軍師様の大いなる悩み
西日がゆっくりと傾いていくなか、太公望は一人、川のほとりで佇んでいた。
その柔和な顔には、深い憂いが濃い影を落としている。
彼の心情を察すれば、それも無理のないことだった。
明日の黽池城攻略が終われば、次はいよいよ朝歌に到達する。
今や妖魔の巣窟となってしまった、朝歌───禁城。
諸悪の根源たる皇后・妲己と、その傀儡の暗君紂王。そして無数の妖魔たち。
それら総てと、決戦を迎えなければならない。
悪知恵のはたらく妲己のこと、様々な奸計を張り巡らしていることだろう。そして、
彼女に操られた───罪のない多くの兵士たちとも戦わねばならぬ。
理解している。それが、地上を妖魔の手から救う最良かつ最短の方法であることは。
いまこうしている間にも、虐げられ惨殺されている無辜の民たちを救うには、妲己共々腐敗した
商王朝を滅ぼさねばならないことを。
しかし…。妖魔たちはともかく、利用されているだけの朝歌軍と剣を交えるのは、気が進まない。
勿論、操られていたとはいえ彼らの行った悪逆を許すことは出来ない。その元凶が妲己で
あったとしても、だ。
彼等はそれだけの事をしてしまったのだから。
だが、この心優しき道士はそれを痛いほど理解していながらも、納得出来ないのだろう。先程から、
何度となく嘆息しては遠い彼方の禁城へと視線を彷徨わせていた。
そのはかなげな背中を、じっと見詰める者がいる。むさ苦しい男所帯に咲いた
一輪の名華、トウ嬋玉である。
「太公望さん……………」
哀愁漂うその姿に堪らず、嬋玉は彼の傍らへと寄り添った。
「なにか悩み事があるの…?」
「嬋玉…………」
男にしては大きな瞳が、不安げに彼女を見上げる。
頼りなげな風体に、嬋玉の乙女心はますます高鳴った。
この人は、私が支えてあげないと。
その想いが、いつも以上に彼女を積極的にする。
「わたし、貴方の力になりたいの。だから、悩み事があるのなら、話して。
一緒に二人で考えましょう。」
思いの丈を精一杯込めて、嬋玉は太公望をかき口説く。
もちろん、そのほっそりとした手を握ることも忘れない。
「そうだね…」
頷いて、太公望はひそやかに笑う。
花がほころぶようなその微笑みに、嬋玉はうっとりと見惚れた。
「……………………実はね…」
「ええ…………………」
「今日の夕飯は、何を作ろうかと思って。」
大喰らいを複数抱える西岐軍───その食料事情を一手に引き受ける崑崙派軍師様の悩みは、
常人には窺い知れぬほど壮大で深遠なものだった。
《軍師様の大いなる悩み・終劇》