Apres un reve
がしゃん、と床に落ちた皿が派手な音をたてて割れる。けれど
それすらも聞こえていないのか呆然とした表情でルキーノが
呻いた。
「兄さん、いまなんて……」
肉厚の唇がわなわなと震え、赤い瞳が絶望に染まる。
これ以上ないほど大きく見張った双眸が信じられない、嘘だと
言ってくれと俺に訴えていた。悪い冗談だと、否定してくれと。
縋るようなその願いに胸を切り裂かれるような痛みを覚えながら
けれど俺は無情にも切り捨てた。
「志願兵になる。もう登録も済ませてきた」
胸内の動揺を悟られないよう、努めて平坦な口調できっぱりと
言いきる。常になく冷淡な俺の態度に、とうとう我慢できなくなった
弟の怒声が空気を引き裂いた。
「なんでそんな勝手なことッ!」
既に頭半分ほど俺を追い越した長身に怒りを漲らせてルキーノが
詰め寄る。押し潰すように迫る巨躯に思わず怯みそうになる心を
奮い立たせ、俺は弟をきつく睨んだ。
「今は戦争中なんだ。どの家も最低1人は兵隊に供出している。
だったら長男の俺が行くべきだろ」
激昂するルキーノをわざと素っ気なく突き放す。
1年前に始まった戦争は、当初の楽観的な世論とは対照的に泥沼の
様相をラジオで伝えていた。前線で戦う兵士の数も不足しがちで、
こんな田舎の村にさえ軍の徴兵部隊が来て新兵の募集を呼びかけて
いる。この一週間で7人の若い男たちが――俺の幼なじみも2人いた
――戦場へと送られた。
村のほとんどの家が働き手の男を兵隊にとられているのに、うちだけ
出さないなんて許されない。ただでさえ親父の女癖の悪さで年寄り
連中から白い目で見られ、俺も弟たちも肩身の狭いおもいをしている
のに。
うちで徴兵条件に合う適齢の男といえば俺だ。いくら体格がよくて
大人びていても、ルキーノはまだ15。こいつを戦場に送ることなど
できない。下の弟たちなんて幼すぎてもっと無理だ。
「必ず前線に配置されるわけじゃない。整備や衛生兵として後方
支援に回されることもあるんだ」
だからそんなに心配するな、と。宥めるように笑みを浮かべる俺の
肩をルキーノの手が荒々しく掴んだ。
「兄さんは、俺が――」
なにか言い募ろうとして、だがあまりにも激しすぎる感情の揺らぎが
弟から言葉を奪う。それが余程もどかしいのだろう。口に出来ない
思いのかわりに俺の肩にかかるルキーノの指がギリギリと、まるで
万力で締め上げているかのように皮膚に食い込む。
無言で責め立てるそれを振り払い、俺は高い位置にある弟の顔を
見上げた。
「チビたちのこと頼むな。お前は兄さんなんだから」
そっと伸ばした手で鮮やかな赤毛を撫でながら噛んで含めるように
諭す。
こう言えばルキーノは逆らえない。俺に失望され見放されることを、
この子はなによりも畏れているから。そういうふうに俺が育てたんだ。
俺なしでは生きていけないように。
「あの子たちはまだ小さい。お前だけが頼りなんだ」
憂いの滲んだ瞳でひたと異母弟を見つめたまま、切々と情に訴える。
我ながら吐き気がするほど卑怯な手だ。けれど効果は抜群で、
じわじわと追い込まれたルキーノはついに逃げ場を失い、唇を噛んで
俯く。この子がよくやる昔からの癖だ。どうやっても覆せないのだと、
自分から負けを認めたときの。
「いい子だ、ルキーノ」
屈服した弟に殊更優しい声音で囁き、そっと抱きしめる。びくり、と
逞しい肩が震えたことに気づかないふりをして、俺は暫しのあいだ
弟を抱き締めていた。
それから数日後、戦地に出征する若者のために村でささやかな
壮行会が開かれた。普段は俺たち兄弟につめたい視線を向ける
老人たちも、さすがにこの日ばかりは口数も少なく、いつもなら
容赦なく投げつけられる蔑みの言葉もなかった。
彼らのひとりひとりに俺は頭を下げ、村の婦人会の老婆たちに
残していく弟たちのことを頼む。親父があてにならない以上、誰か
様子をみてくれる大人が必要だ。しおらしく弟のことを案じる俺の
姿に彼女たちは涙を滲ませて快諾した。こういう時は父親に
まったく似ていない、母譲りの顔立ちや金髪でよかったと思う。
ほんの少し不幸そうな表情をすれば、こんな簡単に同情をかう
ことができるのだから。
翌日、俺は他の青年たちとともに駅のホームにいた。村から
一番近い――といっても列車で2日半かかるのだが――新兵の
教練所に向かうために。
「…手紙、書くから」
見送りにきたルキーノにそう告げると、弟は唇を引き結んだまま
こくりと肯く。赤く濁った瞳、いまにも溢れそうになる涙を必死に
堪える顔、そのすべてに愛しさと後ろ髪を引かれるような後悔を
覚えながら、俺はルキーノに背をむけ列車へと乗り込んだ。
一度も弟を振り返ることなく。
ほどなく発車を知らせる汽笛が鳴り響き、重い鉄の巨体が
ゆっくりと動き出す。ガタガタと揺れながら後ろへと流れていく
故郷の景色を窓越しに見つめたまま俺は胸内で呟いた。
これでいいんだ――未練を捨てきれない自分に強く言い
聞かせるように。
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