブルの真っ最中で土地も株価もゴルフ会員権も何もかも上昇して、 にわか成金が増えた年でした。
ピーターパンも開店20周年記念パーティを銀座東武ホテルで開いた年でした。
1989年のおいら
ラウンド数35回は、ほぼ前年並み。アベレージ92.7、ベストハーフ37、ベストラウンド80。
前年よりアベレージで2.4ストローク、ベストラウンドで5ストローク縮まっている。
全体的にゴルフそのものの形が出来上がってきた年かもしれない。
夢だった90を切る回数も約1/4の9ラウンド有り、それに目標のハーフ30台がついに出た年です。
締めくくりに来年の目標はラウンド70台、アベレージ80代とあります。 ここまで来ると、すぐ手の届くところに有りそうですが、さて現実は?

初のハーフ30台

この年の4月ピーターパン開店20周年パーティーを銀座東武ホテルで開かれた。
その為の準備に忙しく、気持ちも舞い上がってた4月3日、 前述の埼玉国際のメンバーで構成された飯盛会のコンペのお誘いがあった。
練習もしてないし、気ぜわしい中ゴルフどころじゃないのでキャンセルしようと思ったのだが、 お付き合い優先で、余り恥ずかしくないスコアで上がれば良いかなって言う軽い気持ちで参加したのです。
前半45で上がって「そんなに大叩きもしないで良かった」とホッとしてたんです。 そうしたら何と後半、初の30台が出たんです(par35)。
その内訳はパー4、バーディー2、ボギー2、Wボギー1の2オーバー37回で、 『考え過ぎず軽めに振っていったのが良かったようだ』と記されている。

1オーバーで迎えた最終ロングホールのティグランドで、ティショットに使うクラブの選択に迷ったのをはっきり覚えている。 ドライバーか?アイアンで4オン狙いか?
なんて言ったってWボギーでも3オーバーなのだからOBさえしなければ・・・。
夢のまた夢だった30台がこんなに簡単に出て良いものなの? もうちょっと先に現実が訪れてもいいんじゃないの?と思った瞬間ドライバーを抜いて一振り。 ボールがフェアウェイに留まった時にホッと胸をなでおろした。 そして3オン・3パットのボギーでめでたく初の30台を達成したのです。

この年9月に再び2オーバ−37回が筑波カントリーで出ており、ハーフ30台は途切れることなく毎年出るようになった。 言わば、この年はおいらのゴルフがステップアップしたターニングポイントであったのは間違いなさそうだ。

シャンク

前年の中ごろからシャンク(注)の恐怖におののいている様子が記されている。

このシャンク、原因は色々あると思うのだが、きっかけは前述の竹林氏にアドバイスを頂いてからなのです。
言うなれば、クラブの軌跡がインサイドアウトに矯正され、テイクバックでインサイドに引かれたクラブが、 ダウンスウィングで体が止まり手打ちになる、という事だと思うんです。
と簡単に一言で済むような話ではないのですが・・・。何しろグリーン周りでシャンクの連発、グリーンを半周。なんて事もあった。 この恐怖は何と数年の間、時々頭をもたげておいらを悩ませたのです。

(注)シャンク
現象として狙っている方向より45度程右にすっ飛んでいくボールを言う。
シャフトの延長上にあるクラブヘッドのホーゼルに当たって右にすっ飛んでいくボールをソケットと呼んでいるようだ。

試行錯誤

1990年のゴルフは回数39回(前年比+4)の割にスコアに格段の進歩が見られない。 そのせいも有るのか終盤はコメントが記されていないのである。

この頃はコースへ行かない日曜日はまだテニスコートへも行っていた。 そしてテニスの帰りには必ずゴルフ練習場へも通っていたくらい練習に余念が無かったのだが、 肝心のスコアがついて来ない。
多分ゴルフそのものは進歩しているのだけれど、安定性がなく時として大叩きをしてしまう。
そのような原因に練習方法あるいはコースでの心構えなどがあると想定して、 スコアにこだわらないゴルフをしていたのではないだろうか。
記録を残そうとするとどうしても実力以上の事をやろうとして、結果必ず大叩きをしてしますのが定番なのだ。
試行錯誤の時代は3〜4年続いたのではないだろうか。 そしてスコアの記録が出てくるのは1994年(平6)〜1997年(平9) の4年間で、その後現在に至るまで年間アベレージなどのメモは一切無い。

2個目の会員権

平成元年の春から夏にかけて複数の友人から「扶桑カントリークラブの会員券を一緒に買わないか」 と打診があったが、既に一つは持っているし躊躇していた。
御承知のとおりバブルの真っ只中、躊躇している間に会員権の相場はどんどん上がっていくのだ。
ちなみにこの扶桑カントリー、春に300万円だったのが夏には400万円してとうとう暮れには最高値900万円まで行ったのだ。 バブルの前は数十万円で取引されていたコースがである。
一度ゴルフ週刊誌の相場表を見て電話をした事があったが、会員権やさんも強気で 『お客さん、そんな値段じゃ有りませんよ!週刊誌に載っているのはあくまでも相場で、 実際はそれに50万乗っけてください」だって。

こうなると我先にというのが人間の心理であるが、結局決心も付かぬまま年を越してしまった。 翌年バブルがはじけて株価も会員権相場も坂道を転げ落ちていったのを見計らって購入に踏み切った。 下がったといえかなりの高額だったのは間違いない。

扶桑カントリー倶楽部は埼玉国際と違って距離もあるしオーソドックスな丘陵コースで、 家からの地の利も良いのが何よりでした。
そしてJGAの加盟コースなので、公認ハンディキャップをもらうため一生懸命通いました。
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つづく
2001.9.30/記
時は平成へと移り、馬鹿騒ぎをしていたバブル景気も徐々に翳りを見せ始めたのである。

が、このおいらは常磐道で一本の地の利を生かして(?)平成3年から5年にかけて、 新しく購入した扶桑カントリーへ年70回位通いつめていたような記憶がある。
そしてこの扶桑カントリーにも多くのゴルフ友達が出来たのでした。
我流の勧め(その1)
最近の若手のプロを見ているとスウィングが皆同じように見える。
昔みたいにキャディからの叩き上げであるとか言うプロは少なくなって来ており、 我孫子流だとか、葛城流なんていう言葉は聞かれなくなった。
小さい時からプロに習ったり、高校、大学とゴルフ部に所属したりで、 スィングはオーソドックスになっている。
しかし過去にそんな経験を持ち合わせない我々一般のアマチュアゴルファーに至っては、 一度身に付いたスィングをそんなに簡単に直せる訳がないのだ。
そこでお勧めするのは我流ゴルフなのです。
もちろん超ビギナーやこれから始める人はちゃんとした理論をもった人や、 プロに系統だって教わるのが上達の近道なのは言うまでもないが。
かく言うこのおいらはお金を出して教わったことはないのである。 これが上達を阻害しているのは間違いないのだが、 今さら意地でもプロの教えは請わないつもりだ。

初のオフィシャルハンデ

扶桑カントリーに入会していよいよオフィシャルハンデを取得をする事になった。
このJGA認定ハンデは色々難しい計算方法があるのだが、 とりあえず仮ハンデという名目で3ヶ月で5枚のスコアを提出し最初に頂いたハンデキャップは17であった。
そしてハンデ取得と共にクラブ競技会への参加資格を得て、 各競技会の優勝とAクラスに入る目標に向かって邁進するのであります。
月例競技会はAクラス(ハンデ15まで)、 Bクラス(16以上)に分かれており、当然Bクラスの月例に毎月参加していたのです。 そしてBクラスの月例で頂いたトロフィーは平成4年の11月に4位に入った時の一個だけでした。

現在Aクラスはハンデ13までとなっている。

平成6年はよい年だ

平成6年のかいつまんだ記録メモが残っている。それによるとこの年いくつかの目標が達成されている。

年間アベレージ90を切る(89.5)
初のラウンド70台達成(36−40⇒76)

そしてオフィシャルハンデも12になっていた。ということは初ハンデが17だから3年で5減らした事になる。
年間アベレージ、ラウンド70台とも明確な目標を持ってから実に5年の歳月が経っている。
何とも牛歩の如くではあるが、目標を持って事に当たればいつの日か陽が当たるという証でもある。

ホールインワン

ゴルフにいそしんでいる者なら誰でも一度は経験したいと願っているあのホールインワン、 狙って出来るものでもないし、ただただ偶然を願うしかないのだけれど、 その偶然がやって来たのである。

平成7年8月20日埼玉国際の月例競技の時である。 南コースの9番ホール、コーライグリーンの乗るのも一苦労の小さいグリーンでそれは起こった。
ピンの右側にキャリーしたボールはグリーンの傾斜に添ってフック回転でカップに吸い込まれたのである。
打ち下ろしのホールなのでボールが消えるのをはっきり見ることは出来たのだが、 大騒ぎの同伴者をよそに何故か冷静だったのです。
何故かと言うと万が一ボールがピンの後ろに止まっていて見えないのではないか? とあらぬ想像をしていたのですが、ピンの中に収まっているボールを確認した時に喜びが沸き上がってきました。
入っていた保険も有効に遣わしてもらいました。夢よもう一度!!またやりたいな〜

左の絵はその時にお配りした自画像のテレカです。
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つづく
2001.11.15/記
平成6年に念願の"年間アベレージ90"を切る目標を達成したわけだが、 その後順調にアベレージを少なくしてきた訳ではない。
相変わらず叩く時は際限なく叩くと言うおちゃらけゴルフなのである。
平成7年のホールインワン達成がきっかけかどうかは判らないが、 振り返ってみればこの年の後半から翌年の1月にかけての数ヶ月は、 ばら色のゴルフ人生だったような気がする。

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文・絵 よっちゃん