2


 



 暗闇の中で幾つもの松明が明々と燃えている。

 炎に浮かび上がった数百の天幕のうち、もっとも大きな天幕─幕府に、周軍の中枢が集まっていた。  

 

 幕府では上座に座る武王・姫発と太公望を中心に、卓を囲むように武将たちが鎮座していた。

一様に緊張した面持ちを浮かべ沈黙している。

 「八十年も前のことだ。わしは呂国にいた羌族の統領の次男として生まれた。」

 初めて聞く太公望自身の話に、皆漏らすまいと固唾を飲んで聞き入っている。

目の前の卓子には食事と酒が用意され、ささやかながらも酒宴が出来上がっていた。

 しかし、食事はともかく酒の方には殆どの者が手をつけていない。

 そんな中で太公望だけがひとり酒をあおり続けた。

まるで、何かを振り切ろうとでもいうように。

 普段の彼らしからぬ態度に、不四象は不安そうに傍らの主を見守った。

 「当時も、羌族は殷に虐げられていた。争いを好まぬ羌族は武器など殆ど持っておらぬ。

それ故、他の部族よりも人狩りの脅威に晒される事が多かった。羌族を狩る方が、抵抗が

少なくて他族よりもはるかに楽だったからのう。それに生け贄は儀式の時まで生かして

おかねば意味がない。我らは祭祀の度に、贄として狩られる獣と見なされていた。

…天祥、贄として狩られた異民族が、どのように殺されるか知っておるか?」

 いきなり問いかけられ、武成王の膝にいた天祥は首を振る。

 「俗に『燎』『咼』『卯』というのがある。燎とは焚殺することだ。咼とは肉を削ぎ、

骨と離すことだ。卯とは身を二つに裂くことだ。占う内容や結果によって使い分けるし、

他の殺し方もあるが、主なやり方はこの三つだのう。」

 息を呑む音が薄波のように幕府内に溢れる。

天幕全員の視線が、中程に座している黄一族に集中した。

太公望の答えに驚いた天祥が父や伯父達、祖父と順に仰ぐ。

それを厳しい顔で武成王は黙って頷いた。

 「ひでえ………」

 絞り出すように姫発が呟く。

みな黄一族を憚って口にこそ出さないものの、恐らくそれはその場にいる者の総意だった。

 「そう、酷いことだ。殷人以外から見れば、のう。だが、殷人にとっては非道でもなんでもない。

当たり前のことなのだ。貢ぎ物をもって王に朝貢せぬ限り、異民族は『人』ではない。

獣も同然なのだ。獣を狩るのに、疚しさや罪悪感などありえるはずがない。」

 太公望の口調は終始淡々としている。

抑揚もなく、そこには話す内容とは裏腹に非難の色は微塵も見えない。

 しかし、だからこそ無表情に話す彼の中に、底知れぬ憎悪と怒りが感じられ、誰も彼の話を

止めることが出来ないでいた。

 「大人はみんな殷を恐れ憎んでいた。だが、そんな大人たちの事情も、子供だったわしには

対岸の火事でしかなかった。明日を生きるのに精一杯で、見たこともない殷のことなど関係なかった。」

 彼の一族は、けっして裕福ではなかった。

遊牧民の彼等は、農耕民以上に生活を自然に左右されることが多く、不安定な暮らしを強いられることが

多々ある
けれども、部族は皆で助け合い、慎ましいながらも幸せに満ちていたのだ。

 「あれは、わしが十二になったばかりの頃だ。他族に嫁いだ姉の仕事を、妹と分担することになった。

わしは兄から羊の放牧を任され、邑から少し離れた草地に一人で出掛けた。」

 その日は珍しく、ぬけるような青空が広がっていた。

 「風は冷たかったが、ちっとも苦にはならなかった。いつもは厳しい兄に一人前に扱われたのが

嬉しくて、舞い上がっておった。…有頂天だったのだ。気がつけば、邑からずいぶん離れてしまった。」

 晩秋には冬に備えて家畜を襲う獣も多い。

その最たるものは狼だが、時には熊などの大型の禽獣が出てくることもある。

さすがに一人で出て来たことに不安になって、踵を返した。

 「振り返ったわしの目に写ったのは、上り立つ黒煙と白い軍旗、そして遠目にも鮮やかに燃え盛る

炎だった。」

 殷の人狩りだ、とすぐに直感した。

彼がそれを目にしたのはその日が初めてである。

だが族長だった父が、いつも恐怖に彩られた表情で繰り返し聞かせてくれた人狩りに間違いない。

 そう感じた時、太公望は駆け出していた。

 「わしは邑へ走った。置き去りにした羊達が背中の向こうで鳴き叫んだが、かまわず駆けた。

走って走って、漸く辿り着いたとき、邑は大半が焼け崩れ、人肉の焦げた匂いと死臭に取り囲まれていた。」

 彼の瞳に映ったのは、まさに地獄だった。

生きている者は、誰もいなかった。

抵抗した者は殺され、それ以外の者は白旗の軍隊にすべて連れ去られた。

 「ひとり残ったわしは、焼け焦げた死体を一つ残らず埋葬し、廃墟となった焼け跡で待ち続けた。

わしのように放牧に出ていた族人が戻って来るかもしれぬ。そう信じて、人狩りの残党に

見つからぬよう、息を殺してじっと待った。」

 もしかしたら、誰か帰って来るかもしれない。

きっと、兄か、父かは無事なはずだ。

かならず戻ってきてくれる。絶対に。

 寒さと飢えに震えながら、そう自分に言い聞かせた。

そうしなければ、心が壊れてしまいそうで怖かった。

 「待ち続けて七日目に、わしは自分が一族で唯一の生き残りだと知った。…戻ってこなかったのだ、

…誰も。誰ひとりも。」

 それから先のことは彼もよく覚えていない。

絶望と孤独に心を支配され、昼夜を問わず草原を彷徨った。

 何故自分一人が生き残ってしまったのか。

 何故あのとき人狩りの後を追わなかったのか。

いつ果てるともしれぬ後悔と哀しみが、寄せては返す波のようにに彼を苛む。

それが、死ぬことはおろか泣くことすら許さなかった。

 「気がついた時、隣村との境界の川縁に立っていた。そこにいた女達の話で、

死んだ殷王の為にわしの一族は人狩りに遭い、死後の従者として全員殺されたと知った。

それを命じたのが時の皇后王氏…妲己の前身だということも…。」

 人を憎むことも、此のとき初めて知った。 

 「その直後に元始天尊さまに拾われ、わしは玉虚宮に上がった。元始天尊さまには感謝しておるよ。

もし、あのとき保護してもらえなかったら、わしは餓死しておったか狼に食い殺されておっただろう。」

 静かにそう言って、太公望は温くなった杯の酒を一気に飲み干した。

 「ご主人……………」

 四不象が真っ赤に腫らした瞳で太公望を見上げた。

 その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに崩れていた。

 「なんだ、スープー?泣いておるのか。」

 しょうのない奴だのう。

 小さく苦笑して、細い指が四不象の睫に溜まった涙を拭う。

この笑顔の奥に、深く蔵われてしまった主の哀しみを感じて、白い霊獣はなおも泣き続けた。

 「太公望師叔……」

 柔らかな声がいささかの労りをこめて彼を呼ぶ。

太公望の片腕─楊ゼンが気遣わしげに彼を見つめていた。 

 「昔のことだ。もう七十年も前の、昔話だよ。」

 呟いて、彼は立ち上がる。

 「師叔?」

 「少し、酔ったようだ。悪いがわしは先に休む。」

 ひらひらと手を振って、太公望は天幕を出ていった。

 

  彼が幕府から消えたのを機に、誰からともなく深い溜め息が漏れた。

張りつめた空気が太公望の退場で一気に瓦解し、押し殺した囁きがそこかしこに溢れた。

 「まさか、あの人にそんな暗い過去があったとは…」

  周公旦の言葉にそれぞれが頷く。

 意外…というのは失礼かもしれないが、まさしく意外という言葉がぴったりだった。

 「親父は知ってたさ?」

 乾いた声で天化が父親に問う。

 「いや…。だが、太公望どのが羌族だというのは妲己の薹盆の一件で知ってはいた。

だから殷をよく思っていないことも。」

でも、まさか殷と妲己によって滅ぼされた部族の生き残りだったとは。

 「ですが、彼が周に…父上に協力してくれる気になった理由が、漸く解りましたよ。」

 「旦?」

 ひとり納得している弟に、姫発が不審の目を向ける。

 「父上に幼い日の自分を重ねていたのですよ、きっと。」

 嫡子の伯邑考が妲己によって謀殺され禁固を解かれた時、姫昌は笑顔で紂王に礼を述べた。

幼い日に父公を惨殺され、いままた最愛の息子を殺されながらも、周の平和と

未来の為に笑うしかなかったのだ。

 「国の為に父上は心を殺しました。そうしなければ、国が滅びたからです。

太公望もそうでしょう。どれほど殷が憎くても、それをぶつけることは出来なかったのです。」

 「なんだよ、そりゃ。」

 「小兄様、華人にとって死よりも辛いことは血が絶えることです。」

 この時代、血─祖先への祭祀を絶やすことは最も罪深いことである。

祖先は、自らの親であると同時に神なのだ。それを祀る後継者を失うことは、永遠に消えることのない

罪悪だった。

 「だから父上は耐えました。太公望も同じです。子供だった彼では殷兵にも敵わず、殺されていた

でしょう。そうしたら、一族は本当に『滅び』てしまう。彼が唯一の生存者ですからね。

だから出来なかったのです。」

 なおも周公旦は続けた。

 「羌族は信仰深い部族です。ましてや、その族長の子ともなれば骨の髄まで教え

込まれたはずです。それ故、仇を討つことも自刃もせずに仙界で生きる道を選んだのでしょう。

私怨を断ち切り、失われた部族の御霊を慰めるために。」

 もっとも、彼の中に力をつけて妲己を倒すという想いが無かったとは言い切れないだろうが。

 「けれど、封神計画によって太公望は父上と出会いました。過去の自分と同じく、

殷と妲己に絶望を与えられた者に。」

 一体どんな思いで太公望は見ていたのだろうか。

息子を失い、哀しみに暮れる姫昌の姿を。

殷に二度も王族を殺され、仙道の起こした厄災に苦しみ喘ぐ民草を。

古傷を抉られるような、そんな光景を。

 「小兄様、私は今まで太公望を認めてはいましたが、真に信頼してはいませんでした。

ですが、今は違います。彼を、信じてみたいと思いますよ。」

 仙界の思惑を越えて周を助けようとする彼を。

そう語る周公旦の声が幕府全体に深く響いた。