誰かが、自分を呼んでいた。
聞き覚えのある──いや、よく知っている声だ。
一番ではないけれど、自分にとっては大切な肉親の一人…大事な、末の弟。
そう、天祥だ。
「にーさまぁっ!」
「──────んぁっ?」
腹部に強い衝撃を受け、天化は反射的に飛び起きた。
「あれ………ここ…………?」
きょろきょろと回りを見渡す。
ぼんやりとした視界に、不安げな弟たち二人の顔がはっきりと現れる。
(俺っち、戻ってきたさ………?)
「天化にーさまっ!目が覚めたんだねっ!!」
天化の腹に馬乗りになっていた天祥が、ぎゅうっと力いっぱい抱き着く。
加減を知らない天然道士の握力に、天化はつぶれたヒキガエルのような呻きを漏らした。
「ぐえええぇぇ───っ…苦しっ…………」
「てっ、天祥っ………そんなに締めたら、兄上死んじゃうよっ!」
次兄の洒落にならない顔色の変化に驚いて、おろおろと天爵が止めに入った。
母親譲りの容姿と性格のこの弟は、暴走しがちな黄家四兄弟の中にあって常に抑え役として
気を配ってくれている。その有り難みを、天化はいま切実に実感した。
「あっ…………ごめんなさいっ。」
「い………いや、…いいさ…………。」
恐怖の羽交い締めから解放され、天化はほっと嘆息を漏らす。ついでに、これが夢オチではない
ことも確認した。
ふと、間近に感じる──弟達とはちがう気配に、天化は傍らに目を落とした。
「っ!!すっすっすっ、スースっ 」
そこには気持ち良さげに惰眠を貪る、崑崙一のイカサマ師サマが…いた。
「なっ、なんでスースが……」
「ああ、だって天化兄上が太公望さんの手を握って放さなかったんだよ。」
さらっと天爵が答え、ほらと太公望の手首を指さす。
そこは天爵の云うように赤い束縛の跡がくっきりと刻まれていた。
「俺っちが?」
「うん。とーさまや楊ゼンさんがどんなに引っ張っても離れなかったからねぇ、周公旦さんが
『仕方がないから一緒の寝台に寝かせましょう』って…」
無邪気に笑って、天祥が後を続けた。
「にーさまとたいこーぼーねえ、二日も眠ったままだったんだよ。」
「二日?」
「うん。スープーが楊ゼンさんを呼びに来てね、皆で駆けつけたら、崖の下ににーさま達が
倒れてたの。」
天祥の言葉に、天化の目が見開かれる。
弟の言葉が本当なら、自分が呂望と過ごした二カ月は一体どうなるのだろう。
まさか、あれはすべて夢だというのか。
そんなはずはない。だって、天化は覚えているのだ。呂望の笑顔も、涙も。
抱き締めたときに感じた、仄かな温もりも。
あれらすべてが夢だったなど──信じられない。
急に黙り込んでしまった兄を、天祥は不思議そうに見上げる。
だがすぐに笑顔に戻ると、笑って───天化の血の気が引くような言葉を続けた。
「でも良かった、目が覚めて。だって、このまま目覚めなかったら『この手をちょん
切っちゃいましょうっ!』って、楊ゼンさんが云ってたもん。」
「う゛っっ!」
「天祥、それは楊ゼンさんの冗談だよ。本気なわけないじゃないか。」
「そっかぁ〜〜〜」
弟たちに合わせて乾いた笑いを浮かべながら、内心のところ天化は生きた心地がしなかった。
(絶対っ、本気だったさソレ。)
とりあえず、当面は楊ゼンに注意しといた方がいいかもしれない…此処にはいない天才道士の
底意地の悪そうな笑顔を思い浮かべ、天化はしみじみとそんなことを考えた。
「あ、兄上おなかすいてない?」
思い出したように、天爵が尋ねる。
弟の言葉に、天化は首を傾げた。
…云われてみれば、すいているかもしれない。
三日近くなにも食べてないようだし。
そう告げると、
「じゃあ、僕厨房にいってお粥を貰ってくるね。」
天爵は微笑んで、いそいそと部屋を出ていった。
その後を、天祥が「僕もー」とひよこよろしくついて行く。
部屋には天化と、未だ爆睡中の太公望だけがぽつんと残される。
弟達が居なくなった部屋は妙に静かで、いつもより少しだけ広く感じた。
一人になると、やはり呂望のことが気になった。
あれは夢だったのかもしれないという思いと、それを否定する気持ち。
そして、そのどちらでも良いからその後の彼の様子を知りたいという、三つの思いが
複雑な螺旋を描いて天化の心を揺らす。
「……呂望…………」
彼は、無事崑崙山に戻ったのだろうか。
あれを過去だとするなら、きっと戻ったのだろう。
でなければ、いま自分の横で太公望が眠っている筈がない。けれど───。
出来れば、もう少しだけ呂望の側に居たかった。
嘆息が、天化の口をついた。
「終わっちまったモンは、云ってもムダか…」
(なにせ、俺っちの夢かもしれないさ)
クスリと自嘲げに唇を吊り上げ、天化は寝台から立ち上がる。
その、時。
チャリ、と。微かな音がして、何かが石床に落ちた。
「…………?」
音に気づいた天化が、見下ろした床に見つけたもの。
それは────
「……っ!…あっ──────」
随分と古びた、狼の牙の首飾り。
《天化に、持っていて欲しいんだ》
褥のなかで、呂望がくれた『約束』の証し。
《また会えるっていう、二人だけの約束の証だから》
「……ははっ……………」
震える指で、首飾りに触れる。
そっと掌にのせたそれは差し込む陽光の中で、仄かに輝いていた。
握り締めるとじんわりと感じる温もりは、間違いなく呂望のものだ。
(夢じゃない……?あれは、やっぱり夢なんかじゃなかったさっ!)
沸き上がる安堵が、天化の沈みきった心に一条の光を投げかける。
自分でも知らぬうちに、両の眦に涙がこみあげた。
「……呂望…………」
いまは幻となってしまった、天化にとって唯一人の名を呼ぶ。
すると、ぎここちなく微笑む少年の姿が鮮やかに浮かんだ。
胸を締めつける心地よい切なさに酔いしれながら、天化は掌の残り香をいつまでも眺めていた。
『夢の箱庭』完
あとがき
漸く完結いたしました(T_T)
いやもう、長かったです。でも書き始めた当初はこれよりも
もっと長かったんですよ。ラストはもっとベタなオチでしたし。
今回HPにupするにあたり、そっちのラストにしようかとも
思いましたが、とりあえずそのまま載せてみました。
余力があったらベタオチバージョンも書くかもしれません。