みどさんの
「トルコ旅行記」

★二十世紀最後の一週間に、駆け足で巡ったトルコの思い出を五七五七七のタイトルと ともに綴ってみました。次はどんな句が付くものやら本人にもわからない、思いつき の旅行記です。どうぞご一緒にヨーロッパとアジアの出会う土地、トルコをお楽しみ下 さい。


トルコ旅行記01>三日月に運を預ける聖夜かな     みど

このところ何だか運が悪かった。すれ違いや行き違い、忘れ物や壊れ物、一つ一つ はささいな出来事でも続くと気味が悪い。こんな時は徹底的に違う文化圏の空気を 吸ってくるに限る。アルハンブラ宮殿を訪れたときにイスラム文化の繊細さに目を 見張ったので、今度はイスラム教国に行ってみようと思った。最初に目をつけたモ ロッコは催行人数に満たずお流れ。そこで世界地図を数センチ東に移動してトルコ 八日間のツアーに参加することにした。

さて出発当日。奇しくもクリスマスイブの午後。チェックインも済ませ税関も通り 抜け、最後にちょっときつねうどんを食べたため、係員に探される羽目になってし まった。すっかり不運癖の身についた私は仕方ないよな、と首をすくめる。シート ベルトを着用して離陸を待つ間、これまで感じたことがないほどの不安を覚えた。 こんなに運が悪いときに飛行機に乗るなんて馬鹿だった。落ちたら?ハイジャック に遭ったら?次々と「不運」なケースが頭をよぎる。飛行機はゆっくりと移動を始 めた。不安感はますます高まる。やがてエンジンの音が変わった。離陸間近!ここ まできたら、神さまに運を預けるしかない。その時ふいっと気持ちが晴れた。運の 良し悪しなんて大した問題じゃない。インシャーアッラー。すべてふさわしいよう になるだけのこと。気持ちが軽くなった。肩の力を抜いて離陸を待つ。三日月に星 のマークのトルコ航空機はゆったりと空へ舞いあがった。




トルコ旅行記02>初雪つもる終点の街        みど

12時間のフライトの最初と最後に食事が二回。ともにおいしく、世界三大料理に 数えられるトルコへの期待が高まる。トレイにはピンクの豚にばってんをした絵に 「ポークは使っていません」と英語を含む五カ国語で書いた紙が置いてある。17 列目の2・4・2と並ぶ座席の真ん中は暑くて、機内は寒かろうと準備してきた身 には寝苦しいフライトになった。7時間の時差の街イスタンブールに夜の7時半到 着。乗り継ぎまでの一時間半、まずは煙草を吸わなくちゃ。横広の空港の端にカフェ テリアがある。日本円が使えることを確認してコーヒーと缶ジュースを注文。さて 支払いの段になり、千円札を手にレジをしばらく睨んでいたお兄さん、ドルかマル クはないかと聞く。いいえ、だからさっき聞いたじゃない。お兄さんは缶ジュース を退けて、紙コップのコーヒーをサービスだ、と渡してくれた。待てよ。VISA カードは使える?お兄さんは嬉しそうにうなづきレシートをはじき出す。345万 トルコリラ!冷静に換算すれば500円前後なんだけど、こんな桁の多い数は見た だけで脳味噌がストップしてしまう。一服して出かけた両替所でも一万円札が五千 七百十四万TLという途方もない数字になって戻ってきた。ああ、こんな大金どう やって数えたらいいの?デノミしようよ>トルコ政府。

イスタンブールから今宵の宿アンカラまでは一時間のフライト。飲み物とサンドイ ッチのサービスがあったようだが寝ていて逃した。さすがに疲れた。窓際の席だっ たので光の帯を楽しみながら着陸。よしよし、無事に着いた。おや?ライトに反射 しているあの固まりは・・雪だ!それもどっさり20cmは積もってるぞ。ああ、 気分が落ちこむ。さして大きくないアンカラ空港には30人規模の日本人ツアーが 3つかち合っていた。バスの中にはトルコ人ガイドが待っている。「みなさん、私 の顔と名前を覚えたほうがいいです。もう一つのバスと間違えないように。私の名 前はフラット。シャープでもいいですよ」聞き易い日本語とユーモアのセンスを備 えたガイドに驚いた。30分ほどでホテルに着き、こわごわ雪の上を歩く。今年の トルコは比較的暖かく、二日前にいきなり今年最初の雪が降ったとのこと。運は神 さまに預けることにした私は、もう不運だなんて言わない。インシャーアッラーだ もん。午前零時に部屋に入り明朝は五時半起床の七時出発とのこと。これは神さま のせいにはできないなあ。ハードなツアーを選んだ自業自得ってやつだ。では、お やすみなさい。




トルコ旅行記03>東へと墨絵の小鳥群れ成して      みど

アンカラのホテル・デデマンは大味なホテルだった。バスの栓が固くて苦労したこ とくらいしか印象に残っていない。寝ぼけ眼で摂った朝食もどんなだったか・・。 石段を恐る恐る降りてバスに乗りこむ。まだ真っ暗だ。走り始めると少しづつ外は 明るくなってきた。近代的なビルの並ぶ中心街はまだ眠っている。周囲が山という 天然の要塞を持つアンカラは紀元前二千年の記録に既に登場する古い街で、独立戦 争後、スルタンの影響が強かったイスタンブールより首都が移されたところ。ゆる やかな山並みに仄かに朝焼けが兆す頃、バスは市街を見下ろす道路に出た。雪に覆 われた大きなビルからも小さな家からも薄い煙が立ち昇り、その上を悠々と大きな 鳥が舞っていた。雪の白、空の赤み、鳥の黒。遥かな昔も人々は、こんな風に雪の 朝にうっすらと煙をあげていたんだろうな。

ぼったり雪の積もった平原をひたすら走る。窓外の景色はいつまでもモノトーン。 雪景色を見てもちっとも嬉しくないのは信州生まれのせいか、疲れが残っているせ いか。夏は干上がり、中を歩き回ることが出来るという塩湖(トルコの塩の75% を産出)で写真ストップ。でもこの雪じゃ、湖の前という写真に仕上がらないぞ。 ドライブインでトイレ休憩が二回。チャイを頼んでみた。30万TL。そろそろ万 のつく値段に慣れてきた。高さ10cmほどでチューリップ型にくびれたガラスの コップで出されたチャイはけっこう苦い。角砂糖一つでおいしい飲み物になった。 トイレも15万ほどチップがいる。小銭は必要なんだけど10万のコインと5万の 札を一目で見分けるにはまだまだ時間がかかりそう。

ガイドのフラットさんが達者な日本語で説明するトルコの歴史や政治、経済、生活 の話に聞き入るうちにカッパドキア地方に入った。一面の雪原に、何度か群れ飛ぶ 小鳥を見た。真っ白な世界に黒い群れは一際目立ち「墨絵みたい」と誰かが言った。 鳥さん達は、この雪の中をどうやって凌ぐんだろう?




トルコ旅行記04>駱駝と同じ目をしたおじさん     みど

カッパドキア地方はヒッタイトの記録に出てくる大昔に近隣の火山噴火で灰や溶岩 が厚く堆積したところ。長い年月の侵食が溶岩の硬い部分をいろいろな形に残して 有名な奇岩ができあがった。そう解明される前、人々はこれらの岩を「妖精の煙突」 と呼んでいたそうな。今でも少しづつ侵食は進んでいるので、茸岩の天辺の石も転 げ落ちる日が来るのだろう。道路状況を心配しながらバスでやってきた私達はウチ ヒサールの天然の砦を筆頭に有名どころで写真ストップ。TVや写真で見たあの奇 岩の数々が、雪をかぶって眼前にある。珍しい景色を見ることができた、と思うこ とにしよう。

見晴らしの良い場所には、たいてい土産物屋が出ていて少年からおじさんまで元気 に「三つで千円!」と日本語で呼びかけてくる。溶岩でできた鍋敷を買い求めたけ れど、帰国した晩にうっかり踏んで粉々にしてしまった。まあ、侵食され易いとい うことは、加工もし易く壊れ易くもある、というわけだ。アロンアルファでくっつ けたら、誰か貰ってくれる?>鍋敷き(笑)。観光スポットの一つ、デブレントの 谷には駱駝を連れたおじさんがいた。雪の中の駱駝!寒くないのかしら?目を覗き こむと潤んだ瞳に出会った。ふーむ、ここの暮らしに特に不満はないとみた。駱駝 と同じくクリンとした目をしたおじさんに値段を聞く。写真1ドル、乗ると2ドル。 そういえば跨って写真を撮っていた人がいたっけ。どうせなら私も跨ってみたい。 2ドル相当のトルコリラを探し出すのに苦労していると、おじさんが財布を覗き込 みコレとコレと教えてくれる。さて、駱駝の横にはアルミの梯子。厚着の上に重い バッグを下げた身でよっこらせとよじ登る。駱駝の背中は思ったより広く、うまく 足で挟みこむことができない。とりあえず地表のカメラに向ってにっこり。ぱちり。 おじさんが敷物の端にくくりつけられた棒の両端を掴め、と合図する。言われるま まにアルミの棒を握り締めると、ひゃああ、駱駝さんが歩き出した!「乗る」って Rideのことだったの?おじさんの手綱に引かれゆったり駱駝は歩を進める。ア ルミ棒を握りしめた私は前傾姿勢のまま大きく揺れ、雪の中に転げ落ちる姿が脳裏 をよぎった。冗談じゃない!なんとか両足を伸ばして少しでも安定しようとする。 駱駝は観光バスの裏に回り、道路を横切って見晴らしのいい反対側に出た。が、残 念なことに周囲を見まわす余裕は乗り手にはない。ほんの数分で駱駝は元いた場所 に戻ってきた。どこまで行くんだろうと不安に思ったことなどけろりと忘れ、降り るとなると心が残る。厚い敷物で覆われた駱駝の背中は生き物の温もりを感じるこ とができなかったので、手を延ばしてそっと首筋に触れてみた。思ったより固くて 短い毛の下に、確かに生き物の温もりがあった。




トルコ旅行記05>王の座に裸足であがる昼の宴      みど

ガイドのフラットさんは正直だ。「このツアーの食事はまあまあですけど、本当の トルコの家庭料理はもっとおいしいです。羊肉も日本の方は匂いが嫌いなので今回 は出ません。でも、トルコの羊は臭くないですよ。おいしいですよ。」あらら、羊 ばかり食べさせられると覚悟してきたんだけどなあ。ちょっと残念。

ツアー初日のお昼のメニューは、サラダ、野菜スープ、じゃがいものキッシュ、 鱒のムニエル、そしてデザート。場所は洞窟レストラン。カッパドキアの岩肌には、 たくさんの穴が残っている。かつて人々が暮らし、あるいは修道院として使われた それらの洞窟は、現在レストランやペンションになったり。あの岩穴に入れるのか と思うと、観光客向けのメニューでも構わない。岩壁の扉をくぐり、通路を進むと 広い部屋があった。真ん中がホールになって花弁状に部屋が仕切られている。これ は以前何に使われていた洞窟なんだろう?それともレストランとして新しく掘られ たんだろうか?それぞれの部屋の奥は一段高く半円になっており、下段は二列のテ ーブルになっている。上が王侯貴族用、下が修道院の食堂といったところ。深く考 えることなく奥から詰めて座ったので、王様の席に落ち付くことになった。飲み物 は別オーダーなので、アイランというヨーグルトドリンク(100万TL)を頼ん でみた。甘いかと思いきや、薄い塩味にダシを足したような、食事に良く合う飲物。 連れが頼んだ白ワインを舐めてみたが、さっぱりしていて飲みやすそうだった。料 理は全体的に薄味。野菜を細かく刻んだサラダは、テーブルの塩、胡椒、オリーブ 油でお好みに調味する。食料自給率100%のトルコの食材はどれもおいしく、鱒 の焼き加減も上々。フラットさんの言うように、家庭料理がこれより数段おいしい のなら、トルコの人は幸せだね。




トルコ旅行記06>隠れ谷まで急ぐ伝令     みど

雪の残る急勾配の坂道を、細心の注意でバスは曲がる。ジェットコースター気分で 下って行くと「見えない」という意味のギョレメの谷の異相が雪に覆われて出現し た。キリスト教徒の迫害時代、一人の僧が鳩を連れてこの谷にやってきて岩に穴を 掘って隠れ住み、各地のキリスト教徒を呼び集めたのが始まりだそうだ。鳩の糞を 肥料に、痩せた土地にも少しづつ作物が育つようになっていった、と伝説は伝える。 谷には360もの修道院と、今でも村人が糞を集めるために鳩の巣にしている洞窟 がある。雪にぽっかり口を開けたような穴が無数に残る景観は凄い。洞窟の内部は 美しいフレスコ画で飾られていた。が、トルコは幾重にも歴史が通り抜けてきた国。 宗教もまたしかり。フレスコ画は偶像破壊の時代に壊され、あるいは病に効くとい う俗信に盗まれ、その後再び描かれた絵は世界大戦の頃にまた壊され・・。まるで 土地の輪廻転生だ。

時間の限られた私達は三つの聖堂を見学した。フレスコ画の保存のため、内部は暗 く撮影は禁止。フラットさんの照らす懐中電灯の向うに天然顔料の絵がうっすらと 見える。ひとつひとつの聖堂は狭いが、実に丁寧にフレスコ画で飾られていたこと がわかる。食堂として使われていた洞窟は半ば崩れかけていた。岩を削り出して作 られたテーブルと長いベンチ。その窮屈な食堂は往時の質素な生活を思わせる。

10分ほどの自由時間。人気のない岩穴に向って歩いてみた。目前の穴だらけの山 は、雪の効果もあって別な惑星に来た気分にさせる。海抜1300メートルのこの あたりは、夏でも風が強くて涼しいと友達が言っていたっけ。修道僧が住みついて いた昔から、冬には大雪に見舞われたことだろう。粗布の修道服を身に纏った痩身 の僧が浮んだ。聖堂から聖堂へ、寒さに震えながら信仰を頼みに祈りに捧げた日々。 この谷には、敬虔な雰囲気が残っている。西暦二千年クリスマス当日。思いがけず 聖地巡礼の真似事をしている気分だった。




トルコ旅行記07>地下深く葡萄醸して時待てば      みど

カッパドキアの住民は争いを好まなかった。しかし異民族異教徒の襲撃は日常茶飯 の地帯である。自衛のためヒッタイトの昔から残る地下の施設を利用して緊急時の 避難所、地下都市と呼ばれる巨大迷路が出現することになった。この日最後の観光 は、それらのひとつカイマクルの地下都市。

冬場の見学は4:30終了とのこと。元々タイトなスケジュールの上に雪道とあっ て間に合わないかもしれないと言われていたが、運転手さんの頑張りで4:15分 に到着。ほっ。あたりは既に薄暗く土産物屋は店仕舞いにかかっている。このあた りの日没は夏は八時半、冬は四時半。日暮れの雪景色は更に寒々しく、舗装道路に 溶けた雪が凍り始めて滑りやすい。

地下都市内部は迷路になっているので、くれぐれもはぐれないように、と注意を受 ける。特に変わった様子もない扉をくぐり抜けるとオレンジの灯りに照らされた地 下室だった。この下に何層もの地下室があるとは信じ難い。フラットさんのあとに ついて、狭くて細い通路を下る。昔の人の身体が小さかったわけではなく、これも 敵を撹乱するための工夫とか。二階分ほど下ると、ずいぶん暖かい。夏は涼しく冬 は暖かいのが地下の特徴。まず行き当たったのが聖堂跡。祭壇の窪みには地上から 持ち込んだイコンなどが飾られたのだろう。ワイン作りに使われた場所もあった。 大きなバスタブ状に削られた中に葡萄を入れて素足で踏みつける。すると樋を伝っ て外側の窪みに果汁が集まる仕組み。地下はワインの貯蔵にも適している。真ん中 に穴の開いた丸い大岩は通路を遮断するもので、穴の棒を抜けば一人でも斜面を転 がすことができる。地下深く進むほど、通路はますます低くなる。ほとんど兎跳び のスタイルでくぐり抜けた通路は、上から攻撃できるようになっているのだそうだ。 ここは一度も敵の手に落ちたことがないというが、確かに工夫の数々には感心する ばかり。長い年月のうちに地下七階まで掘り進められ、遠くの地下都市ともトンネ ルで繋がっているとか。空気穴もあった。50cm四方ほどの穴が垂直に深淵に向 って延びている。新しく掘り下げる時は、まず空気穴を通すのだそうだ。地下五階 には台所。平たい石に沢山窪みが設けられているのは、塩や胡椒など調味料を入れ た跡とのこと。煙が上がると居場所を敵に知られるので炭を用いて調理し、灯りに は熱を発する独特の植物油を用いて暖もとったそうだ。帰りは緩やかな坂道を登っ た。両側にいくつも小さな部屋がある。まるでモグラの巣のよう。寒くなったな、 と思ったら一階部分に帰り着いていた。すっかり日も落ちて寒々しさも増した景色 を見ていると、厳しい自然と不意打ちの外敵に備えて暮らしてきた人々の「決意」 に感じいるばかりだった。




トルコ旅行記08>月も聞いてるコーランの声      みど

ホテル・アルティノーズ着。五時半起床と雪の山道散策とアスレティックも顔負け の地下探検の疲れがどっと出て、こじんまりしたホテルの心地よさが身に沁みる。 おりしも窓の外からは夕べの礼拝を呼びかける歌声。そうだ、私はイスラム文化に 触れようとトルコに来たんだった。なんだかキリスト教だらけの一日だったなあ。 ベッドに横になると、すぅっと眠りに引きこまれる。いかんいかん。今寝たら7時 からのバイキングを逃しちゃう。眠気覚ましにTVを付けた。トルコの民族音楽を BGMに荷物整理などして、再び画面に目を向けたら白装束の踊る僧侶!おお、こ れはスーフィー・ダンスじゃないか。イスラム神秘教団のこのダンスは、一度見た いと思っていたもの。今では年に一回しか開催されないと聞き今回は諦めていたが TVとはいえ見れるなんてありがたい。筒状の茶色の帽子を傾け、片手のひらを上 に他方を下に向け、緩やかに回転し続ける僧侶たち。白いスカート部分がきれいに 広がって幻想的だ。ますます生で見たくなってしまった。

バイキングの料理はどれもこれもおいしかった。一見クリームチーズの半熟卵。焼 き茄子のとろーりチーズがけ。酸味を効かせた野菜の煮物。サフランライスと香辛 料たっぷりの真っ赤なライスはサラダ感覚。同席の人がトルコの伝統風呂ハマムに 行った友人の話をしてくれる。ガタイのいいマッサージ士が後ろから羽交い締めに してニタリと笑うんで、友人は慌てふためいて逃げ帰ってきたそうですよ。このホ テルにもハマムがあり、男性女性と時間で分けられているそうだ。ただしマッサー ジ士は男性ばかりとか。連れに、行ってごらんよ、とそそのかすが羽交い締めが恐 いらしく二の足を踏んでいる。部屋に戻り、お風呂の前にちょっと横になったら午 前二時!お風呂に入らなきゃ。今夜の浴室はお湯の栓もスムーズ。が、待てど暮ら せど熱い湯が出てこない。あらら、真夜中は休業なのね。モーニングコールの五時 半まで、もうひと眠り。窓の外にはビカビカと大きな星が瞬いていた。風が強そう。 浅い眠りの中で聞いた太鼓の音は、午前四時の礼拝の合図だったのかな。




トルコ旅行記09>夜なべして嫁入り支度の織り子なる   みど

雪に閉ざされるカッパドキアの冬、男はワインに浸り女は絨毯作りに精を出す。よ ってワインと絨毯はこの地方の名産だ。三日目は、学校も併設している絨毯工房の 見学から始まった。半官半民の施設は広々としており、豪勢に絨毯が敷き詰められ ている。

案内役はフラットさんと共に日本語を学んだ仲のジーサン(^^;なるアルメニア人。 その横顔にびっくり!大きな目、額から真っ直ぐの鼻筋、後ろに流したクリクリの 巻き毛。メソポタミア展で見たレリーフにそっくりなんだもの。アナトリア地方に こういう顔が今でも存在していることにやけに感動する。あまつさえ古代のレリー フ顔が達者な日本語を自在に操り、ユーモアまで交えて案内してくれるとあっては 気分も浮き立つ。

最初に覗いたのは織機が並ぶ広い部屋。まだ午前八時前だったが、既に女性が二人 作業をしていた。トルコの絨毯は結び目が二つあるのが特徴です、と実演。器用な 指が細い縦糸二本を選りだし横糸を絡ませトンと下に落として糸を切る。糸が細け れば細いほど作業は難しく、仕上がった絨毯の値は上がる。良い視力と小さな手を 持つ子供達が絹糸で作り出す絨毯(といってもA4サイズで、仕上がるまでに数年 を要する)が一番高価なんだそうだ。お隣りでは繭を80℃のお湯に漬け、引き出 した絹糸を巻き取る過程の見学。そうだ、昔はうちでもお蚕さんやってたなあ。糸 は更に隣りで草木染め。1mほどの高さの壷を四つ並べて静かに微笑む老人は元々 遊牧民。壷の中身の茜、胡桃、カモミール、藍の扱いは一族の秘伝で工房の人は誰 も知らないとのこと。

では、いろいろな絨毯を見ていただきましょう、と会議室ほどの部屋に通された。 壁際にずらっと椅子が並んで真中は空いている。ジーサン氏の合図で屈強な若者二 人が登場。巻いた絨毯を水平に捧げ持ち、説明に合わせリズミカルにさっと広げて みせる。広い床は瞬く間に色とりどりの絨毯に覆われた。どうぞ、靴を脱いで歩い てみて下さい。絨毯は踏めば踏むほど価値のあがるものですから。そう?じゃ、遠 慮なく。やや、適度に柔らかくて気持ちいいぞ。素材や製法の違いで踏み心地も違 うと言われれば、確かにそういう気になる。絨毯学校の生徒が、自分の嫁入り道具 として織ったという絨毯の、なんと美しいことか!王室御用達だった最高級品ヘレ ケの絹物は、もう芸術作品。魔法のように繰り出される絨毯の数々にうっとりして いると「トルコまで来て空飛ぶ絨毯を見ない手はありません。お見せしましょう!」 ジーサン氏がパチンと指をならすや、傍に控えた青年が丸い絨毯を空に放り投げた。 わー、飛んだ飛んだ。ぱちぱちぱち。観客はジーサン氏の思うがまま。でもひとつ、 落とし穴があった。最前までの色鮮やかな品とは趣きの違う、生成り、焦げ茶、黒 で織られた絨毯を広げ「さて皆さん、これはこの地方でしか作られていない絨毯。 いったい何で染めているのでしょう?」余裕たっぷりに客を見回すジーサン氏。が 「染めてませーん」のシュプレヒコールに口をあんぐり、次にフラットさんに襲い かかる真似をした。そう、ジーサン氏は「これは何も染料を使っていない物。神の 染めた絨毯なのです」と続けるはずだったのだ。バスの中でフラットさんから悪知 恵を授けられた私達は悪戯が成功した子供のように沸いた。なめらかな口調でジー サン氏は絨毯の購入方法、配送の便について説明を続ける。全て整っていますから 何の心配もありません。では、どうぞゆっくりご覧ください。わらわらと男たちが 入ってきた。思い思いの絨毯に見入る客に「いかがですか?」と日本語で話しかけ てくる。いつの間にか私の傍らにも。「本当に欲しいと思ったのはヘレケの絹物だ けど何十万もするんじゃ買えないから見てるだけなの」私の言葉に頷いた彼だった が、あちらこちらの絨毯を見て回る私の後ろにいつの間にか忍び寄ってくるのだ。 本当に買う気がないの、置く場所もないの、と強力にアピールしてもだめ。やがて 一隅から拍手が沸き起こる。あ、売買成立したようだよ。いくらぐらいだろうねえ。 客同士、興味深々。これ以上この場にいては、私にへばり付いている彼にチャンス を失わせることになる。バイバイ。ところでトイレはどこ?なに?絨毯買ったら教 える?このー!!

チップの要らない清潔なトイレで用を足し、土産物屋をひやかす。アルメニア人は 昔から商売上手だったんだよ。誰かの話が耳に飛び込んできた。なるほどね。メソ ポタミアの昔から東西の物品を上手に商って才能を伸ばしてきたんだろうな。サー ビスで配られたチャイを飲みながら、黙々と絨毯を織り続ける女たち、達者な言葉 と不屈の精神で絨毯を売る男たちに思いを馳せた。




トルコ旅行記10>塩の加減で占いし恋      みど

シルクロードをひたすら走る。今日は一日で350キロ移動するという。東京大阪 間くらい?途中キャラバンサライの見学やトイレ休憩があるとはいうものの、長い 一日になりそうだ。車中でフラットさんがトルコについてあれこれ話してくれる。 お見合い結婚の話が面白かった。お見合いと言っても和式とは大分違い、英訳の arranged marriage の方が近いかも。

トルコの家庭では息子がハタチを過ぎて兵役も終えようかという頃、母親の花嫁探 しが始まる。親類縁者、友人、近隣に声を掛けるのみならず、人の集まる場所へは 自ら出向いて探求する。例えばハマムでこれはと思う娘さんを見かけたとしよう。 母親はさりげなく近づき、娘さんの住所氏名を聞き出す。「ちょっとここを使わせ て。まあ、**さんの娘さんじゃない?え?@@さん?ああ、向うの通りの。あら、 反対側なのー」といった具合。家に戻るとさっそく夫に報告。男性優位のイスラム 社会ゆえ、夫の許可を得て妻の隠密行動は続く。一週間ほどおいたとある早朝、件 の母親は友と連れ立ち、目を付けた娘さんの家をいきなり訪問する。花嫁探し中で あることはまだ秘密。ドアをノックして「ご近所の##さんに用事があってきたん ですが、お留守で」と切り出せば「それはお困りでしょう。どうぞ中へ。」と招か れるのがトルコ社会では当然の成り行きなんだそうだ。こうして行きずりを装った 二人連れはまんまと家に上がり込み、家人が座をはずすや否や絨毯の下を覗き込む。 掃除が行き届いているかは、ここを見ればわかるらしい。ついでにトイレも借りて チェック。問題無しと判断されれば、近いうちに息子を除く家族全員で改めて花嫁 候補の家を訪ねる。実はうちに年頃の息子がおりまして、と家族は口を揃えてその 場に居ない息子を褒め称え、お嬢さんをいただきたいと切り出す。花嫁側は、良く 考えてお返事しますと答えて、さっそく一族郎党、あらゆる伝手を頼りに花婿候補 の家や職場の情報を集める。本当に家族が言うような働き者の好青年なのか?花嫁 側も納得した。ようやく結婚の主役が顔を揃える日が来た!といっても「見合う」 わけではない。双方の家族に囲まれて、きちんと膝に手を置いた息子は、話しかけ られた時以外は神妙に顔を伏せている。それでも好奇心は押さえられない。周囲に 気取られぬよう目玉を動かして、忙しく接客に立ち働く娘の姿を追う。娘とて好奇 心いっぱい。コーヒーを出す段になると、息子のカップにのみ塩をしこたま入れる のだ。濃くて苦いトルココーヒーは、たっぷりの砂糖が普通なのに。一口すすって 「う」と息子は叫び出しそうになる。が、ここが我慢のしどころ。脂汗を浮かべな がら最後の一滴まで飲み干し「こんなにおいしいコーヒーは初めてです」と世辞ま で述べる。娘は彼の我慢強さに安心するのだ。その席で花嫁側は花婿側に一通のリ ストを手渡す。新居に揃えておいて欲しい物品が羅列されている。家によってリス トの内容は異なるので、この段階で破談になることもあるそうな。花婿側がリスト を了承すると婚約式。そのあとは必ず一年以内に結婚しなければならない。嬉しい 婚約時代の始まり。戒律の厳しいイスラム社会で、生まれて初めて異性を意識する 人が出現したのだ。デートのひとつもしたいじゃあないか。息子は許婚の母に許可 を貰ってお出かけとなる。その際、許婚の妹か弟が、役割を存分に心得て同行する。 大好きなお姉ちゃんを家から連れ去ってしまう若い男は、子供から厳しく見張られ るのだ。息子も考える。アイスクリームは好きかい?ほら、これで好きなのを選ん でおいで。なんて追い払ったりして。若いカップルが彼らの子供にしては大きすぎ る子を間に挟んで歩いている光景は、トルコでは珍しくないのだそうだ。

そうして迎える結婚式。昔は三日間もお祝いが続いたそうだ。羊を送ったり、鳴り 物入りで花嫁道具を運び近隣に披露したり(名古屋のように、と日本通のフラット さん)。都会では恋愛結婚も増えたようだが、田舎では圧倒的に見合い結婚。今で も全体の70%以上が見合い結婚だという。そして離婚率は恋愛結婚より見合い結 婚の方が低いのだそうだ。結婚の最終決定を下すのは父親だが、影で仕切っている のは明らかに母親だ。面白いことに、自分が見つけてきた嫁と折り合いの悪い母親 が多いんだそうだ。フラットさんのお兄さんと三人の弟たちは、皆お母さんが探し てきた人と結婚したが、電話するたびにお嫁さんたちの悪口を聞かされるという。 フラットさん本人の体験談は聞かせてもらえなかった。人に話すのが照れくさいほ どに盛り上がった恋愛結婚だった、と想像することにしよう。




トルコ旅行記11>盗賊の人相を聞く焚き火越し    みど

シルクロードの東の終点は、と問われ「正倉院」と即答した私は国粋主義者なんだ ろうか?正解は西安。確かに駱駝に揺られて玄界灘を渡ってきたわけじゃないもん なあ>宝物。西の終点は本日通りすぎるコンヤの街。スーフィーダンスの発祥の地 でもあるここは、今でもイスラム色の強いところだそうだ。窓外は相変わらずの雪 景色。でも溶け始めたのか、平原に残る麦の切り株や枯草が、ミルクティーの薄茶 に透けてガラス細工のようにきれい。まっすぐな道は真夏には蜃気楼も立つという。 かつては盗賊もいて、40キロごとに隊商宿(キャラバンサライ)が設けられてい たそうな。

バスは広大な駐車場に停まった。白い石造りの頑丈な壁がでんと控えている。中央 の門は実に繊細に装飾が施され青みがかって美しい。これがスルタンの命によって 造られたキャラバンサライ。なんとなくサーカスのテント風を想像していたので意 外だった。中は箱庭になっていて、中心に二階建てのモスクと身分の高い人の休む 部屋。回廊はいくつものアーチで仕切られ、夏の間は商人達が各々の駱駝と共に夜 を過ごした。冬は突き当たりの広い部屋に火をおこし、駱駝ともども円になって休 んだいう。三晩までは無料で滞在できる公共施設。居合わせた商人同士が商売し合 ったり、通ってきたばかりの場所の情報交換も行われたのだろう。誰も居ない今は、 やけに堅牢な壁が気になる。これほどまでに頑丈に遮断するほどの危険が、壁の向 うにあったんだなあ。帰り際、門を背景に写真を撮ることにした。大きな門の全景 が入るようにカメラを持った連れが離れていく。と、少年が一人、もの凄いスピー ドでこちらに走ってくるではないか。彼は瞬く間に私の隣りに立ち、カメラに向っ て笑顔。で、手を出して「ヒャクエン」。そういえばさっき、年長の男の子たちが 日本人観光客に100円玉二枚を見せて両替をせびっていたっけ。目ざとく商売の タネを探す商人魂は、今もキャラバンサライに健在だった。




トルコ旅行記12>ぽんと投げ出す一千万札      みど

お昼はキャラバンサライを改装したレストランにて。入り口の門には大きな水色の 布がさがり、それをくぐるようになっていた。レンズ豆のスープ、トルコ風ピザ、 チキンのシシ、とメモに書いてあるが、さて、どんなお味だったのか・・。ひたす らバス移動の日だったので、そんなに空腹じゃなかったのかも。

いつものように飲み物を頼もうとして、手持ちのトルコリラが少ないのに気づいた。 これじゃ水も頼めない。と、向いの席より助け舟が。「よかったらお貸ししましょ うか」ぴらっと出てくる百万札。でも、百万じゃ、と口篭もると、じゃあ一千万。 すみませんねえ。ホテルに着いたらすぐに両替しますから。こども銀行のようなト ルコリラで豪勢なやり取り。日本では絶対に体験できない高額借金も、百万二百万 はハシタ金よとうそぶくのも、インフレの旅先ならではのお楽しみ。




トルコ旅行記13>退屈は平和な日々の証にて   みど

トルコで4番目に大きいエィギル湖で写真ストップ。広々した湖面はきれいだが風 は冷たい。大急ぎでバスへ戻る。午後も遅い時間になると、バスに揺られているの にも飽きてきた。5時に最後のトイレ休憩、ホテルまでまだ2時間かかるという。 外は既に暗い。バスも灯りを消しお休みモードで平原をひた走る。しばらくは座席 のライトで日記をつけていた私もいつの間にやら眠り込む。

バスが急に止まった。前のドアが開閉する音。運転手さんとフラットさんの話し声。 何があったんだろう?やがてフラットさんがマイクを取り上げた。「バスのタイヤ が故障しました。ガソリンスタンドで修理しますので、しばらくスピードを落とし て走ります。」タイヤの故障ってパンクのこと?連れが冗談めかして、バスジャッ クかと思った、と縁起でもないことを言う。昼間通り過ぎた平原では、あまりGS は見かけなかったなあ。このあたりはどうだろう?ホテル到着が更に遅れるのか。 あ、前方のあそこ!すぐに行き当たったGSは、残念ながら修理工場のないところ だった。時間が経てば経つほど、乗客の心理状態は悪化していくんだな、と漠然と 考え始めた頃、修理工場付きのGSに辿りついた。「修理が終るまでチャイでも飲 みましょう。会社のおごりです。」よっ、太っ腹だねえ、フラットさん。時刻は午 後の六時。GS併設の食堂へと、暗がりを移動する。今までトイレ休憩に立ち寄っ たのは、観光客向けの土産も置いていて、ある程度日本語も通じるところだったが、 ここはトラックの運転手さんなどが利用する場所。ラーメン屋にあるようなテーブ ルとパイプ椅子を蛍光灯が晧々と照らしている。ガランとした食堂は一気に三十人 の客で一杯になった。乗客は皆やけに元気がいい。ひたすらバスに乗ってるだけの 一日が急に活気づいた。「ねえねえ、昨日のギョレメの谷へ降りる坂道でパンクし なくてよかったよね」先が見えて安心した途端、軽口を叩く私。「そうそう、さっ きの湖の端を走っている時でもなくてよかったよねえ」相客も負けていない。おご りのチャイはやけに薄かった。こんなに大量注文を受けたことはないだろうから、 苦肉の策で薄めたのかな?せっかくだからトイレも済ませておこう。清潔じゃない かも、と釘を指されたが、使用に耐えないというほどでもなかった。いったん外へ 出て、横手のトイレに入り、戻る前に建物の裏を覗きこんでみた。まさに一寸先も 分かたぬ闇!目が慣れぬせいか、星も明かりも見えない。だだっとまぶしい食堂へ 戻る。頑丈な塀で囲まれたキャラバンサライが、どれだけ隊商の心の支えになって いたかわかった、と思った。

午後6時45分、タイヤ修理を終えてバスは再び走り出した。うんざりなんて、も う言わない。バスさん、運転手さん、長距離をごくろうさま。




トルコ旅行記14>パームツリーの揺れるリゾート     みど

パムッカレのホテル、リーカス・リバーに到着したのはバイキングも間もなく終了 しようかという頃。部屋にも寄らずフラットさんに引率されて一直線にレストラン へと向う。夜目に南国風の木が映る。どうやら寒い地帯は脱出したらしい。このホ テルは典型的なリゾートホテル。ロビーからは甘いバイオリンとピアノの生演奏が 聞こえてくる。高額の負債を抱える私はフロントで素早く両替。その甲斐あって食 事のあとで、手持ちのトルコリラが足りずに困っている人に今度はお貸しする立場 となった。ホテル内にはディスコやプールなど娯楽施設もあったが、覗いてみる時 間も気力も体力もない。寝るだけのツアー宿泊には勿体無いとも思ったが、この手 のホテルの発する浮き足立った休暇のざわつきも、慌しい移動の連続の中では気分 転換になったようだ。ロビーには炉が切ってあり、回りにはサルタンが寄りかかる ような細長いクッション。チャイを注文して、絨毯の上にぺったり座り込み、赤々 と燃える炎に見入った。

部屋のある別棟に一歩足を踏み入れる。おや、この臭いは?吹き抜けを見下ろすと 小さな楕円のプール。井戸の底を眺めているみたい。部屋の壁は薄く、走り回る子 供たちの声が筒抜け。ベニヤで出来てるんじゃない?と言いつつ翌日投函予定の葉 書をせっせと書いた。




トルコ旅行記15>まどろみて古代の丘に結ぶ夢    みど

五時半起床も三日目ともなるとすっかり慣れた、かな?七時出発のバスの座席はベ ッドみたいなもの。さして走らぬうちに古代の墓地ネグロポリスに到着だ。どよん と曇った早朝、苔むした石組の遺跡が、丘の中腹になるんだろうか、民家も畑もな い場所に忽然と現われた。まるで夢の中で行き当たった景色のよう。ゴツゴツと歩 きづらいのは、地面から飛び出しているたくさんの石のせい。掘り起こす前の遺物 か、崩れて埋もれた遺跡か。墓地ともなると、踏みつけるのも気が引ける。家型の 墓のひとつを覗きこんでみた。がらんどう。サイズも形も様々な墓が、どこまでも 延びる道を挟んで無数にある。ネグロとは死者を意味するそうだ。死者のために作 られた街が、造った人も葬られた人もすっかり歴史の彼方に失せて、入れ物だけが 残っている。

急き立てられてバスに戻る。すぐ近くのヒエラポリスまで徐行する傍らも、窓外に 続く墓に圧倒された。温泉も出るこのあたりはイオニア文化が伝わる以前から人々 が住み付いていたところ。聖なる都市ヒエラポリスは大きな遺跡だそうだが、その サワリしか見ることが出来なくて残念だった。実はトルコにはトルコ民族以前の、 こうした遺跡がやたらとある。ギリシャよりも数も保存状態もいい、と何かで読ん だ。遺跡の見学はもちろん楽しみにしていたが、堂々とした石柱が連なりアーチ型 の門を成しているのを見た瞬間、眠気がみごとに吹っ飛んだ。胸ときめかせて門を くぐると、石畳の道の両側に立ち残る柱の列、建物の跡。両側に石やレリーフが積 み上げてある。博物館で「手を触れてはいけません」という札の向うでしか見たこ とのない古代の遺物がそこいらへんにゴロゴロしているのだ。発掘途上で投げ出さ れたような、あるいは突然の地震に崩れた直後のような生々しさを感じる。そうだ、 あの薄暗い物陰に目を凝らせば、難を逃れたイオニア装束の女性がふいっと姿を現 すかもしれない・・。またもや急かされバスへと戻る。遺跡は明日、たっぷり見る から、と。名残惜しげに振りかえる。遺跡の脇の糸杉の森は、いつからあそこにあ ったんだろう。曇り空にはうっすら紅がかかっている。朝焼けの名残りだろうか。




トルコ旅行記16>しっとり濡れた石灰の肌      みど

遺跡のすぐ下にはパムッカレ(綿の城)という地名の元になった世界遺産、石灰棚 が広がっている。温泉に豊富に含まれる二酸化炭素とカルシウムが長い年月堆積し、 山の斜面を乳白色の台地に変えた。世界遺産となってからは保護のため、ごく一部 を素足で歩くことが許されているのみ。前日に、靴はもちろん、靴下もストッキン グもだめ、と注意があったので、スパッツにスカートを重ね、タオルや靴を入れる ビニール袋も準備。それにしても、昨日までは雪景色の只中にいたのだ。ここらは ずいぶん暖かいとはいえ、戸外でブーツ、靴下を脱ぐのには抵抗感がある。石灰棚 の上には温泉水を流しているという。温泉水溜まりに足をつけてみる。おお、ぬく いぞ(^^)。そこは棚の一番上部。テープを張り巡らした隣りは立ち入り禁止らしい。 たまに事情を知らぬ観光客がテープを越えると、絵葉書を売っているオジさんがす かさず注意する。ひょっとして監視員が兼業で土産売ってるのかな?緩やかな斜面 の棚は少し先でガクンと下がり、プールのように水を湛えている。そこまで行って みようと、ぬくい水たまりから出ると朝の大気が濡れた素足に冷たい。石灰棚の表 面はしっとりと、やはり冷たい。深く考えることなく、温もりを求めて次の水たま りに足を突っ込んだ。ひぃえええっ。水だ!そうだよ、湧き出したばかりは温泉で も、岩の上を伝い流れればあっという間に冷水になるよーー。早足で歩く。せめて プール状のところから下を眺めたいものだ。滑らないよう精一杯足を早めるものの、 濡れた足の凍えるのも早く、千切れそうな痛みを感じてギブアップ。出だしの温泉 水溜まりに急ぎ戻って安堵の溜息。ほっ。下のプール状の中をザブザブ歩き回って いる強者がいるけど、すごいなあ。たっぷり観光時間を与えられた石灰棚だけど、 もう上がるとしよう。足を冷やしたからトイレにも行きたいし。が、てくてく広い 駐車場を渡って辿りついたトイレにはなんと鍵がかかっている。ラマダンが昨日で 明け、祝日なのでトイレもお休み。バスが待っている別な駐車場にたらたらと向う。 こんなことなら、ヒエラポリスにもっと時間をかけて欲しかったな。ほどなく横手 から石灰棚を見渡せる場所に出た。乳白色の段々は、やがて筋となり普通の山の色 に変わる。その下に広がる町は、なんだかとてもいい感じ。大昔から人がこの地を 選んで住みついてきたのもわかる気がする。ひょっとして桃源郷ってこんな感じ? 遺跡保護のためホテルが立ち退いた跡が展望台になっていた。石灰棚が一望の立地 からして高級ホテルだったのだろう。白く塗り込められて残る土台も、もう千年も すれば遺跡になるんだろうか?

観光地周辺のトイレは軒並みお休みだったので、バスは村外れの公衆便所に立ち寄 った。ここにも料金徴収の設備はあるが誰もおらず、そのかわり鍵もかけてない。 水洗の紐を引っ張ると水浸しになる、と先行使用者のアドバイス。トルコのトイレ 付属の桶に、これまた後方下部の蛇口を捻って水を溜めて流す。ふむ、この方法は なかなかいいぞ。郷に従えということかな。




トルコ旅行記17>早咲きの花誘ふは聖母の家       みど

内陸のパムッカレより海へと向かう。山を越え、小さな村を抜け、立ち枯れの唐黍 畑を過ぎる。昼食の前に革製品の店へと連れていかれた。大きな門の中によく手入 れされた庭、その一角にガラス張りの離れがある。案内役は、これも自在に日本語 を操るインド系顔立ちの青年。ファッションショーが始まった。男女四人のモデル が軽快な音楽に乗って取っ替え引っ換え革の衣装を纏って登場する。やがて退場の 際に見物客の手を取り一緒に奥へと消えたかと思うと、見知った顔が革のコートや ジャケット姿で度胸よくエプロンステージに登場。みなさん、芸達者。中でもカラ フルなつぎはぎコートと帽子のアンサンブルをお召しの年配の男性にはびっくりし た。後で聞いたら昔バレエダンサー、現在社交ダンスの先生なのだそうだ。どうり でターンが鮮やかだったわけね。ショーのあとは体育館ほどもあろうかというショ ールームにて、弁舌巧みにトルコの革の高品質を説かれ、熱意満々の日本語を話す 男性売り子がつきまとって・・。ああ、絨毯屋と同じ構図だ。ツアー料金が安い秘 密はここにあったか。それでもショーアップして盛り上げてくれるので、何だか許 せる気がしてしまう。トルコ名産の薄手の革には興味がない私は庭をぶらつき時間 つぶし。次の観光バスがやってきたな、と思ったら私たちは出発。なんて商売上手 なトルコ人。なのにどうしてインフレがひどいんでしょ。

お昼はチョップシシケバブにサラダバー。サイコロ大に切った牛肉を串に挿して焼 いてある。一見焼き鳥風。本来は羊肉なんだろうな、この料理も。食後、バスはナ イチンゲールの山へと向かった。聖母マリアがアナトリアへ落ち延びてきて住んだ とされる家があるそうだ。マリア様がトルコに?それは初耳。イエス様の後を追う ように亡くなったとばかり思っていたけど。帰国したら調べてみることにしよう。




トルコ旅行記18>霞む森をば示す預言者     みど

イエス・キリストをこの世に生み落とした女性は最初から聖母と呼ばれていたわけ ではなかった。ましてやイエスの処刑の頃、迫害を受けていた新興宗教の教祖の母 のその後など、公けの記録に残るはずもない。当時アナトリアの西の大都市エフェ ソスへと布教にやって来たパウロは、アルテミス神を信じる住民からうとまれ追放 となった。イエスの死後、弟子のヨハネはマリアを伴いエフェソスへとやって来た が、パウロ同様追放されて、近くの山に住んだとされる。ヨハネの墓は聖堂と共に 残っているが聖母マリアの教会はあれども墓は見つかっていない。18世紀に信仰 厚きババリア人の女性が聖母マリアの家を「予言」し、それを信じる人が二十世紀 後半に調査の上「発見」したのだそうだ。記述だけ読むと疑わしいこと限りないが、 ナイチンゲールの山にある粗末な一軒家には不思議に穏やかなオーラに満ちていた。 洋の東西を問わず、古い神社仏閣教会にはのしかかるような重苦しい雰囲気を感じ ることがある。押しかける信者が残していった縋るような思いが滞り腐敗したかの 感覚。それがこの場にはない。「発見」以来、聖なる場として多くの信者が訪れ、 数々の奇跡も起こっているという。確かにここなら奇跡も起こるだろうと思わせる 澄んだ雰囲気があった。

聖母の家は巡礼の場でもあるので、内部での写真撮影は禁止。土産物屋なども道を 下ったあたりにある。その一角に郵便局があるので、葉書を出したい人はこちらで どうぞ、と前から言われていた。せっせと書き溜めた絵葉書は、なんと25枚にも なっていた。一気に切手を買って、内職のように貼っていく。さて、聖なる場所か ら投函した葉書は、年末の郵便事情もあってか、延々二週間以上もかかって日本に 届くことになるのだった。


タイトル一覧に戻る
表紙に戻る