邑姜ちゃんのひみつ日記
『○月◇日 ついに《あの人》が、ここ桃源郷に訪れました。
「邑姜さん、あの新入りが動きやした。」 見張りの声に、少女──呂邑姜は筆を置いて立ち上がった。 「彼は、いま何処です?」 「へぇ、東の桃園で桃を盗み食いしてます。」 「では皆を其処に集めてください。」 そう指示を出すと、邑姜は自身も桃園へと歩きだした。 あまりにも読み通りの展開に、少々脱力しそうになる。 (でも其の方が都合がいいわ) 素早く気持ちを切り替え、邑姜は歩調を速めた。 目指す桃園はもう目の前だ。見張り達が侵入者を照らすための照明を用意して (…漸く逢えるのね) 密かに高揚している自分に、邑姜は小さく笑った。 なにせ初めての親族との対面なのだ。いかに沈着冷静な彼女とて、気持ちが高まるのは (でも悟られないようにしなきゃ。最初が肝心だわ) きゅっと性根をを引き締め、邑姜は照明のスイッチを入れた。 「っ!」 「あなた、三日前に迷い込んだ新入りですね。」 「な…何だ、おぬしら。」 急に照らし出され、桃を抱え込んだ《あの人》太公望は、あたふたと周囲を見回した。 彼の周りには、邑姜の指示で桃源郷の村人たちが逃げられぬよう、既にぐるりと取り囲んでいる。 「知ってます?この桃源郷の法によると窃盗は死刑です!」 「…な…なんだ、このエラそうな小娘は?」 額一杯に冷や汗を張りつけながら、それでも太公望は邑姜を睨みつけている。 その顔は、自分に──即ち死んだ曾祖母の面立ちに驚くほど似ていた。 (ああ………やっぱりそっくりだわ……) 仮面をつけていて本当に良かった…と、潤み出した瞳を隠して、邑姜は言い放った。 「…反省の色ナシ。処刑しなさい!!」 「ギャァァァァァアア──────ツ!!」 夜の桃園に、情けない悲鳴が響き渡った。 (よし。これで掴みはOKねっ!)
『◆月☆日 太公望さんが此処へ来て三カ月が経ちました。
「労働とは楽しいものよのう、四不象っ!」 「そうっスね、ご主人!」 元気に声を張り上げ、今日も二人は羊刈りのバイトをこなす。 その様子を、邑姜はス○ーカーのように密かに観察していた。 (………そろそろかな) 最初はどうなることかと危ぶんだが、このぶんなら今週中にでも養父の元に連れて そう判断し、長老に長期休暇を申請にいこうとした彼女の耳に、太公望の言葉が 「…しかし、こうしていると昔を思い出すのう」 「昔って、子供のころっスか?」 「うむ。よく妹たちとこうして羊の毛を刈ったものよ」 邑姜の耳が、ダ○ボの三倍くらいに巨大化する。 そのまま逆回転で元の位置まで戻ると、岩場に張り付いてそっと聞き耳をたてた。 「子供のころは単純労働が苦手でのう〜、作業の合間に、弟と悪戯して遊んだわ。」 「どんなことをして遊んだっスか?」 「そうじゃのう…ようやったのは、末の妹を使ったやつかのう。」 (……ひいおばあちゃんを、使った…?) なんとなく嫌な予感がしたが、邑姜はそのまま盗み聞きを続ける。 「妹の顔に山羊の乳を塗り付けてのう、子羊の群れに放すのじゃ。すると羊たちが 「…お、鬼っスね、ご主人…」 四不象の非難も気にせず、呵々と太公望が笑う。 その後ろで ごりっ という、岩の抉れる音が響いた。 (……………………っ) ぴくぴくと額に血管を浮き出して、邑姜は小さく指を鳴らす。 すると数人の村人が、音も無く出現した。 「…処刑なさい!」 「…んっ?なっ、何じゃおぬしらっ…て…─、ぎゃあああああっ──────っっ!」 どかっ!ばきばきっ! 「ああっ、ご主人─────っ!」 「自業自得です。」
『◇月◎日 牧野の戦いが終わりました。結果的には周の勝利でしたが、
「そうスースばっかり責めるんじゃないさ…」 「…………っ!」 ふいに声をかけられ、邑姜は持っていた筆を取り落とした。 「あっ……わり、驚かせちゃったさ?」 「………天化さん………」 立っていたのは、道士の一人──そう、黄天化だ。 「…………見ましたね。」 「ん─…、ちょっとだけさ」 日記を後ろ手に隠し上目使いに睨むと、天化はにやっと笑って邑姜の隣に腰掛ける。 そのまま煙草をふかし始めた天化にどう反応すべきか判らず、邑姜はしばし無言で 戦後処理に騒然としている宿営地の中で、二人の周囲だけ切り離されたような沈黙が滞る。 先に口を開いたのは、天化のほうだった。 「今日は、ありがとさ。」 「えっ………?」 「スース…周の、助太刀に来てくれただろ…」 天化の言葉に、邑姜は首を振る。 「いえ、あまりお役には立てませんでした。」 確かに周軍は勝利をおさめ、殷王朝の命運は風前の灯火となった。 だが結局のところ、勝敗を決したのは『人』の力よりも仙道たちの力が影響したことは、否めない。 良くも悪くも、『仙人』の力は人界の運命に大きく作用してしまうのだ。 だからこそ、太公望が『大極図』の力を出し切れなかったことが悔やまれてならない…。 「そう難しい顔しなさんなって。」 まるで、彼女の心を読み取ったように。 厳しい顔つきで黙り込んだ邑姜に、天化は困ったような笑みを浮かべた。 「力が足りなかったのは、むしろ俺っち達のほうさ。それに、スースの頑張りはアンタも 「…………」 「過ぎたことを云っても、何もはじまらないさ」 ふっと彼の口から吐き出された紫煙が、茜色の空に溶けて消える。 「…そう、ですね。」 こくりと、邑姜は頷く。 まだ総てが終わったわけではないのだ。 紂王の首級(くび)を取る、その瞬間までは。 「………だから、俺っちも行かなきゃな。」 「………え?」 聞き取れないほど小さな呟きに、邑姜は顔を上げる。 彼女が問いかけるよりも先に、天化は立ち上がって歩き出した。 その足が、数歩の所でぴたりと止まる。 「あのさ…………」 顔だけ邑姜へと向け、天化は続けた。 「スースのこと、…頼むさ。」 「…天化さん………?」 どこか不自然な態度に、邑姜は訝しげに天化を見上げる。 けれど滴るような血色の夕陽のせいで、その表情はよく見えない。 「…アンタなら、きっと………」 あの人の、理想を担う『力』になれるから。 哀しげに微笑んで彼がそう呟いたのを、邑姜は確かに聴いた気がした。
『◆月☆日 ついに殷王朝が滅亡し、新しい王朝《周》が生まれました。
最期のページを書き上げ、邑姜は日記を閉じた。 それを手に取り、割り当てられた自室の奥───小さな祭壇に、静かに供える。 そこは、妲己に殺された羌族の民と…彼女の曾祖母の魂を祀った、邑姜だけの祭壇だった。 「…ひいおばあちゃん……」 線香に火をつけ、位牌に手を合わせる。 その顔には、爽やかな微笑みが刻まれていた。 「…いろいろあったけど、私はあの人をとても誇りに思──────…」 邑姜の言葉をわざと遮るように。 どどどどどどとどどどど────────っ けたたましい足音が複数、部屋の前を過った。 「待ちなさいっ、太公望っ!」 スッパパパパハパァァンッ!! 鋭い叱責とともに、小気味よい殴音が廊下に響く。 「貴方という人はっ、どうしていつもいつも桃を盗み食いするのですかっ!」 神経質に怒鳴り立てるのは、おそらく周公旦だろう。 「よっ、よいではないか…桃の一つや二つ……」 「それが太師のすることですかっ!もうっ、今日という今日は許しませんよっ!!」 「あてっ、いふゃいぃぃ──……っ」 太公望の泣き声が聞こえたかと思うと、ずるずると何かを引きずる音が響いて、次第に 完全に音がしなくなると、邑姜は小さく嘆息した。
「………思えるか、不安になってきました…」
頑張れ邑姜っ! 負けるな邑姜っ! いずれ世界は君のものだっ!(たぶん…) |
終劇
あとがき
なんか…えらく時間がかかったわりには、あまりリクエストどうりに
なりませんでした(>_<)。今回のお題は『スースと邑姜ちゃんのどたばた』
というお達しでしたので、《あしながおじさん》形式でやってみようかと
思ったんですが……見事に玉砕しました。うう、すみません。
粗品ですけど、謹んで夢狩狸さまに捧げます。ご期待に応えられなくて
すみませんです。