金烏
―キンウ―


澱んだ空を貫くように飛んでいた金色の小鳥。

あれは今、何処へいってしまったのだろうか──

 



眠りに落ちようと瞼を閉じた瞬間、聞こえてきた泣き声に焔は眉を顰めた。

 (…誰だ)

それはとても小さくて。

 けれど無視するにはあまりにも哀しい、魂の叫び。

妙に気になった。眠りを邪魔されたからではなく、何故自分に聞こえるのか…それが気になった。

 『声』は生身のものではなかった。

心が紡ぐ悲鳴。だが本来そういった『声』というのは、特定の相手か『聴く』能力をもった者にしか感じ

られない筈だ。

 そして自分にそんな能力はない。

呼びかけてくるほど親しい者は、もういない。

 『彼女』は焔の手の届かない場所へと旅だってしまった──いわれなき罪の咎を背負わされ強制的に。

 (……………ちっ)

諦めたようにため息をついて、焔は横たわったベッドから起き上がる。

 こんな泣き声を聞かされては、とてもではないが眠る気になどなれない。

愛用の薄衣を羽織り与えられた館を出る。

 空には大きな満月が輝いていた。

金色に光るそれを焔は複雑な気持ちで見つめる。

 闇を照らす月はあんなにも美しいのに。

己の左目に宿る金睛眼はどうだろう。同じ色を宿しながら、これが齎すのは侮蔑と畏怖のみ。

 苦い想いに捕らわれそうになる我が身を奮い立たせ、声の出所を探る。

 意識を大気に溶け込ませ隅々まで広げてみるが、それらしい気配は感じられない。

 「……ふむ」

 これは天界にはいないようだ。

此処でないとすると、考えられるのは──

 「地上か…」

 (一体……)

誰を呼び続けいるのか。

 こんなにも泣いているのに、その相手はどうして応えてやらないのだろう。何か理由があるのだろうか。

 様々な疑問が焔の胸に浮かぶ。

一度気になりだすと、もう止まらなかった。

 「たまには…下界に降りてみるのもいいか」

 暇は潰せるし、少なくとも天界よりはずっとましだろう。ここは息をするだけで臓腑が爛れてしまう場所。

此処より酷い所になんて、きっとない。

 衣をはためかせ、焔は地上へと身を躍らせた。

 

  ゴツゴツした岩山ばかりの、荒涼としたその場所で。

漸く『声』の主を見つけ焔は言葉を失った。

 「……孫、悟空?」

 堅固な鉄格子の向こうで、まだ幼い子供が泣きながら眠っていた。

 その子供には見覚えがあった。

いや、少ないながらも何度か言葉を交わしたことがあった。焔と同じ金睛眼──ただし悟空の場合

は両目ともだが──を持ち、同じように天界人に蔑まれていた幼子。

 けれど生きる喜びに溢れた魂は眩しいほど鮮やかで。愛される喜びに満ちたその笑顔は、長い間

『笑う』ことを忘れていた焔にすら微笑むことを思い出させてくれた。

 自分のように天界の毒で汚されることがない様に…と、密かに願ってすらいたのに。

金蝉亡き後ひそかに何処かへ幽閉されたと風の噂で聞いていたが、まさか地上に封じられていた

とは。

 きり、と焔は唇を噛み締める。

元来、自分は情け深いほうではない。

 それでも目前の悟空への処置には、言いようのない怒りを覚えた。

 これが天界のやり方なのか。幼子をこんな暗い牢に幽閉することが天界の『正義』だというのか。

無理やり母神から奪い去って天界に拘束したあげく、自分たちが制御できないと判断すると情け容赦

なく排除して。

 「…………」

 隙間なく呪符で埋められた格子をそっと手で触れる。

ぴりぴりと指先に感じる痺れ。それは複雑な結界が幾重にも重なっている証。

 これは悟空の力を封じているだけではない。彼の存在に気づき、取り戻そうと現れる大地の眷属たち

を近付けさせない為に、これほど厳重な結界が張り巡らされているのだ。

 勝手に攫って勝手に追い出しておいて、本当の親元に還ることすら許さない。

 こんな傲慢が──何故許されるのか。

『神』とは名ばかりの、あんなクズ共に。

 目眩を覚えるほどの激しい怒りが、焔の裡で荒れ狂う。

 落ち着く為に軽く伏せた視線の先に。

痩せ細った悟空の両手を見つけ、再び焔は柳眉を歪めた。

不釣り合いな程大きな手枷の下で、紅い鮮血が滲んでいる。おそらく、外そうとがむしゃらに暴れた

のだろう。

 たったひとりでこんな場所に閉じ込められた恐怖を想像し、焔は胸を衝かれた。

 僅かな逡巡のあと。焔は意をけっして、結界を通り抜け岩牢の内部へと足を踏み入れた。

 観世音の管轄である此処から出してはやれないけれど…せめて傷の手当ぐらいはしてもかまうまい。

いや、たとえそれが罪であったとしても焔は今の悟空を捨て置くことは出来なかった。

 眠り続ける悟空の側に近づき、そっと膝を折る。

小さな身体を丁寧に抱き上げ、傷だらけの手首に優しく指を当てた。

 ぽうっと。

暖かな光が焔の指先に生まれ、細い悟空の手首の上で輝く。

治癒の光に照らされ、痛々しかった傷は徐々に──しかし確実に跡を残さず消えていった。

 「……これでいい」

 傷の手当を終え、我知らずほっと息をつく。

出来ればもう少し側についていてやりたいが…あまり長居しては面倒になる。

 残念に思いながらも、焔は悟空を地面に横たえた。

そのまま立ち上がりかけ、ふと自分の薄衣が目につく。

 「………」

 するりとそれを脱ぎ、悟空の上にかける。

時間の止まった結界内に感覚など無縁なのは判っていたが、このままにするのは忍びなかった。

 寒くないよう小さな肩口までしっかり衣をかける。

 と、その時。

 「……うっ……」

 涙に濡れた瞼がふるふると小刻みに震え………

ぱちりと、悟空が目を覚ました。