ありがとう
ベルナルドに指定された場所は、取り壊しの決まった古いアパートだった。
デイバンの端にある、いまは寂れた住宅街。渡されたメモに書かれた通りを
ジュリオはひとり歩いていた。いちおう部下達も同行させたが、大人数では
目立つため街の入口手前で待たせてある。殺しの後始末ならともかく、護衛を
ぞろぞろ引き連れて移動するなど警戒してくれといっているようなものだ。
はっきりいって邪魔でしかない。迎えにいくだけなら自分ひとりで事足りる。
それにしても、要人とやらは何故こんな場所を待ち合わせに選んだのだろう。
流れるように道を進むジュリオの胸に、ふと疑問が湧き上がる。
かつてはそれなりに活気があったであろう街には、ほとんど人気がない。
最初にここを作った移民たちは馬車馬のように休みなく働き、裕福になると
他のもっと環境の良い土地を求めて出て行った。その後に入り込んだ別の
移民たちの素行の悪さが治安を急激に悪化させ、十年ほど前からほぼ
ゴーストタウンと化してしまった。
いま住んでいるのは自国で食い詰めて流れてきたばかりの新参者か、
身寄りのない浮浪者ばかり。乱立する朽ちかけた建物の大半は水も
電気も通っていない。それでも彼等にしてみれば雨風をしのげるだけマシ
なのだろう。迂闊に路上で眠れば、悪餓鬼どもや強盗の餌食になって
死ぬこともあるのだから。
鼻をつく強烈な腐臭に顔を顰めつつジュリオは目的の建物を探す。
メモどおりならこの辺りのはずだ。剥げかけた番地の文字をひとつひとつ
確かめながら、通りの端まで歩き続けて漸くそれらしきアパートを見つけた。
比較的頑強かつ重厚な建築様式だからか、外観は古めかしいが
建物自体はさほど傷んではいない。ただ、やはり街の荒廃からは逃れられ
なかったらしく、玄関の鍵は無惨に壊されていた。修理されないまま放置
されているところを見ると、既に廃墟と化しているのだろう。
音を立てぬよう気をつけながらジュリオは静かに中へ入る。かろうじて
電気は通っているようで、暗い廊下をか細い光がぼんやりと照らしていた。
まるで生きているかのように揺らぐ自分の影の下をくぐり、薄汚れた
絨毯を踏みしめる。歩く度にふわりと舞い上がる、長年降り積もった埃と
黴と、腐食した木の匂い。様々なものが混じり合った古い家特有の
臭いの中、ふと鼻腔を掠めた香りにジュリオは目を瞠った。まさか。
でもこれは、彼のものだ。
――ジャンさん……!
間違いない。これは、あの人だ。
そう認識した瞬間にはもう、ジュリオは床を蹴って走り出した。ギシギシと
耳障りな音をたてて軋む階段を疾風の如く駆け上がり、微かに漂う
残り香を追いかける。いまにも消えてしまいそうなそれを全神経で
捉えたまま、ジュリオの体は持ち主の望み通りに彼を目当ての場所へと
導いた。
三階の突き当たりにある角部屋。そこからジャンの匂いがする。
逸る気持ちを必死に抑えて、ジュリオはドアノブに手をかけた。
キィ、とかすかな音をたてて扉が開く。
其処は、あきらかに他と異なっていた。外の身を切られるように冷たい
冬の空気とも、廃墟によくある総てが死に絶えたような虚ろな雰囲気とも
違う。ここだけは血の通った生身の――命の息吹を感じる。よく見れば
床は綺麗に掃き清められて、そこかしこに人の手が入った痕跡が
残っていた。誰かが最近訪れたのだ。それも一度きりではなく、何度も。
だから打ち捨てられた瞬間から凍りついた建物の時間の針が、
この部屋だけは正常に動いていた。
ふらふらと誘われるように細い廊下を進み、正面の扉――おそらく
メインルームだろう――の前でジュリオは立ち止まる。感じる。この向こうに
彼がいる。みっともなく震える自分の手を胸内で叱責しながらジュリオは
扉を開けた。
パッ、と眩いほどの光が薄闇に慣れた双眸に突き刺さる。おもわず
目を眇めたジュリオの耳に凛とした美しい調べが聞こえた。
「ジュリオ」
自分を呼ぶ、優しい声。きらきらと輝く金色の髪。焦がれてやまない
ジュリオの太陽がそこにいた。この一週間ひとめ顔を見ることすら
かなわなかった、誰よりも大切な人が。
「ジャン、さん……」
息をつめて固まったジュリオの唇から弱々しいつぶやきが洩れる。
この人に、ずっと会いたかった。たくさん言いたいことがあったはず
なのに、けれどいざ彼を前にすると何を話していいのかわからない。
いつもそうだ。ジャンといると胸が詰まって、全然うまく喋れない。
祖父のように恐怖で支配されているわけではない、寧ろこんな自分には
過分なくらい優しくて、いつも気にかけて、とても大事にしてくれるのに。
この人に失望され嫌われてしまうのが恐くて、言葉が出てこない。
うまく喋らなければと思うほど、舌が凍りついてしまう。
ああでも、なにか話さなくては。焦り混乱する頭をフル回転させ、
ジュリオは漸く言うべき言葉を探し出した。
「どうして、此処に……?」
どもりながら絞り出した問いかけにジャンは悪戯っぽく微笑んだまま
答えず、立ち尽くすジュリオを手招きする。多少の疑問を覚えても、
彼は自分の唯一にして絶対の主だ。そのジャンに呼ばれて否と云える
はずもないし、そもそも彼の口から発せられた命を『拒絶』するという
思考はジュリオの中に存在しない。
犬が飼い主に付き従うようにジュリオもまた崇拝する主人の元へ
馳せる。一瞬で傍らに立った彼にジャンはすっと手を伸ばしてやさしく
抱き寄せた。
「……ジャン、さん?」
ふわりと包まれた温もりに、強くなった彼の匂いにジュリオの鼓動が
跳ね上がる。
ジャンさんはいつもあたたかくて、すごく良い匂いがして、抱きしめられると
とても気持ちいい。いつまでもこうしていたくなる。やっと触れることができた
嬉しさのあまり、涙ぐみそうになったジュリオの耳元に顔を寄せ、彼の主は
密やかに告げた。
「ここは、お前が生まれたところなんだよ」
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