五 風蝕の恋

 

 

 

 やわらかな月明かりが差し込む中、太乙はそっと身を起こした。

 傍らでは、すやすやと安らかな寝息を立てて呂望が眠っている。

 目の下にやや隈が残っているものの、穏やかな寝顔にはもう疲労の影は見られない。

 絹糸のようにさらさらと流れるその髪を、優しく梳く。

愛しさが、湧き水のように太乙の胸を心地よく潤した。

 初めて見た時は、小鳥だと思った。

風切り羽を切られ、翼を折られた哀れな小鳥。

巣を壊され、地面に打ち捨てられたかわいそうな小鳥。気になって、ほうっておけなくて、手を出した。

掴まえて、抱き締めて…。

 けれど、手に入れた今なら解る。

彼は、雛鳥だったのだ。

大空を自由に舞う鷹の雛。

 いつか、呂望は飛び立つだろう。

『運命』という名の風にさらわれて、『仙界』というこの狭い鳥籠の中から。

 だって、気づいてしまったのだ。呂望の背に、大きな翼があることに。自分とは、違うことに。

 澱みなく流れる歴史の外へと弾き出され、天空の牢獄で生きながら腐り果てていく、太乙とは違う。

彼は、必ず出て行ってしまう。この掌から。

 彼がもっとも愛する地上(人間界)へと。

そのとき、彼の中にある此処での記憶はすべて風化してしまうだろう。

 大地が風に侵食されていくように。

 『風蝕』の恋。

 「…………くっ………」

 脳裏に浮かんだ言葉に、笑いが漏れる。

おかしかったわけではないのに、衝動は止まらない。

 現れた言葉は、いまの太乙に滑稽なくらい良く似合っていた。

 「くくっ…くっくっっ…………」

 風蝕の恋。なんと自分たちに──自分の恋に、相応しい名だろう。

 まさしく、そのとおりだ。

いつか風に攫われ、跡形もなく消えてしまう恋。

 それを止める手立ては、たぶん存在しない。

 「……ぅううっ……………」

 いつのまにか、太乙は泣いていた。

 自らの頬を濡らすそれは、人間であることを捨てた時に一緒に失われたはずの…人の証明。

数百年ぶりに流したそれは、火傷しそうなほど熱くて──止まることを知らぬように、次々に溢れた。

 わかっているはずなのに。

呂望の瞳に映るのは、彼の『世界』を奪った狐狸精だけだと。願うのは、血の復讐と人界の平和のみと。

 けっして、呂望の心を手に入れられないのは、はじめから太乙にも判っていた。

 理解して、それでもなお彼を求めたのは、間違いなく自分自身なのに。

 なのに、この痛みはなんなのだろう。

胸を千々に引き裂く、この狂おしい痛みは。

 こんなに側にいるのに。

どれほど強く抱き締めても、己の想いが彼の心に残ることはない。

 どれだけ言葉を紡ごうとも、どんなに真心を示しても、呂望の『ただひとつ』にはなれない。

 自分は、彼の心には住めない。

それに触れることは出来ても、掴むことは出来ない。

不可能なのだ、太乙には。

 『多少の犠牲は仕方がないだろう』

道徳が放ったその言葉に、心の何処かで納得してしまう太乙では。

 ああ…それでも。

それでも、自分は想うことを抑えきれないだろう。

絶対に、成就することがないと理解していても。

 魂まで囚われたのは、太乙の方なのだから。

身を焦がす激情に目眩すら覚えながら、太乙はただ慟哭(な)き続けた。

 

 

 

  陽炎のように浮かぶ月だけが、知っていた。

  この恋の行方を。

 

 

《風蝕の恋 完》


あとがき

ようやく完結しました。いや、長かったです。
暗い話はネタとしては思いつきやすいのですが、書いてる方は気持ちが滅入って
くるので、なかなか大変です。これも本として出すのに半年近くかかりました(T_T)。