第8回「意外と楽しい(?)障害者生活」
 
 
  これまでの中では最も毒舌トークな内容
だと思うんで、読みたい人は覚悟して読んでください。

  なんか、本気で苦しんでるお仲間の方達にとっては
物凄く不謹慎なネタになりそうですが、
これから書く事は「普通の人間」であった
時期の事をはっきりと覚えている私の実感なんで。
(もっと重度の障害を負った人なんかは全然違う感想を
  持ったりするんでしょうが)

  以前「私は障害者です」とこのHPで宣言させてもらいましたが、
私は生まれた時から左腕が動かせなかったわけではありませんし、
ちゃんと飛んだり跳ねたりと言った動作が人並み……
以下だったと言わざるを得ないでしょうが(ただ単に
運動神経が悪かっただけ)……に出来た時期もあったんです。
  私は生まれた時は五体満足なごく平凡な人間として
生まれてきたんですよ。
(むしろ五体満足だった時期の方が長いです)
  だから、「普通の人間」の感覚と「障害者」の感覚、
どちらもある程度は理解できるつもりです。

  「普通の人間」は、「障害者」というととても不幸な存在だと
考えがちで、まあ、実際にそれなりに不幸なんでしょう。
(幸運に恵まれていれば始めから障害など背負う事はないはずですからね)
ですが、「普通の人間」が考えているほど「障害者」
の生活は悲惨ではありません。
(まあ、実際に悲惨な生活をしている方達もいらっしゃるんでしょうが、
  多分そういう人達はごく一部だと思われます)
  最近は「バリアフリー」なる運動が盛んに行なわれている事によって
車椅子の方でも電車に乗ったりあちこち出掛けたりする事が
できるようになりました(有り難い事です)。
  だから、「障害者」の基本的な生活スタイルは「普通の人間」と
あまり変わりません。
  学校帰りにコンビニで雑誌の立ち読みをしたり、
お風呂上がりに冷たい飲み物を一気飲みしたりして、
「ぷはーぁ!!うめえー!」なぞと言っていたりします。
こういう所は「普通の人間」と何ら変わる所はありません。
  ……当たり前の事を書いているように見えますが、
実は「普通の人間」の間では意外と、『「障害者」は
凄く悲惨な人間以外の生活をしているんじゃないか』
なんていう勘違いした認識がはびこっていたりします。
(私自身がかつては「普通の人間」の立場だったので、
  そういうのはよく分かりますよ)
……こういう指摘をすると、絶対「そんなことはないぞ!」
という反論が返ってくるに違いありませんが、
私は人間の良心とやらをそこまで信じるほど楽観主義者ではありません。
  実際、この国の過去には「障害者」を「人間」の枠にすら入れず
「魔」として遠ざけていた、という事実がありますし。
(まあ、これは江戸時代の話ですけど、日本人は
  民主主義革命を経ていない民主主義国家という何とも奇妙な
  歴史の上に生きていますから、人権問題などという点では
  ビックリするぐらい未成熟な点があったりします。
  それこそ、江戸時代あたりから全然変わってなかったりする部分とか)

  ちょっと話題がそれました。
「障害者」の生活は「普通の人間」の生活とあまり変わらない、
というあたりまで話を進めましたね。
  まあ、「『普通の人間』の生活とあまり変わらない」
等と息巻いてみた所で、実際の所は、多少の違いはあるに決まっています。
そうでなければ「障害者」などとは呼ばれないのですからね。
「障害者」が「障害者」と呼ばれる由縁、それはそれぞれの人々が
背負っている「障害」です。
  例えば、私の場合は「左腕がほぼ完全に使用不能」「一応立てるのだが、
極端にバランスが悪い」等ですね。
  これがどんな状態なのか、恐らく想像もつかないでしょう。
もしも実感してみたいのなら1日だけでもいいですから
左腕を完全に封印して暮らしてみるといいでしょう。
いかに不便かがすぐにお分かりになると思います。
まず、雑巾が絞れない、両手で買い物袋が持てない、
料理をする時に満足に食材を包丁で切る事が出来ない
(まあ、これはコンビニ弁当で済ませばいい話ですが)、
等などの不便が出てくると思います。
  これを読んで「やっぱり『障害者』って不幸なんじゃないか?」
と思われる方も多いと思いますが、住めば都(ちょっと違うかも)
とはよく言うもので、こういった不便にはすぐに慣れてしまいますし、
「片手で雑巾を絞る法」などといったものもあるので、
「不幸」と断じられるほど不便であるわけではありません。

  一言で言ってしまえば、「『不便』ではあるが『不幸』ではない」
といったところでしょうか。
  実際、様々な問題を片腕でどうやって解決していくか、
というのを考えるのは半ば楽しみですらあります。
  ……そんな余裕があるだけ私はまだマシなのかもしれませんが。

  本当に当事者になってみなければ分からない事は沢山あるものです。
まさか、「障害者」がこんなにも「人間」的だったなんて、
「普通の人間」だった当時は想像もつきませんでした。
……今考えると許されないぐらいの傲慢さだったように思えますが。

  明らかな人々の差別の視線などを
(いや、いまだにそういうのって結構あるんですよ。事実として)
軽くいなしながら飄々と生きていくのは結構楽しかったりします。
だって、一度きりの人生なんですよ?
だったら、いろんな体験をして見たいと思うのが人の常じゃないですか?
「障害者」になれるなんて言う体験は早々出来るもんじゃありませんよ?
ある意味では幸運とすら言えるかもしれない、と半ば以上真剣に
私はそう思っています。

  何よりの楽しみは「普通の人間」が、私達「障害者」から見ると
とてもくだらない理由で悩んだり苦しんだりしているのを眺めて楽しむ
ことでしょうか。私から見ると滑稽極まりないですね。そういう人々は。
(当然私にも理解できる悩み苦しみを持っている人もいっぱいいますけど)
凄まじくひねくれた楽しみですけど、まあ、そうでもしないと
一部の人からの差別攻撃から身を守る事なんて出来はしませんからね。
  ……今回のコラムは敵を沢山作ったんじゃないかなあ……。

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