ひだまりの楽園

 


 


 「今日…地上に降りるんだね」

 「うむ」

 出された茶菓子を口一杯にほお張り、太公望はコクコクと頷く。

 栗鼠を連想させるその様子に、普賢はクスクス笑いながらお茶を差し出した。

 ──深い慈愛に満ちた、透明な眼差しを浮かべて。

 

 『封神計画』

偽善と欺瞞に満ちた壮大なその計画が、いよいよ実行される。

 太公望という、一介の無名道士を司祭として───。

 

 「ちゃんとお弁当は持った?」

 「うむ」

 「甘い物ばかり食べちゃ駄目だよ。」

 「…うむ」

 「拾い食いは厳禁だからね」

 「…細かいぞ、おぬし…」

 じとっとつぶらな瞳を上目使いにして、太公望は目の前の親友──本当は、そんな

軽い言葉で表せる関係ではないが──を睨む。

 けれど普賢は笑顔を崩さず、先を続けた。

 「寝る時におなかを出して寝ちゃ駄目だよ。望ちゃんはあんまり丈夫じゃないんだから。」

 いつも季節の変わり目は風邪をひくしねぇ。    

 「………もぉ、いい。」

 つらつらと並べ立てられる事実に、太公望は赤面するだけで反論しない。

 しょせん、彼に口で敵うはずなどないのだ。

この六十年間、ずっと自分を見守り続けた普賢には。

 「うーんと、あとは………」

 「っ、だからっ、ももええっちゅー…!」

 まだ続けようとする普賢を怒鳴りつけようとして──不意に、太公望は暖かなものに

包まれる。

 それが普賢の腕だと気づいた時には、太公望の体はすっぽりと彼の胸に抱き締められ

ていた。

 「いってらっしゃい。」

 ごく小さな、囁き。

けれどもそれは、千の言葉よりも強く彼の心を捕らえる。

 「望ちゃんは負けず嫌いだから、きっと無理をしてでも頑張ろうとするでしょう?」

 違う、とは言えなかった。

相手は、憎んでも憎み足りない一族の仇。たとえ刺し違えてでも、倒したいという願望が

確かに自分の内にある。 それは否定できない。

 「でも、覚えていてね。僕がずっと待ってるってコト。此処で望ちゃんの帰りを、ずっとずっと

待ってるってことを。」

 普賢の言葉はどこまでも甘く、深く、太公望の心に滲みる。蕩けるようなその甘さに、彼は

心地よい目眩を覚えた。

 「僕が──望ちゃんの、帰る場所だよ。」

 力強く、告げられる言葉。

それは小さな花となって、太公望の心に根を下ろす。

 温もりが離れても、しばらくの間彼は動けなかった。

普賢のくれた餞が、あまりにも嬉しすぎて。

 信じても、いいのだろうか。

 約束しても、いいのだろうか。

『待っていて』と。白鶴洞(ここ)に来てから、云ってもいいのかと密かに躊躇っていた言葉を。

 そんな戸惑いも、自分を見つめる普賢の瞳に脆く霧散する。

 そこにあったのは何時も変わらぬ、真っすぐな光。

孤独に震えた幼い日から今日まで、ずっと太公望を癒し支えてくれた普賢の──真心。

 「…………うん。」

 それしか、言えなかった。

けれど、二人にはそれで充分だった。

 俯いた太公望の頭上を、濃い影が覆う。

降りてくる薄い口唇に、太公望はぎゅっと瞼を閉じた。

 最初は、軽く触れるだけ。

啄むようなそれが、段々深くなり──気づいた時、太公望は普賢の背に腕を回していた。

 温かい舌が小さな唇をなぞり、戦慄く口腔を屠るように貪る。

 互いの舌が絡み合い───けれど、すぐに離れた。

 「………?」

 急に止まった口づけに、浅い呼吸を繰り返す瑠璃の瞳が不思議そうに見上げる。

 潤んだ眼差しで見つめる太公望に、普賢はぽつりと呟いた。

 「…茉莉花茶の、味がする。」

 ぎくうっっ!!

太公望の額に、無数の縦線が浮かぶ。

 まさか…さっき太乙の所で幾つかのアイテムを巻き上げた時、やった報酬──

くれなきゃやんないと泣きつかれ、行き掛けの駄賃とばかりにくれてやったのだが

──の跡が、まだ残っていたというのか。(…っつーか、どういう味覚だ普賢…)

 「望ちゃん、茉莉花茶キライだったよね。」

 「……えっ……いや…その……」

 「望ちゃん、太乙の所にいったね。」

 「えーと…だから…その…そうっ、不可抗力で……」

 「それで、『キス』したね?」

 「…………………………………はい」

 にっこりと普賢に笑顔で凄まれ、いったい誰が逆らえるだろうか。(いや、誰もいない)

 ごごごごごぉ…と急速に増えていく普賢の背後の暗雲に、太公望はおもわず後ずさる。

 しかし一瞬早く彼の腰をがしっと掴むと、普賢は──この細腕の何処にそんな力が

隠れていたのか──軽々と小脇に抱えた。

 「こっ、こらっ、何をするっ!」

 さして変わらぬ体格の普賢に手荷物よろしく抱え上げられ、太公望は真っ赤になって

暴れる。

 けれどそんなささやかな抵抗も、当の普賢には『あはは、望ちゃん今日は元気だね』

くらいしか感じられないらしく…太公望を見下ろしたまま、彼はにっと口の端を引き上げた。

 「僕、気は長いけど浮気を許すほど心は広くないんだ。だから───」

 望ちゃんが浮気なんて出来ないくらい、いっぱい愛してあげるね。

 恐ろしすぎる宣告に、太公望の顔からさぁっと駆け足で血の気が失せる。

 菩薩の容姿に反して、絶倫の普賢が…いっぱい…いっぱい『愛する』って……。

そんなことされたら、身体が幾つあっても足りないっ!

 普賢のことは嫌いじゃない──というよりむしろ『好き』だと自覚はある──が、

それだけは御免被りたかった。

 「離せ離せは〜は〜せぇ〜っっ!」

 普段のすっとぼけた態度も何処へやら…太公望は必死で泣き喚いた。

不利な体勢にもめげずに、自由になる両手でぽかぽかと普賢の背中を叩いて

(いつの間か、脇から肩へ担がれていた…恐るべし、普賢真人!)、『今日は

いやぁーん(泣)』と目一杯の意思表示を見せる。

 …が、当然ながら全く効かず…。

目眩く官能の扉──太公望にとっては地獄の入り口──普賢の寝室の扉が、

今まさに開かれようとしたその時。

 神の救いの声が部屋に響いた。(かに思えた。)

 「太公望師叔、出発のお時間ですよ〜」

 「白鶴ぅっ!」

 降って湧いた天の助け──迎えにきた白鶴に、太公望は切羽詰まった歓声を

あげる。

 お邪魔虫の乱入にちっと舌打ちし、しかし普賢はすぐににっこりと営業用スマイルを

作り上げた。

 「白鶴、望ちゃんは今日僕の所に泊まるから、『出発は明日にして下さい』って

元始天尊様に伝えてね。」

 「「えっ!」」

 普賢の言葉に太公望はまた泣きかけ、白鶴は頬を引きつらせる。

 しかし職務に忠実な白鶴は、恐る恐る口を開いた。

 「で、ても師叔は今日下界に降りることに決まっ…はうぁっ─────っ!」

 びびりながら喋っていたクチバシが、視界に映った一点に瞬時に凍りつく。

 その一点…普賢の左手の大極符印には、『核融合』という大文字が、ぴかぴかと

怪しげに点滅していた。もちろん標準は──言わずもがなである。

 「………………」

 普賢の暗雲と白鶴・太公望の沈黙が、狭い部屋の中で軽快なダンスを踊る。

 一歩。二歩、三歩……。

鳥足のくせして器用に数メートル後ずさると、白鶴はクルリと尻をむけ脱兎の如く

逃げ出した。

 「……師叔っ、すみません〜っ!!」

 「ああっ、薄情者───っ!」

 地を這う太公望の叫びにも振り向きもせず、白鶴は雲の彼方に消え去る。

 漸く邪魔者を排除し終えた普賢は、勝利者の微笑みを浮かべて寝室の扉を開けた。

 「さぁ、夜は長いよ望ちゃんっっ!」

 「まだ昼前じゃっ馬鹿者──────っ!」

 

 

 その後太公望が地上に降りられたのは、それから七日後のことだったと云う─────。



■あとがき■
だいぶ遅くなりましたが、3000番のキリリクです。
……そして、すみません。これ裏に続きます(爆)。
今回くらいはきれいに終わらせようと思ったんですけどね…
やっぱりギャグオチになってしまいました。あ゛あ゛あ゛、やっぱり
シリアスは向いてないのか自分(T_T)。こんな出来で申し訳ない
ですが、謹んでももか様に捧げます。ご期待に添えられなくて、
本当にすみません。出直してきます。


書庫に戻る