忘れえぬ日
──場所は、崑崙の辺境地帯。 鳥すらも通わぬ、浮遊岩山の中腹あたり。
山深い──というより人外魔境な断崖絶壁の上で、人生最大かもしれないピンチにため息を 切りっぱなしの短い髪は黒。しかしよく見ると、日に透けるたびに藍色に輝いている。 零れ落ちそうなほど大きな瞳は、深い瑠璃色。 だが、今その双眸は物憂げに青空を見上げていた。 黙ってさえいれば美少年……とは云えないまでも、なかなか人好きのする愛嬌に溢れた顔立ち その小さな唇が、微かに動いた。 「──うう…腹へったのう…」 少年の言葉に、彼の腹の虫が相槌をうつ。 最後に食事を取ったのが六時間ほど前だから、すでに四時間近く此処で黄昏れていることになる。 実年齢は五十ちかくとはいえ、外見は十五のままなのだ。育ち盛りのお年頃に、昼飯抜きはかなり 「今日の昼は…たしか八宝菜じゃったの──…」 考えただけでまた腹の虫が悲鳴を上げ、少年──太公望という名を先月貰ったばかりなのだが 「こんなことなら、元始天尊さまの桃園に忍び込めばよかった…」 …三日前に忍び込んでこっぴどく叱られたからこそ、今日はこんな辺鄙な所まで遠出して、揚げ句に 「まったく、あのクソじじぃ…桃の十や二十くらいよいではないか…」 少しでも空腹を紛らわす為、ぶつぶつと師匠に対する不満を並べ立てて時間をつぶす。 しかしそんなことでごまかされるほど、太公望の腹も単純ではなく………。 主の期待を裏切る『飯よこせっ!』の声に、さすがにうんざりして口を噤んだ。 そのまま、ぼんやりと流れてゆく雲を眺める。 「…まぁ、そのうち白鶴が助けにくるじゃろう…」 修行をとんずらしたことは、もうばれてるだろう。 道士である太公望が黄巾力士も使わずに崑崙の外へ出ることは出来ないのだから、待っていれば白鶴 あたりが探しに来てくれるはずだ。 そう考えて──── いや、そう思い込んで思考を打ち切った。
肌を刺す寒気に太公望は夢の揺り籠の中から引きずり出された。 …いつの間にか、眠っていたらしい。 日はとっぷりと暮れ、紫紺の闇夜が空を覆っていた。 今宵は新月。いつもなら清らかな光を投げかける月は、何処にも見えない。 姿を隠した夜の女王に遠慮しているのか──星すらも、今は一つとして見つけられない。 見上げる空に広がるのは、絵の具で塗りつぶしたような暗闇だけで……。 ともすれば己の手すらあやふやに感じるほどの闇に、太公望はきりと唇を噛み締めた。 「なんで…誰もこんのじゃ」 自分が玉虚宮からいなくなったことは、とっくに知られているはずである。 にもかかわらず、誰も探しにこないのはいったいどういう事なのだろう…。 「まさか…」 見捨て、られた…………? 最悪の考えに、太公望はかぶりを振る。 そんなはずはない。第一、もし仙人になる見込みがないと思われたのなら、下山させられたはずだ。 胸に浮かんだ疑念を、努めて理知的に分析し、否定する。けれど………。 一度沸き上がったそれは、煤のように太公望の心の片隅にこびりついて消えてはくれなかった。 しんっ…と忍び寄る冷気に、ぶるりと身体を震わす。 自分がこんな埒もない事を考えてしまうのは、この闇と寒さのせいだ。 こんな初冬の寒気と夜の闇は、あの日の……── 「………っ」 連鎖的に甦った記憶を、太公望は慌てて打ち消す。 しかし呼び起こされた悪夢の顎は、しっかりと彼の心の裡に食らいつき、目を覆いたくなるような 「……あ……」 どくんと、心臓が脈打つ。 そんなはずない。そう、判っているのに。 いま鼻腔を擽るのは、彼のとき嗅いだ死臭と肉の焼け焦げた匂い。 ──いやだ。見たくない。 思い出したくない。思い出したくなんかっ─── 『…………………』 ふいに。 名を呼ばれたような気がして、太公望は顔を上げた。 過去の恐怖は、いまだ胸を締め付けているけれど。 だけど、確かに聞こえたのだ。自分を呼ぶ声が。 己を現実に引き戻した声の主を求めて、大きな瑠璃の瞳が宙をさ迷う。 やがて太公望の耳に、蚊の鳴くような呼び声が届いた。 「……た…太公望っ…………!」 ぱっと上を見上げる。 この声は…間違うはずはない。これは……… 「──太乙っ?」 「……ああ、やっぱり其処にいるんだねっ」 間髪入れずに叫ぶと、ほっとしたような呟きが返ってくる。 「ちっ…ちょっと、待ってて………」 震えるような言葉の後。 ずる…ずるっ… と何かが這うような鈍い音が続いて──やがて、闇の中から長身の青年が命綱を 「ああっ良かった〜〜っ!見つかったっ!」 綺麗な顔を涙でくしゃくしゃに歪めて、太乙が冷えきった太公望を抱き締める。 急展開についていけない太公望をよそに、太乙は──此処が苦手な高所だということを忘れる為か 「も〜〜っ、探したんだよっ!!玉虚宮に行ったら君が行方不明になって騒ぎになってるしっ、どんどん 「……………」 「ここいら黄巾力士のレーダーが効かない場所だから、降りて探すしかなくってさ………」 「……………」 「──太公望?」 黙りこくったまま一言も喋ろうとしない彼に、太乙が顔を覗き込む。 「どうしたの…?あっ、ひょっとしてどこか怪我してるのっ?」 おろおろと慌てふためく太乙の手をそっと握り、太公望は首を振った。 「…たい…──」 「───ずっと、探してくれたのか?」 「うん」 「お主、高い所は苦手ではないか。なんで──」 他の者に手伝わせなかった? 微かに震えを含んだ問いに気づいていないのか、太乙はぷうっと口を尖らせた。 「何云ってるんだいっ。私以外の奴に君のコト任せられるわけないじゃないかっ!」 私が、一番君のコト想っているんだから。 恥ずかしげもなくそう云って胸を張る太乙の姿に。 強ばっていた太公望の心が、ゆるゆると溶けていく。 気が付いたら、声をあげて笑っていた。 「太公望……?」 急に笑い出した太公望を、太乙が不思議そうに見下ろす。 その意外に子供っぽい仕草に、ますます笑みを深めて。 太乙の広い背に手を回し、その温かな胸に顔を埋めて静かに囁いた。 「………なんでもない。──太乙」 「なに?」 「……ありがとう」
|
■あとがき■ ……ものすごく遅くなりましたが、10000番のキリリクです。 時間がかかったわりには、深いんだか浅いんだか訳わかんない話ですね。こんなダメっぷり炸裂な話ですけど、わか様、宜しければ貰ってやって下さい。遅くなってすみません……(>_<) |