Punch-Drunk Love

    
 再びベルナルドのほうに向きなおると、老人は深く嘆息した。

「その格好で帰ったら親御さんが心配するじゃろう。……眼鏡も

なおさんとな」

「え? あ……」

 指摘されて漸く視界がおかしいことに気づく。

よく見れば、眼鏡のレンズが片方割れていた。たぶん二度目に

殴られたときだろう。他にもブレザーの袖がほつれていたり、前の

ボタンが幾つか飛んでいたりと酷い有様だ。身だしなみに厳しい

ドン・カヴァッリが顔を顰めるのも頷ける。

 たしかにこの姿で帰ったら両親、特に母が卒倒しかねない。寡黙な

父にくらべて母はとにかく感情の起伏が激しく、ほんの些細なことでも

大騒ぎする質だから厄介だ。ここは素直に老人の厚意に甘えたほうが

いいだろう。

「二人ともついてきなさい」

「えっ、俺も?」

 意外そうな声をあげた少年にカヴァッリはカッと目を剥いて怒鳴った。

「お前は儂の鞄持ちじゃろうがッ! とっとと其れを拾ってこいっ、

この馬鹿もんがっ」

 ひゅ、と風を切ってうなる杖の切っ先を紙一重でかわし、冷や汗を

かきながら少年は先ほど自分が落とした鞄を拾いにいく。その様子を

厳しい、だがどこか見守るような慈しみの眼差しでみつめる老人の

様子にベルナルドは内心首を傾げた。

 ドン・カヴァッリといえばCR:5の筆頭幹部でカポ・デル・サルトの懐刀と

して有名だ。そんなコーサ・ノストラの大物を「爺様」と呼んで気安い

態度をとる下っ端の構成員と、それを咎めず側に置く幹部。常識的に

考えれば、まずあり得ない。古い因習が支配する縦社会で身分は

絶対だ。血縁であれば多少の目こぼしもあるだろうが、少年はいかにも

下町育ちといった風体でドン・カヴァッリの血筋――いわゆる上流

階級の出には見えない。けれど、ただの上下関係というには親密に

感じる。端から見れば、まるで祖父と孫のようだ。

 いったい二人はどういう関係なのだろう。自分とさほど年の変わらない

子供が、末席とはいえコーサ・ノストラの世界にいるという事実に

ベルナルドの好奇心が疼く。

 デイバンの下層階級の人間が上を目指そうとするなら自分のように

学業や何かしらの才能で成績を残すか、CR:5に入るかの二択しか

ないのが現実だ。後者のほうが圧倒的に多いが、それでも十代前半で

構成員になることを許される者は少ない。特例を認められるほどの、

なにか突出した特技があれば話は別だが。

 不思議そうに見つめるベルナルドの視線に気づいたのか、鞄を

拾い上げた少年がふいにこちらを振り返る。目が合うといたずらっぽく

笑いかけられ、咄嗟にベルナルドは俯いた。

 なぜだろう。あの黄金の目に見つめられると妙に胸がざわついて、

気恥ずかしくて、どうしてだか顔を合わせられない。かぁっと頬が

火照るのが自分でもわかる。

 先ほどみっともなく殴られているところを見られていたからだろうか。

そういえば、彼にはまだ助けてもらった礼も言ってなかった。慌てて

声をかけようとしたけれど、どう言えばいいのかわからなくて、

もどかしさにベルナルドは唇を噛んで押し黙る。

 結局まともに礼も伝えられないまま、ドン・カヴァッリが用意した

フォードがくるまで少年の華奢な背中を見つめるしかなかった。




 有無を言わせず同乗させられた車が向かった先は、デイバン

市街でも高級店が建ち並ぶ通りだった。

 強面のガードマンが立つ扉をくぐると、思わず息を呑むほどの

きらびやかなサロンが広がる。贅を凝らした内装と高価な調度品の

数々に圧倒されるベルナルドを前に押し出し、カヴァッリは店員の

1人を顎でしゃくった。

「すまんが眼鏡を直してくれ。あと、この子の上着も頼む」

「かしこまりました」

 恭しく頭を下げたスーツの男がベルナルドから壊れた眼鏡と

上着を受け取って奥へと引っ込む。あまりにも場違いな空間に

戸惑い、気後れする彼に今度は別の店員が席を勧めた。

「少しお時間がかかりますので、こちらにお掛けになって

お待ち下さい」

「あ、はい」

 そつのない所作でベルナルドをソファに座らせると、間をおかず

円卓に茶と菓子が用意される。いわゆる英国様式のそれに

多少手間取りながら、喉を滑り落ちる紅茶のやさしい甘みに

ベルナルドほっと肩の力を抜いた。

 特別な顧客の為に用意されたサロンには老人と少年、そして

ベルナルド以外に客はいない。おそらくドン・カヴァッリの意向で

貸し切りというか、人払いされているのだろう。彼がCR:5の幹部

というだけでなく、それなりの財力を誇る名家の当主だからこそ

最高の礼を尽くすし、カヴァッリの連れとはいえあきらかに庶民と

わかる少年やベルナルドに対しても下にも置かぬ扱いなのだ。

普通なら彼等のような子供が店の前を通ることすら快く思わない

はずなのに。

 ふいに腹の底から皮肉げな笑いがこみ上げて、しかしけして

表情には出さず胸内に押しとどめる。馬鹿馬鹿しい。今更なにを

驚く必要がある。わかっていたことじゃないか。出自や階級を

飛び越えるにはそれしかないと。

 巨大な権力の前では人はいくらでも主義主張を都合良く忘れ、

媚びへつらう。寧ろ仕事とはいえ嫌悪の感情を欠片も洩らさず

ベルナルドに接するあたり、店の教育が良く行き届いている。

さすがドン・カヴァッリが贔屓にするはずだ。

 壮麗で、しかしどうにも落ち着かない部屋でのメレンダを

なんとかやり過ごそうと悪戦苦闘していたベルナルドは、ふと

聞こえた声に意識を引き戻された。

「なー、爺様。さっきこの坊ちゃんの名前呼んでたけど、知り合い

なのけ?」

 皿に盛られた菓子を頬張ったまま、キラキラと目を輝かせて

少年がベルナルドを見つめる。琥珀の瞳には押さえ切れぬ好奇心で

あふれていて、けれど不思議と嫌な感じはしなかった。たぶんそこに

宿るのが学校で見慣れた蔑みの色ではなく、無邪気な興味だからだろう。

 クリスマスを待つ子供みたいな少年の態度にドン・カヴァッリは呆れたように

深くため息をついた。

「昨日アレッサンドロが話しておったじゃろう。将来有望な少年がおると」

「あ? ……ああ! 脅威の14歳、だっけか」

 思い出した、と頷く少年の双眸が何かに気づいたように大きく瞠る。

「えっ、じゃあ俺より3つも年下?」

 ウソだ見えねぇー、と目を丸くする彼と同様にベルナルドのほうも

面食らう。

 これで17? 本当に、自分よりも3歳も年上なのだろうか。

裸眼を何度も瞬かせてベルナルドは少年を凝視する。…ありえない。

せいぜい同じくらいか、へたするともっと幼く見える。そんな気持ちが

顔に出てしまったのだろうか。カヴァッリがくっと喉の奥で笑った。

「まぁ、ベルナルドのほうが大人びておるな。お前ときたらちょっと目を

離すとフラフラといろんなものに飛びついて、子犬とかわらん」

「うわっひっでー! 俺だってちゃんと年相応には見えるよなっ」

 なぁ! とぷんすかと頬を膨らませる少年に同意を求められ、

ベルナルドは曖昧に笑って言葉を濁す。彼には悪いが、全然見えない。

ベルナルドを庇って破落戸どもと渡り合っていた時は構成員らしい

雰囲気もあったけれど、いまこうして拗ねている表情は年端のいかない

子供のままで。そんな可愛らしい姿を見ていると、きゅと心をやわらかく

掴まれたような甘い疼きが胸に広がる。

 色よい返事がもらえなかったことにむくれ、薄い唇をへの字に曲げて

少年はそっぽを向く。けれどすぐ何かに気づいたように振り返って首を

傾げた。

「……あれ? その時計、止まってね?」

「えっ」

 ――まさか、そんな。

 ふわふわと浮かれていた心に突然冷や水を浴びせられてベルナルドは

弾かれたように自分の腕時計へと視線を落とす。少年の言葉通り、それは

1時間前の時刻を指し示したまま静かに沈黙していた。



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(10/06/14)