記憶の墓標






 殷王朝に叛旗を翻した周軍は、太公望らと共に朝歌へ侵攻していた。

 途中、妲己や申公豹、金鰲島の妨げを受け、数多くの被害を出しながらも、彼等はけっして

挫けることなく前へ進んだ。

 一度流れ出した歴史の奔流が、けっして流れを止めることがないのと同じように…。

 

 

 夕闇が辺りを染め上げる中、豊邑から三つ目の関所の手前で、それは彼を待っていた。

 「あれ?」

不意に四不象が素っ頓狂な声を上げる。

 「どうした、スープー?」

 「あれって、ボクらが初めて申公豹サマと戦った場所じゃないっスかっご主人!」

 「あ………」

四不象が指したその先には、確かに見覚えのある陵墓がそびえ立っている。

 そこは間違いなくあの殷王の墓だった。

 「太公望―――っ!」

立ち止まった彼のもとに周公旦が寄って来る。

 「そろそろ兵たちに休息をとらせたいのですが…」

 「……………」

 「太公望?」

心ここに非ずといった風情の太公望に、怪訝そうに呼びかける。

周公旦の視線に漸く我に返った太公望は、慌てて指示を出した。

 「あっ、ああ。今夜は此処に陣を張ろう。武吉。」

 「はいっ!」

名を呼ばれ武吉が駆けて来る。

 「此処に陣を張ると皆に伝えてくれ。」

 「わっかりましたっ!」

元気に応えて武吉は走り去った。

 「ご主人…良いんでスか?」

皆に聞こえぬよう小声で四不象が尋ねる。

 「日も暮れかかったことだし、周公旦の言うようにここいらで陣を張るのが適当だろう。

兵たちも強行軍で疲れておるしな。」

 「で、でもっスね…」

言いたくはないが、此処は太公望にとってあまり良い思い出のない土地である。

 まして、あの王墓には…。

彼ははっきりとは言わなかったが、あの王墓には太公望の肉親が殉死者として眠っているはずだ。

いくらお気楽極楽がモットーの主でも、いい気持ちはしないのではないか。

 そんな心配をよそに、太公望はてきぱきと兵たちに指示を与えている。

 その姿は飄々としていて、いつもと変わりない。

先程、動揺したように見えたのは四不象の気のせいだったのだろうか。

 「ボクの気の回し過ぎだったっスかね…」

 溜め息をついて、四不象は野営を始めた兵士たちを手伝った。

 

 

 最初に太公望のいないことに気づいたのは、やっぱり武吉だった。

 「あの、お師匠様を見かけませんでしたか?」

 天祥に馬術を教授していた楊ゼンと武成王を捕まえ、武吉が訪ねる。

 「幕府で旦どのと軍議をしてましたけど…」 

いませんでしたか?

 楊ゼンの問いに武吉は首を振った。

 「宿営地内はすべて探したんですけど、いないんです。もう日が暮れるのに…」

何処いっちゃったんでしょう…いまにも泣き出しそうな子犬の瞳で楊ゼンを見上げる。

 「あの食い意地のはった師叔が、夕食の時間になっても戻らないのは確かに妙ですね。」

 「楊ゼンどの…それは、あんまり…」

 「…と、いうのは冗談ですが、いつ敵が来るかもしれない時に一人で行動するというのは危険ですね。」

 あながち冗談に聞こえない発言を、楊ゼンが真顔でさらりと流す。

 「あ、武吉くん泣かないで。一緒に探してあげますから。」

べそをかきはじめた少年を上手く宥め、楊ゼンは武吉を連れて夜営地を出た。

 「さぁて……何処にいったんでしょうかねぇ…あの人は…」

辺りは薄紫の帳が降り、あらゆるものの形が闇に呑まれて溶けかけている。

楊ゼンは袖の中から孝天犬を呼び出した。

 「さ、師叔の匂いを辿るんだ。」

主の言葉にワンと一声鳴いて、孝天犬が残り香を探る。その後を二人は足早に追いかけた。

瞬く間に宿営地は闇に消え、気味の悪い鳴き声の木霊する荒れ地がどこまでも続く。

 暫く進むと、前方に何かの建物の影が浮かび上がった。

 「あれは…………」

建物はさきほど遠目に見えた殷の墓陵だった。

武吉の目がそれを認めると同時に孝天犬が大きく一鳴きする。

 「ここに師叔がいるんだね。」

主人の問いかけに孝天犬がワンワンと鳴いて知らせた。

 「あっ、楊ゼンさん、あそこ─っ!」

武吉が指さすその場所。

四不象の持つ松明の明かりに照らされた太公望がいた。

 墓の側に立ち、じっと見つめている姿は、どこか頼りない。

 「おっ師匠さまぁぁ──────────っ!!」

 「っ!武吉っ?」

ようやく見つけた師に、武吉は猛烈タックルをかます。その強烈な衝撃に、太公望の小柄な体は

見事な弧を描いて地面に沈んだ。

 「もうっ何処いってらしたんですかぁぁっ!ボク、心配したんですよっ!」

子犬のように顔を擦り寄せ、武吉が力いっぱい太公望を抱き締める。

 「ったたた…。こら、放せっ武吉っ!苦しぃ…」

天然道士の弟子に力任せに抱き締められ、本気で苦しむ太公望の前に美貌の青年道士が現れた。

 「師叔、探しましたよ。」

びくりと太公望の背が震え、後ろの人物を振り返った。 秀麗な浮ぶ笑顔は、夜目にも凛々しく見える。

差し伸べられた手とは裏腹に、楊ゼンの声は随分と冷たく感じられた。

それでも、その手に捕まり渋々と立ち上がる。

 「ご自分の立場が判ってらっしゃるのですか。貴方はいまや中枢になりつつあるのですよ。

それなのに、無防備に一人で行動なさったりしては、妲己の――…」

常にない厳しさで楊ゼンが太公望を叱る。

その様子にハラハラしながらも、武吉はふと、師匠の雰囲気が微妙に違うことに気づいた。

そう、瞳の輝きが違う。

いつもは、もっと眩しいほど光が溢れていて、揺るぎない意志を内包しているのに。

今は暗く沈み、どこか虚ろだ。

宵闇のせいだろうか、いまひとつ表情が読めない。

 「まっっ、待ってくださいっス」

主人を庇うように四不象が割ってはいる。

 「ここはっスね、あの…その……」

 「不四象、わしが話そう。」

言い淀む四不象の言葉を遮り、太公望は静かに応えた。
 
「此処に、わしの一族が眠っておるのだ。」