「えっと…………」

 予想もしなかった展開に、早朝から呼び出されたこともあって寝不足ぎみだった太乙は、くらくらと

目眩を覚えた。

 『後は頼む』と云われてもなぁ。

研究一筋うん百年、気ままな独身の自分に一体どうしろというのだろう。

 第一、こんな小さな人間の子供を見るのは、ほんっとーに久しぶりなのだ。

確かに同僚の仙人たちの中には、弟子を赤子のうちから引き取って修行を積ませる者もいる。

その方が才能も開花しやすいし、効率のいいのもわかってる。

 が、生憎と太乙の門弟たちの大半は成人してから入門した者ばかりであり、一番若い者でも十五を

過ぎてからの

入府で…つまり、子供の世話などついぞしたことがない。

 しかし、押し付けられた以上は面倒をみないとまずいだろう。一応、もと人間として。

 まずは風呂に入れて、道服に着替えさせて──。

 そうだ、食事もさせたほうが良いだろう。

 見たところ、何日もまともに食べていないようだ。

なにか栄養のつくものを───といっても、生臭は禁じられているので、たいしたものは出来ないが

──後で誰かに用意させよう。

取り敢えず、当面の予定をたてて頭の中で反芻する。

 粗方シュミレートし終えると、くるりと子供に向き直り、太乙はにっこりと微笑んだ。

 「えーと、知っているとは思うけど、いちおう自己紹介しておくね。私の名は、太乙真人。

キミと同じ元始天尊様の弟子の一人で、主に宝貝の開発を担当しているんだ。」

 硝子の切っ先のような鋭さを秘めた蒼紫の瞳が二つ、じっと彼を見つめる。

その光の強さに内心気圧されながら、動揺を悟られぬよう、太乙は言葉を続けた。

 「これからキミの此処での生活の仕方を教えるから、取り敢えず私について来てくれるかな。」

 努めて優しく語りかけ、右手を差し出す。

呂望は無言のまま、幾分警戒するように、おずおずとその手を取った。

案外素直に従ってくれる様子にほっとしつつも、握りしめた手の小ささと細さに、内心痛ましく思う。

 族長の子となれば、いってみれば王族だ。

いくら羌族が商族から迫害を受けて貧しく、また身分の格差が少ないといっても、直系の王族とも

なれば末端の族人よりは裕福だろうし、そこそこの生活はしていたはずだ。

 それが総てを奪われたあげく、草原に一人で放り出されるなど、死ねと云っているようなもの

だろう。

実際、幼い子供がよく今まで生き残れたものだ。

 普段他人に対して関心の薄い太乙も、さすがにこの子供には些かの憐憫を刺激された。

 私なんか、のほほーんと生きてきて、気がついたら仙人になってたもんなぁ。

思えば、苦労らしい苦労は経験しなかったな…とぼんやり思い出しているうちに、第一目的の

公衆浴場へと到着した。

 「まず此処で下界の汚れを落としてしまおうね。」

 扉をくぐると先ず広々とした脱衣所が現れる。

はじめて見る場所で、茫然と途方にくれる呂望に太乙は先程と同じく丁寧に説明した。

 「ここで服を脱ぐんだよ。あの扉の向こうにお湯の張った浴槽──小さな泉があって、そこで

体を洗うんだ。」

 太乙の説明を理解したのか、呂望は服を脱ぎ始めた。

 「…………………」

 現れた裸身に、太乙の眉がひそめられる。

服を脱いだその姿は、彼が思ったよりもひどいものだった。痩せているとは感じていたが、こうして

見るとそんな生易しいレベルはとうに通り越して、骨と皮一歩手前と云っても過言じゃない。

 ぬけるような色の白さが余計に体の貧弱さを強調しているようで、見ている太乙のほうが

辛かった。 

  「さ、さっさと終わらしてしまおうね。」

 殊更明るく振るまい、浴場の扉を開ける。

濛々と立ち上る湯気の向こう…なみなみと豊かな湯をたたえた石造りの浴槽が、二人を迎えた。

 「さぁ、ここに座って。」

 小さな座椅子に呂望を座らせ、太乙は常備してある石鹸を泡立たせた。

 「これくらいでいいかな…」

 充分に泡立つと、その泡を呂望の体に塗っていく。

素肌を滑る太乙の手に、呂望の体がきゅっと強ばる。

 こんなふうに他人の手が触れられることに、あまり慣れていないらしい。

しかし抗うことはせず、じっとしている。

 すっかり泡だらけになった呂望を、太乙は手にした柔石で手早く洗い始めた。

 いまにも折れそうな首筋から、鎖骨、薄い胸板、滑らかな背中…と順序よく丁寧に擦っていく。

あらかた体を洗い終え、最後の仕上げに頭を両手でマッサージするように洗う。

 それも終わると、太乙は備え付けの手桶に浴槽の湯を掬って彼の体にかけた。

 「熱くない?」

 太乙の問いかけに、呂望は俯いたまま首を振る。

幾度もかけられるお湯が、彼の体中の泡を汚れと一緒に漱いでいく。

すっかり泡が流されると、つややかな裸体が現れた。

 「これでよしっ…と。」

 再び脱衣所に戻り、厚手の布で呂望の体から水気を丹念にふき取る。

 そしてあらかじめ置いてあった新しい服を着せた。

 「…………あれ?」

 一番小さな子供用の道服を用意したつもりだったが、痩せぎすの彼にはそれでも大きいのか、

大分ぶかぶかしていた。

 「後でキミに合うものを用意するから、今日はこれで我慢してね。」

 苦笑して、呂望の服の袖をまくってやる。

一、二度では足りず、三度捲ってようやく小さな手が顔を出した。

 その手を握り浴場を出ようとした太乙の目に、ふと、脱ぎ捨てた呂望の服がとまる。

 随分ぼろぼろだけど、この子が地上から持って来た唯一のものだしなぁ…。

ちらり、と呂望の顔色を窺う。

相変わらず無表情で、なんの感情も読み取れない。

 「これ、もって行くかい?」

 彼の目線に並ぶようにしゃがんで、太乙はそっと問う。暫し考え込むような沈黙の後、呂望は

首を振った。

 「えっ………」

 意外な答えに、太乙はもう一度尋ねる。

 「捨てちゃっていいの…?」

 本当に?それでいいの?

言外に含まれた太乙の問いに、呂望はやや躊躇うように視線を漂わす。

けれど、やはり最後はこくんと頷いた。

 「君がそう云うのなら、処分するけど…」

 本当に、それでいいのかい。

喉元まで出かかった言葉を無理やり呑み込む。

これ以上、他人の自分が干渉するのは彼に対してひどく失礼な気がしたのだ。

 「…いこうか。」

 呂望の手をしっかりと握り、歩き出す。

 あの服は、清掃の係の者が片付けてくれるだろう。

なんにせよ、太乙自身が直接手を下すのはいささか気が引けた。

 長い回廊を進んでいくと、午前の修行が終わったのか、見習い道士たちがちらほらと姿を

見せる。

 十二仙の太乙が子供を連れているのがよほど物珍しいのか、すれ違う度に好奇の視線が

絡み付く。

それを多分にうるさく感じながらも、彼と呂望は無言のまま回廊を進み続けた。

 しばらく進むと、仙童や道士たちの居住区である学寮房が左右に現れる。

その一番奥──人気のない区画の房の一つで、太乙は足を止めた。

重厚な黒檀の扉を開け、中へと踏み入る。

 「ここが、今日からキミが生活する部屋だよ。」

 そう云って太乙が案内した室内は、一人で住むには大きすぎるほど広々とした個室部屋だった。

 さすがに十二仙の私室ほど豪奢ではないが、石造りのしっかりとした床といい、防音効果抜群の

厚い壁といい、他の大部屋とは段違いの差である。

 それもそのはず 本来なら、ここの区画は新米の仙人…若しくは仙号を取得したものの、未だ

弟子を取ってない道士──いわば将来有望株の為のものだ。

 その中でも、この部屋は大幹部である十二仙の私室に最も近い場所にあり───つまり、

部屋の主は太乙たちとほぼ同格の位を受ける者となる。

 入門したばかりの、まだ修行さえ始めていない子供に与えるにしては、あまりにも破格過ぎる

扱いだ。

 それだけ、呂望にそれに見合うだけの能力がある、または、そういう存在になれるという

確信が元始天尊にあるのだろう。

 「修行は明日からになるから、今日はゆっくり休んでね。…後で宮殿の施設を案内して

あげるよ。」

 笑顔で接しながらも、太乙は内心、自分が独り言を云ってるように感じずにはおられない。

相手である呂望が一言も喋ってくれないのだから、仕方がないといえばそうなのだが。

 しかし、こんな調子ではたして大丈夫なのか。

他人事ながら、不安になる。

 確かに才能はありそうだし、まだ子供だからいくらでも教育出来るだろうが……はたして

崑崙に順応できるのだろうか。

 まあ、ここで太乙がいくら疑念を持ってもどうしようもない。

 元始天尊が決めたことなのだから、自分たちは従うしかない。自分は、役目を果たすだけ…

と考えて太乙ははたと肝心なことを思い出す。

そういえば、食事をさせてなかった。

 「何か食べ物を持ってくるから、キミはここで待っててくれるかな?」

 しゃがみこみ、見上げるようにして問いかけるが呂望は無言のまま、反応を返さない。

無視しているわけでは無さそうだが、警戒心と緊張が枷となっているのだろう。一言も話さなかった。

 仕方がない。色々酷い目にあったのだから、無理もない。いきなり変貌した周囲の環境に

慣れてないだけなのだ。

…と、都合のよい方へと解釈し、太乙が部屋を出ようとした矢先。

 「…………………ありがとう。」

 蚊の鳴くような、小さな声。

空耳かと振り返った太乙を、大きすぎるくらい大きな瞳がじっと見つめて。

 唇が、呟く。

 「ありがとう。」

 今度も、ようやく聞き取れるくらいの小さな声。

だが、呂望は確かにそう云ったのだ。

ドオォォンと、形容しがたい衝撃が太乙の痩身を貫く。

 どくどくどく…早鐘のように鳴り響いて小躍りしているのは、間違いなく太乙の心臓だ。

 どうしたというんだ、自分は。

ただ、目の前の子供が喋ったというだけで、こんなにも動揺するなんて。

 わけが判らない。何なんだ、これは。

 

混乱する感情に縛られ、随分と長い間、太乙はそこで固まっていた。

 呂望のおなかの虫が、空腹に耐えかねて絶叫するまで、おまぬけにも まったく動けなかった。

 

 

これが、二人の出会いだった。