【宇宙開発初期に見られたUFO多発出現】
1962年2月20日ジョン・グレン中佐はフレンドシップ7で米人では初めての宇宙飛行(周回軌道)に成功しました。そして宇宙空間での宇宙ボタル現象(注=※1)を報告して、当時マスコミの注目を受けました。なぜならば、宇宙飛行に先行して、宇宙空間ではそのようなものが見えると、ジョージ・アダムスキーという人物が公言していたからであります。また、グレンは宇宙ボタル以外にUFOの目撃もしていたようです(グレンは持ち込んだカメラで撮影しましたが、その時撮影された写真は現在まで公表されていません。(NASA
6-S62-48)。しかし、時を同じくして、宇宙をめざしたテストパイロット達によって多くのUFO情報がもたらされていたのはあまり知られていません。当時の大衆とマスコミはマーキュリー計画とその宇宙飛行士達だけに注目し、それ以外に宇宙をめざしたテストパイロット達に見向きもしませんでした。しかしそのパイロット達は翼を持った宇宙機「X−15」で宇宙をめざしていました。彼らはカプセルに詰められて宇宙をめざすよりも、我々のように翼を持った航空機を自らコントロールして宇宙に向かうことを誇りにして、「我らこそ宇宙飛行士だ」と自負していました。その彼らの中で、グレンより2ヶ月後の1962年4月30日、テストパイロットの第一人者、J・ウォーカー少佐は「X−15」を操縦して24万フィート(73Km)の上空を時速2000マイル(3200Km)で飛行しました。飛行後、後方撮影用のムービーカメラのフィルムに、台形の編隊を組んだ5個の円盤形または円筒状の物体のグループが、あとをつけてくるのが写っていた。少佐はこの不思議な事件をシアトルからNBC放送局に伝え、フィルムは当時の記者会見で提示されました。
1962年7月17日「X−15」は高度31万4750フィート(96Km)の新記録を作りましたが、搭乗者のR・ホワイト少佐はこの時も未知の物体が出現したのを目撃しました。それはJ・ウォーカー少佐の見たものと同じでした。それは灰白色の物体で、彼の機体に平行して飛行していました。J・ウォーカー少佐の「X−15」はこの時、時速3832マイル(6166Km)で飛行していました。彼のこの時の目撃報告は電波で流され、タイム誌にも掲載されました。
宇宙に出始めたばかりの、まだ管理がおおらかな時代には、比較的オープンにパイロット達は自分の見たものを公表したものでした。時代は宇宙に向かっていますが、ことUFO情報は当時より後退していると言わざるを得ません。
冥王星を発見したクライド・トンボー博士は1953年にUFOを目撃して、それ以後その物体に対して研究をし続けたが、これに対する結論は、すべてペンタゴンの『赤いテープ』の中に収録されて奥深くにしまいこまれてしまったといわれています。
1957年ベネズエラの通信省のルイス・ユラルス博士は人工衛星スプートニク2号がカラカス上空を通過した際、写真を撮ったが、その写真にはスプートニク2号に非常に接近したところに、未知の物体が写っていたことを当時発表しました。まだ、人工衛星が他にはない時代でした。
1960年1月4日、二つの巨大な物体が極軌道を飛んでいるのを米国の科学者達が確認しています。当時はソ連も米国も極軌道を飛行させる人工衛星の技術を持っていませんでした。また、時を同じくして不思議な巨大なUFOが2万マイルの上空に現れ、ニューズウィーク誌、ライフ誌をはじめ主だったニュース報道機関はその物体に『黒いナイト』の称号を与えました。
1963年5月15日マーキュリー計画最後の飛行、フェイス7で、そして単独宇宙飛行最後のアメリカ宇宙飛行士となったゴードン・クーパー少佐は、オーストラリアのパース上空で赤い尻尾をもった緑色の物体を見たと地上に報告しました。それによるとその不思議な物体は東から西へ動き、人工衛星の動きと反対方向に動いていた。その物体は約100人の技術者や数名の新聞記者達によって追跡レーダーで確認された。そしてその報告はただちにNBCを通じて米国全土に放送されました。(ゴードン・クーパー少佐は後に驚くべき発表をしていますので後述します。またこの目撃事件以後宇宙飛行士が飛行中に見たUFOに関する報告を公表することを完全に禁じられたとも言われています)
マーキュリー計画に変わってジェミニ計画時代になると、UFOとの遭遇はさらに増しました。1964年4月8日、最初のジェミニ衛星船の打ち上げテストが行われました。その際科学者や技術者達がそのロケットを追跡して驚いたのは、4つの「未知の物体」がジェミニのすぐそばにピッタリと同伴していたからです。2個はロケットの上方、1個が後方、1個は下方を飛んでいました。それらの物体は完全な円形をしており、しばらくロケットを観察しているように飛行したあと、宇宙空間に消え去っていきました。この出来事は米国国会議員の知るところとなり、空軍に質問が寄せられましたが、いつものもっともらしい説明で終始しました。このように信頼すべき人達による多くのUFO目撃が繰り返された
時代があったのです。それらはいつも平和裏に終わり、まだグロテスクな宇宙人や恐怖や猟奇的な出来事がねつ造される前の時代でした。
E・ホワイトとJ・マクデビット宇宙飛行士はジェミニ4号で飛行中、1つの不思議な物体を見ています。1965年6月4日、ハワイ諸島上空を通過中にマクデビットは、腕のような影をもつ不思議な物体を見ました。マクデビットはムービーカメラでそれを撮った。数分後2人はカリビアン諸島の上空で、もう2つの物体を目撃しました。
ジェミニ6号から18周目(飛行時間27時間47分、グリニッジ標準時1966年9月12日)に撮影された写真。(NASA写真NoS66-54661)
1965年12月にジェミニ7号から、フランク・ボーマン、ジェームズ・ラベル両飛行士が撮影したもの。このUFOは長時間追跡してきたという。また上記4号の2つの物体と同じと思われます。
J・コリンズ宇宙飛行士は1966年7月18日ジェミニ10号で軌道上に打ち上げられてすぐ「われわれの軌道上に2つの明るい物体がある。私はそれが星であるとは思えない。なぜならそれらはわれわれが右に行こうと思えば右についてきた」と。ヒューストンの有人飛行センターはその物体を追跡するように指令した時、ヤングから「彼らは消えてしまった。私はそれがある種の衛星であろうと推測する」と連絡してきた。
1966年9月12日に打ち上げられたジェミニ11号に乗船したピート・コンラットとゴードンの2人も管制センターへ次の報告をしている「翼のある人間が日没に向かって進むわれわれの方にやって来た。回転しながら物体はわれわれと平行して飛んでいる。われわれには彼の姿が、かなり近距離なのでよく見える。われわれのELSS(船外生命維持装置)でないのは確かだ」。
1966年11月11日ジェミニ計画最後の飛行となった、ジェミニ12号の飛行で、J・ラベルとE・オードリン宇宙飛行士は彼らの軌道上を飛ぶ4つのUFOを目撃したと報告しました。「われわれは1列に並んだ4つの物体を見た。それらが星でないことは分かっている」と帰還後の11月23日の記者会見で発表しました。この頃、宇宙デブリ(宇宙ゴミ)を観測していた、英国のジョドレルバンク天文台のラベル台長が3つの未確認衛星が非常に変わった軌道で地球を周回しているのを発表しました。接近時204マイル、最遠時6930マイルの軌道で飛行しているとされましたが、米ソとも自国の人工衛星であることを否定しました。その物体の大きさ、正体については秘密にされました。
ジェミニ計画が終わった翌年、アポロ計画が始まりましたが、1967年1月27日、アポロ1号で忘れ得ぬ不幸な事故が起こりました。バージル・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・シェファー宇宙飛行士は宇宙船のテスト中に火災事故のために殉職しました。
アポロ計画時代になるとUFOとの接触はさらに驚異的な出来事が行われましたが、この頃になってくると、情報の隠蔽が厳密になり始めまして、宇宙飛行士達は沈黙をし始めました。しかし、漏れ伝わってきた情報には驚嘆すべきものがありました。
1969年7月16日に打ち上げられ、史上初の人類月着陸を成し遂げたアポロ11号、乗船したのは、アームストロング、コリンズ、オルドリンの3人。月面着陸直後に事件が発生しました。
1969年11月14日に打ち上げられたアポロ12号。乗船したのは、コンラッド、ゴードン、ビーンの3人。アポロ12号の場合、UFOとの遭遇の直前に奇妙な現象が報告されています。
1971年7月26日に打ち上げられたアポロ15号。乗船したのはスコット、ゴードン、アーウィンの3人。月面上でのやりとり。
1972年12月7日。アポロ計画最後の打ち上げとなってしまった17号。乗船しtのはサーナン、エバンズ、シェミットの3人。この後今日に至るまで、人類はせいぜい500Kmほど地球を離れる程度になってしまいました。月司令船と着陸船のやりとり。
今日、私たちが接することができる宇宙情報は非常に限られた範囲であるばかりか、大ペテンにかかっていることを認識する必要があります。たとえば次の科学者の言葉などは、完全に葬り去られています。アポロ宇宙船を立案、設計したトップクラスのNASAの科学者モーリス・チャトレーンは1978年に米国で出版した著書『Our
Ancestors Cuter Space』(邦訳なし)で「この太陽系には、冥王星の外側にも、未発見の惑星が3つある・・・アポロとジェミニの全飛行は宇宙人の宇宙船によって遠く離れたところから、そして時には大接近のかたちで随行されていた」。
そもそも、アポロ計画そのものが謎めいた印象をぬぐいきれないのは知られているところであります。一般的には米ソ宇宙開発競争で絶対にアメリカが先に月に人類を到達するために立案された計画のように見えますが、ケネディーが米国議会で述べた有名な演説「私は米国国民が60年代の終わりまでに人間を月に到達させ、そして安全に地球に帰還させるという目的の達成に言質を与えるべきであると確信する。これほど興奮を呼び起こす感動的な計画もなければ、これほど重要な計画もなく、また達成がこれ以上困難で、多くの財源を必要とする計画もないであろう」が発表されたのは、1961年5月25日でありました。この日は、あのマーキュリー計画で米国初の有人飛行、フリーダム1号に乗って、アラン・シェパードが飛び立った日から、わずか20日後のことでした。しかしフリーダム1号は、宇宙飛行というにはあまりにお粗末な弾道飛行に過ぎず、全行程わずか15分の飛行でした。このような状態の中で、ロケットは失敗続きで、なんの保証も根拠もない状態で、ケネディーは60年代中に人間を月面に立たすという途方もない計画に着手したのでした。ケネディーは人類が月面に到達するのを見ないうちに暗殺されてしまいました。ケネディーの暗殺関係の資料は2039年まで非公開とする理不尽で奇妙な法律がジョンソン命令で決定しています。研究者の間では、その頃になると関係者のすべてが他界していて、異議を唱える人間がいなくなっているからだといわれています。しかし、私はケネディーが無謀とも言えるアポロ計画の性急さと「これほど興奮を呼び起こす感動的な計画もなければ、これほど重要な計画もなく」と訴えているように、宇宙の真相と近隣惑星の実体がこの計画によって暴露されるはずであったと思っています。しかし宇宙の実体を大衆が知れば、今までの価値観や生き方を放棄しだすであろうことは、想像に難くありません。それはとりもなおさず現在の経済システムや文明の骨格部分の崩壊を意味し、大混乱が生じる可能性もありました。ケネディー暗殺の真相が2039年まで公開できないことは、逆に2039年になれば公開するということであります。私はその頃になれば、現在の経済システムは自然に崩壊しているだろうと考えます。毎年毎年成長を余儀なくされるネズミ講と変わらない経済システムは現在でもきしみだしています。2039年頃になれば、宇宙の実体が知らされても、影響が出ないほどにこの文明のシステムがガタガタになっていると想像がつきます。しかし、そこへ行き着く過程での現象面では経済の崩壊に先行して様々な愉快でない事柄に遭遇すると思われます。戦争であったり、テロであったり、食糧危機であったりするかも知れません。
マーキュリー計画の最終飛行とジェミニ計画にも参加した宇宙飛行士ゴードン・クーパーが1976年8月15日、Los
Angeles Herald Examiner のインタビューで発言した驚くべき内容を載せます。
「他の惑星からの知的生命体が我々と接触しようとして、定期的に地球を訪れている。私は宇宙を航行していた間、様々な宇宙船と遭遇した。NASAおよびアメリカ政府はこのことを知っており、膨大な証拠をもっている。にもかかわらず、彼らは大衆に知らせまいと沈黙を続けている」
。
UFO問題をオカルトや心霊現象と同等に取り扱っている研究者やメディアがもてはやされている限り、大衆は真相を知ることはないし、まともな人達も相手にしないでしょう。
※1
『1998年、再びジョン・グレン宇宙飛行士が、スペース・シャトルに乗って、話題になっていた時、NHKの[クローズアップ現代]で、立花隆氏を解説に迎え、ジョン・グレン宇宙飛行士の今までの、記録や経歴を伝える事を放送しました。その中で驚いたことに、当時(1962年2月20日)ジョン・グレン宇宙飛行士が大気圏外で目撃し報告してきた[宇宙ボタル]の事に言及していたことです。立花隆氏は、スペースシャトルの映像を流して解説していました。大気圏外でスペースシャトルから宇宙空間へ放出している液体(尿)を示し、これこそがジョン・グレンが指摘した[宇宙ホタル]の正体だったと解説していました。しかし、この説明はとてもおかしな説明でした。どうしてこんな子供だましのようなことを平気で放送できるのかと、番組製作の取り組み方にも疑問を持ちました。1962年(今から39年前)フレンドシップ・セブンで地球を周回したジョン・グレンの搭乗したカプセルは、文字どおりカプセルで、当時の開発技術者は、小窓を付けるのにも難色を示した代物のでした。そのようなカプセルに排泄物を外部に放出するような装置は付いていませんでした。弾道飛行からやっと抜けだし、地球を数周するだけのカプセルに、そのような装置を付ける余裕はありませんでした。こんなおかしな事をわざわざ放送する事自体、背景で情報操作を操る何かが存在することの証になります。立花隆氏は、NASAかその関連の組織から与えられたデータを鵜呑みにしたか、おかしいと思っていてもどうする事も出来なかったのでしょう。[宇宙ボタル]という言葉を最初に言ったのは、ジョージ・アダムスキーでした。どうやら、アダムスキーの表明した一つでも、公に認めてしまうと、彼がいかに真相を語っていたかが、分かってきてしまうことを恐れているのです。宇宙飛行士が実際に大気圏外に出る前に、それを語り、ジョン・グレンが宇宙空間に出て、同じものを目撃し、同じ言葉[宇宙ボタル]を地上に報告してきたことには、計り知れない意味があるのです。そんなこと公表しても何ともないではないか、と思われる人もいるかと思いますが、そう思う人は、宇宙開発に潜む謎に無関心だったからそう思うのです。そして、それらは隠し続けなければならない理由があるのです』。
参考文献
「アポロと空飛ぶ円盤」光文社 1971年 廃刊
「人類は地球人だけではなかった」 1982年 青春出版社 廃刊
「月の神秘」 1999年 PHP出版
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