いや、忘れられるはずがない。 師匠に連れられてやって来た、遊牧民の少年。 がりがりに痩せた体は、ひどく貧弱で幼くて。 とても、十二歳に見えなかった。 けれど、零れ落ちるかと思うほど大きな瞳を彩るのは そこにあったのは、凍てついた憎悪。 少年の瞳には、紛れもない憎しみの念が宿っていた。 その瞳を目にしたとき、自分は確かに囚われたのだ。 千年の恋に。 |
風触の恋 |
仙界の二大主流派の一つ、闡教の総本山『玉虚宮』は、空に浮かぶ霊山―崑崙山の頂きにあった。 此処では、主に出自が人間である仙人たちが集い、三大仙人の元始天尊を教主として、それなりの
その日――十二仙の一人である太乙真人は師に拝謁するため、朝から玉虚宮に殿上していた。
早朝だったにもかかわらず、宮殿のあちこちから見習い仙童たちの読経の声が木霊する。 それを聞き流しつつ、太乙は元始天尊の姿を探した。 「師父、どこにおいでですか。」 彼のよくとおる声が回廊に響き渡る。 しかし、どこまでも続く廊下はしぃんっと静まりかえったままだ。 求める師の姿は何処からも現れない。 「師父…」 再度呼びかけるが、相変わらず応える者は誰もいない。 日時を間違えたのだろうか、自分は。 そう考えて、だが、彼は首を振る。 指定された日は今日だったはずだ。 顔馴染みの鶴の仙童が伝えた師の伝言では、確かに今日この時間に玉虚宮に来るように指示されていた。 それは間違いない。 ならば、この不在はいったいどういうことなのだろう。困惑する太乙の耳に、鳥の羽ばたきが聞こえた。 「太乙真人さまっ!」 振り返れば、彼のもとへ師の伝言を伝えにきた仙童――白鶴童子が駆け込んできた。 「白鶴っ!」 「いらしてたんですね。」 目の前の子鶴が一瞬で童子に変化する。 それに驚くこともなく太乙は童子に尋ねた。 「元始天尊さまは…?」 「師父はいま人界にいっておられます。間もなく戻られますよ。」 「人界に…?」 太乙が首を傾げたときだった。 ゴオオオッという、すざまじい轟音と振動が宮殿を襲う。 「元始天尊さまっ!」 巨大な人型ロボットから白髭の老人―――師匠の元始天尊がゆったりと姿を現した。 「おや、もう来ておったのか。」 髭に隠れた口から呵々かと笑って太乙の前に降り立つ。 型通りの挨拶を述べ膝をついた太乙の視界に、ふと見慣れぬ人物が映る。 小さな子供が元始天尊に庇われるように立っていた。年のころは…十にも満たないのではないだろうか。 ボロボロの衣を纏い、顔は火事にでもあったのか、煤で薄汚れている。 手足は針金のように痩せこけていて、いまにも折れてしまいそうなくらい細かった。 やせっぽちの酷い姿…だが、それ以上に。 それ以上に、彼が引き寄せられたのはその『瞳』。 鋭く、強い、射貫くような眼差し。 大きすぎる瞳には、見た目の幼さや、あどけなさは微塵も感じられない。 かわりに見えるのは、闇のように昏く沈んだ絶望。 そして、燃え盛る業火のような激しい憎悪。 どちらも、こんな年端のいかない子供が持つにはあまりにもそぐわない…似合わない『モノ』 ぞくり、と彼の背筋に悪寒が走る。 ありえるはずない。それなのに、子供の双眸に宿る炎で炙られたように、太乙の喉はからからに渇いて、 ゴクリ、と無意識に唾を飲み込む。 ………こわい。 仮にも十二仙ともあろう者が、一瞬とはいえ何故こんな子供に恐怖を覚えなければならぬのか。 けれど、彼の目は子供を凝視したまま、呪縛でも受けたように動けなかった。 太乙の尋常でない視線に気づいたのか、元始天尊は子供を自分の前に押し出した。 「おお、忘れる所じゃった。今日から儂の直弟子になる呂望じゃ。」 子供が無言で頭を垂れる。 「………………師父。」 「なんじゃ、お主、青い顔をして……」 「こんな小さな子、何処から攫ってきたんですか!」 「なっなっなっ…………」 「未青年略取は立派な犯罪ですよっ。親が騒ぎ立てる前に、早く返して…」 「なに勘違いしておるっ!この馬鹿モンが――っ!」 「っ――――っ!」 「この子は戦災孤児じゃっ。」 まったく、とんでもない勘違いをしおって。 ぶつぶつと呟いて、老人は出したときと同じように杖をかき消す。 「呂国の草原を一人彷徨っておったので儂が保護したのじゃ。」 「なんだ。いやぁ、師父のことだから、てっきり何処ぞの国から好みの子供を誘拐してきたのかと…」 呟きの最後の方は、師匠の眉毛に埋もれた目に睨まれて太乙の口の中で消える。 「羌族の族長の子なのだが…例の妖狐に一族を惨殺されてのう。」 太乙のぼけは完全無視をきめて、元始天尊は長々と子供の身の上を話し始めた。 「………と、いうわけで、十二仙の中では年はお主が一番近いじゃろうから、ひとつ、面倒をみてやってくれ。」 「…………はぁ。」 ぼんやりといい加減な相槌をうつうちに、とんでもないことを云われたような気がして我に返る。 「……へ………?」 「呂望、あやつは太乙真人といってな、わしの直弟子の一人じゃ。これから解らぬことは何でも聞くと良い。 師である老人は子供を太乙に預けると、白鶴童子とともに宮殿の奥へと消える。 広い回廊に太乙と子供がぽつんと取り残された。
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