風野又三郎から風の又三郎へ「風野又三郎」はなんとも爽快な風の世界を描いたユニークな魅力たっぷりの作品です。これを読むと又三郎の世界が急に思わぬ方向に膨張したのが感じられ、歓声を上げたくなるような気がします。是非一度じっくりとお読みになって下さい。(前記参考作品紹介よりどうぞ。)
ここでこの作品と「風の又三郎」の関係についてもう少し考えてみましょう。「風野又三郎」9月1日を読んで感じるのは圧倒的な自然さです。一年生の子が泣いたのも、おかしな子の格好も言葉が通じないのもみんなが及び腰なのも、すべて当たり前のように理解されて全く引っかかる所はありません。そうして物語のトーンは一貫したまま進んで行きます。ところがこれが「風の又三郎」になると読者はなんだか不自然にまがまがしく起こる事々と、急に色合いの変わる空気によって、なんだか落ち着かないような気分にさらされることになります。
他に両者に共通する場面を見てみますと、風に関する論争の部分についても「風野・・」では周到な前提状況の上に当然のように行われたと理解される流れであるのに対し、「風の・・」ではいささか唐突に無理やり始められたシーンの感じが否めません。
最終日の風を見上げる一郎の感慨やタスカロラ海床の名も「風野・・」では何ということもなく理解できるのに対し、「風の・・」では一瞬かすかな戸惑いに似たものを覚えさせることになります。
そうです。「風野又三郎」が、絵空事であることがはっきりしているゆえの自然さを備えて読者に、与えられる、作品だとすれば、「風の又三郎」は、現実世界から離れないからこそ、読者を放っておかない、干渉する、わざと考えさせるように干渉する、作品なのです。*
「風野又三郎」の"風野又三郎"は短気で生意気で傍若無人なお天気屋です。率直に言って、やなやつだなあという印象です。
ふつう、童話に出て来る「・・の精」といえば純粋無垢の天使のような神様のような性格の存在だとされることが多いと思いませんか。そんな常識を前提に「風野又三郎」を読んでなんだか裏切られたような気持ちになった方も多いでしょう。
しかし考えてみると、上のような又三郎の性格は人間世界を無情に吹き付ける実際の風そのものに対して我々が抱くなんとも抗い難い思いをそのままに表しているではありませんか。そういう側面をきれい事で包み隠さずズバッとさらけ出させているのは、薄っぺらでない誠実な物語という印象の根拠ともなっており、また、ただ甘いだけとは違う深い味わいを備えた不思議なお菓子のような童話という評価にも大きな関わりを持っています。
さてそんな又三郎の性格は「風の又三郎」の"高田三郎"にも引き継がれています。「転校生」といえば絵に描いたような優等生、というステレオタイプからは変にずれています※1。ですから「風の又三郎」は好きだけれども三郎の性格がちょっとネ、という人もいます。
このような三郎の性格は、つまり"高田三郎"は"風野又三郎"とは別に全く新しく創り出された人物というわけではなく、外見は異なっているけれども何かしら共通のものを持っているのだということを示唆しています。しかしそのことによって、"高田三郎"の内実もやはり又三郎そのものであるということの保証が与えられているとまでは言えないでしょう。三郎の正体についてはもう少し別の観点からも考える必要があります。*
創作メモでごらんになったように、作者は新作「風の又三郎」のことを「風野又三郎」と呼んでいました。実は「風の又三郎」手書き原稿も本当は「風野又三郎」と題されていたのです。(作者没後の刊行にあたりいくつかの理由※Aから「風の・・・」と改題されました。)
とすれば、作者のつもりでは“風野又三郎”は表題名かつ主人公の名前である固有名詞であり、“風の又三郎”は風の神性を言う普通名詞である、と使い分けていたのだろうと推測できます※B。登場するのは具体的個人、子供達が思うのは伝承の風の神性、という意図ではなかったでしょうか。この構図は前身形「風野又三郎」ではっきりと示されています。主人公は「“風野又三郎”」と名のり、こどもたちは「“風の又三郎”だ。」と思います。その構図がもし「風の又三郎」まで一貫して持ち越されているのだとすれば・・・、高田三郎という名は偽名であると断言できそうですが・・・
しかし「風の又三郎」本文中には“風野又三郎”という名は一切出てきません。としたら、さて、どこまでその構図を信じるべきでしょうか。※A 前身作と紛らわしいこと。作者が前身作を改作する意図で教え子※2に筆写させたときに章題を「風の・・」とせよと命じたと伝えられること。他。
※B 既出「謎解き・風の又三郎」(天沢退二郎)が指摘している。*
ものがたりの舞台(1)の地図をごらん下さい。「風野又三郎」に登場する岩手県内の地名「岩手山、高洞山、日詰、水沢」の位置に対して「風の又三郎」の舞台と思われる地域は明らかに一定方向にシフトしています。
大正13年に書いた「風野又三郎」を昭和6年には「鉱山」、「上の野原」という新たなモチーフをからめて作り変えたわけですが、この新しい舞台となる地域については作者はすでに例えば江刺郡一帯は「風野又三郎」以前の大正6年をはじめ、くまなく歩いて、とうに馴染み深いものとなっていたはずです。しかし「風野又三郎」はそれとは特に関係なく書かれました。
そして7年後、美しい高原や清らかな谷川、素朴な村童たちの思い出は、最晩年の作者が今改めてこの地域の風土の魅力をどうしてもこの作品に固定しておきたいと思わせる、そのようなまでに魅力的なものとなって甦ってきていたのでしょう。※3*
「風野又三郎」は汎地球的規模に及ぶものがたりですから当然でしょうが、赤道直下の群島から上海、九州、富士川、東京などの「南方系」の地名及び見聞が頻出する作品です。そして又三郎自身も「東京から移って来た友だち」ぐらいに思われるとされていて“東京からの転校生”という新作への重大な示唆を宿しているように思えるのに対し、実際の新作「風の又三郎」では南方の地名は一切登場せず、三郎も北海道から来たとされています。
何となく都会的である三郎の出自が北海道に求められたというのは作者の北方志向が単純に現れたということだけではないでしょう。それが純然たる中央、大都会である東京ではなく、またみんなに一段近い準都会の仙台などでもなく、まったく方向違いの茫漠としてとらえどころのないように思える土地であったことは、子供たちの気分に一定の大きな影響を与える必然であったように思えます。
風の歌
作品のテーマソングとも言うべき「風の歌」は両作品で微妙に異なっています。今、その変遷と推敲の様子を少しく細かに辿って見てみましょう。
●「風野又三郎」では
1.9月1日冒頭
どっどどどどうど どどうど どどう、
ああまいざくろも吹きとばせ
すっぱいざくろもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう2.9月3日 又三郎の歌
ドッドド ドドウド ドドウド ドドウ、
甘いざくろも吹き飛ばせ
酸っぱいざくろも吹き飛ばせこれは東京の保久大将の家の庭のザクロの木という、実際に即して発生した歌詞です。"甘い"と"酸っぱい"は無差別に吹き付ける、無頓着な“風野又三郎”の性格を反映しています。
1.はこれが一部ひらがなに変わっていますが、ほぼそのまま作品の前奏曲として使われているものです。3.9月10日冒頭 一郎の夢
ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、
ああまいざくろも吹きとばせ、
すっぱいざくろも吹きとばせ、
ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ
ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ。これは3日の歌の記憶です。
4.9月10日 一郎の歌
ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ。
これは2.3.と同じもの。ここまではすべて同じ歌詞と見ていいでしょう。
5.9月10日 又三郎の歌
ドッドドドドウドドドウドドドウ、
楢の木の葉も引っちぎれ
とちもくるみもふきおとせ
ドッドドドドウドドドウドドドウ。一郎の歌に続いて追加するように歌っています。"楢、栃、胡桃"は大将の庭だけではなくもっと広い野山を吹くんだよと言っているようです。
●次に創作メモの段階では
どっどど、どどうど、どどうど、どう
どっ――
(1)あまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろも吹きとばせ
(2)青いりんごも吹きおとせ まっ赤いりんごも吹きおとせ
アモイ、東京、タスカロラ、上海、青森、オホーツクと、新たに"りんご"と“風野又三郎”の活躍を思わせるマクロな地理的歌詞での発展を意図しています。
●そして「風の又三郎」では
1.9月1日冒頭
どっどどどどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう作者自筆のオリジナル原稿のコピー(複写)を見ると、この部分は上記「風野又三郎」の1.を一旦筆写してそれに手を入れているのですが、まず2行目と3行目の"ざくろ"はどちらも"かりん"に書き換え、次に上の欄外へはみ出しての書き込みで2行目を"青いくるみ"に変え、3行目を一旦"赤いりんご"とし、そのあと"すっぱいかりん"に戻しています。("かりん"は実際には旧かなで"くゎりん"です。)
ザクロとリンゴという果実は何となく派手な印象をまとっているのに対し、クルミは地味で堅く、カリンも酸味と渋みでそのままでは食べられない硬い果実です。未成熟な者たちを象徴するにはよりふさわしいものです。
つまり、ここではある個別の(東京の大将の)庭の情景から発生した歌詞("ざくろ")からはっきり離れて、新たなものがたり用に"かりん"を持ち出したこと、"ああまい"をやめて"青い"にしたこと、より野性味のある"くるみ"(すでに「風野又三郎」の5.に現れていた)を採用したこと、"赤い"をやめ、"すっぱい"に戻したこと、創作メモにもあった"りんご"をやめたこと、などによる風の無頓着ではない意図的な残酷さ、野性味を強調する効果と、また、創作メモのBを却下したことによる、ものがたりの土着性を曖昧にしない効果を指摘することができるでしょう。2.9月12日冒頭 一郎の夢
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも、吹きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどうここはオリジナル原稿では新しく書き下ろしています。まず2行目をうっかり"あぁまいざ"、と書いて"ざ"を消し、"かりんも"と続け、3行目を"すっぱいかりんも"と書きました。そのあと上方への書き込みで2行目を"青いくるみも"と変え、3行目を"黄いろな"、"赤いり"、"かりんも"、"すっぱいりんご"と次々に書き換え、最後に"すっぱいかりん"として結局1.とおなじ形に収まっています。
つまりここでもやや迷いはありましたが、逆にそのことでこの形が決定稿だということを念押ししているようです。
板谷栄城「宮沢賢治の、短歌のような」(NHKブックス)では、作者の作品推敲は、多くは作品の全面的書き換えでなければ「イメージの比喩の選択の迷い」によるものだと言っています。この風の歌においても、作者が複数の候補をあれでもないこれでもないと、いかにイメージに合わせようかと腐心した挙句この最終形にたどり着いたのだということを草稿の上から良く読み取ることができます。
消えた表現「風の又三郎」推敲の過程で現われ、結局採用されずに消えたものは上記の歌の歌詞の単語ばかりではありません。非常に興味深い表現がいくつも書きかけられ、そして消えていきました。ものがたり世界の細部を想像するとき、それらは結局無駄なものだったとばかりは言えないような気がします。実際には採用されなかったことを承知した上で、それら元になった先駆作品にも新作「風の又三郎」にも顔を出すことのなかった表現のうちのいくつかを見てみることにしましょう。(「新校本宮澤賢治全集」による)
9月1日
・どうと鳴りビールいろの日光は
・黒い雪袴をつけ小さなわらじをはいた
・というわけはこの朝は学校も学校のすぐ左の先生のおうちもあんまりひっそりとして
・にらめていましたら、ありがたいことにはちょうどそのとき川上からも川下からもうしろの崖の横を下りてくる山みちからも黒い小さいみんなの影がぽ
・「あいつは外国人だな」「トルコ人だな」
・みなさんはよく高田さんにこの辺のことも教えてあげまた向うのこともお話
・悦治さんと甲治さんとリョウサクさんとですね。9月2日
・正門から先生や時々来るお客さんの出たり入ったりする玄関まで大股に歩数を数えながら
・行ってしまうとこんどはこっちを向いて眼で運動場の横の方がいま歩いた分にくらべて何倍あるか ・・ 「あゝちょうど三十歩あるから十五間
・いちばんうしろでちゃんと見ていました。そして「なんだ佐太郎悪いやつだなあ。
・ 25
−32 と書きました。・「では三郎さんこゝを読んで」と云いました。又三郎は何でもないというように立ってはっきりさっさとそこを読みました。それもいままでみんなが聞いたことのない調子でした。
・「又三郎は出来るぞ。」嘉助やみんなは顔をまっ赤にして聞いていました。子どもらもみんな又三
・みんなはいままでに唱ったのを先生のむちについて9月4日
・次の日も空はよく晴れてすゝきはざわざわ風に鳴りました。
・待ぢでるんだ。又三郎とっても正直だもな。
・「あゝ暑う、風吹げばいゝな。」「又三郎さ頼めばいいのさ。」
・そこはもう上の野原の入り口で、すゝきやおみなえしの中に
・丈ぐらいある草の中のわずかなみちとも風の痕ともつかないしのをふんで9月7日
・ところが又三郎はきものを着たまゝ岸にいてみんなの泳ぐのを見ていましたが、声をあげてわらいました。
・「わあ又三郎入らないのが。」
・「そだら又三郎泳いで見ろ。」と云いましたら、又三郎は9月12日
・戸棚からつめたいごはんと味噌を出してお湯をかけてざくざくたべると大
・今日は稲も たばこも稲もすっかりやらえる。二百廿日一日遅
・椀をこちこち洗って、それからすっかり鞄を
異彩
「風の又三郎」は作者の四大長編の一つと言われていますが、他の三編(「ポラーノの広場」「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」)と比べると明らかな異彩を放っています。幻想的な舞台、濃厚な教訓性、それに人物の横文字名などが捨てさられ、いわば飾りを排した正味の中身だけですっきりと屹立している風に見えます。
SF的な前身形「風野又三郎」から現実的な「風の又三郎」への変化がなければ、風の精、又三郎から転校生三郎への転換がなければ私達はこの異彩を見ることはできませんでした。ではなぜ作者はこのような書き換えを行わなければならなかったのでしょうか。「宮沢賢治少年小説」(続橋達雄、洋々社)はおおよそ次のようなことを言っています。
より現実的な内容への変化は、農村活動の挫折、苦しい闘病、セールスマンとしての苦闘などにより現実社会の厳しさを味わった作者の、かつては奔放であった夢想の力に抑制がかかり、現実を見る目に変化が生じたことによる。「種山ケ原」と「さいかち淵」の戦慄すべき場面が取り入れられたことは、死と向かい合った病の床で平和な日常も常に死の深淵と隣り合わせであることを悟ったから。(舞台が山奥の小さな学校であるのは、人間関係のわずらわしさを離れて静かに自然や生命と向き合える場所が欲しかったから。)私は、これらの理由には積極的に肯定的な意義が認められるべきなのだと念押しした上でこの説明に同意します。
その上で、作者には、それまで書き溜めてきたたくさんの作品に描かれたさまざまな - 作者自身の分類に従えば、花鳥童話、動物寓話、西域異聞、少年小説、村童スケッチ、イーハトーブ民譚などの - 世界をこの時期にいま一度統一しておきたいという欲求が意識的にか無意識的にか働いていたものと私は思います。つまり現に生を受けている、そしてまもなく永遠に別れを告げることになるであろうこの世の、ただあるがままの、(なんら解釈を加えない)そのままのありように対する限りない愛しさ(下記「病床」などに強く表れている)のゆえに、作者は自らの作品群世界における空想と現実の融合という儀式を執り行っておかなければならなかったのです。そしてそれにはそれまでの作風とは異なる「風の又三郎」という形式が是非とも必要だったのです。
風 た 風 た が け が け 吹 に 吹 に い ぐ い ぐ 病 て さ て さ ゐ の ゐ に 床 る 群 る と 落 と い に い ふ も ふ 疾 こ こ 中 と と で で よ あ あ り る る
"風野又三郎"は風の精です。子供たちもみんなそう思っていますし、実際にそうであることに疑問の余地はありません。空を飛ぶのも先生には姿が見えないのも現実であるという、確固たる一つの世界が描かれています。
"高田三郎"は何なのでしょう。ただの転校生であるのかどうなのか、一郎と嘉助の考えは違っています。空を飛んだのも現実なのかどうかはっきりしません。この曖昧さは最後の最後の瞬間まで貫かれています。
どんなにそれが奇妙なものであろうと、それが一つのこれこれこんなものであると描いている「風野又三郎」と、見る者によって異なって見えるのみならず、その正体を知ること自体が可能ではあり得ないのだ言わんばかりの描き方の「風の又三郎」。両者は似通った話どころではありません。大げさに言えば世界把握の原理が異なっているのです。
この世界ははたしてどう出来上がっているのか、その正体を私たちはどう知ることができるのか、できないのか。 このことについての作者の晩年の思索を反映している事実なのではないかとも思われます。
(もっとも、作者の早くからの法華経信仰表明の表現をつぶさに見れば、ここで初めてこの境地に至ったわけではなく今この地点に深く回帰して来たのだということが理解できます。)作者は死の直前、昭和8年の9月11日(!!)にかつての教え子に宛てた彼自身最後の手紙(柳原昌悦氏宛、校本全集書簡番号488)の中に自らの人生を反省した次のような言葉を遺しています。
「・・・空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、・・・」
「・・・漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、・・・」
「・・・といふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。・・・」
「・・・上のそらでなしに、しっかり落ちついて、・・・生きていきませう。・・・」
いずれも自らの慢心を批判し後輩を指導する言葉なのですが、作者最晩年の創作態度の変化の源を示唆しているようにも見えます。「風野又三郎」では一郎は最終日又三郎の去って行く最後を見送りました。しかし「風の又三郎」では一郎と嘉助は三郎との別れに間に合いませんでした。そして謎を前にして立ち尽くしてしまいました。漠然と死期を予想していた作者は「銀河鉄道の夜」にもしばしば現れている、何かに遅れてしまう惧れと焦りのモチーフを昇華してこの場面に集約し、自らの到達点の一総括として示しておこうとしたのではないでしょうか。不幸にも死の予感は的中しましたが、このような作者の周到な対応があったと考えると私は「感謝」とだけでは言い切れない深いものを感じます。
作者の言葉の通り作品は実は永遠に未完成であるとしておいて良いはずのものであるのかもしれません。しかしこの作品は作者の死の直前の、覚悟された「遺志」として評価しなければならないと、私は考えるものです。ひとことで言えば「風の又三郎」は世界に対する賛美の歌、自然という神への最後の信仰表明であったのです。
日付の問題
ものがたりの舞台(2)で述べたように、「風の又三郎」は昭和7年のものがたりと理解することができます。構想を行った時期は昭和6年ですが、曜日設定は作品発表予定である翌年に合わせた、または都合よく翌年の曜日を利用できた、と理解してよいのではないでしょうか。
しかしまた、あるいは三郎が去って行く二百二十日(9月11日)を日曜とする構想がまずあって、それが作者の与かり知らぬところで偶然にも発表予定年のカレンダーに合致しただけと考えるべきなのでしょうか。いえいえ、きっと作者はカレンダーとにらめっこしながら翌年の曜日を慎重に調べたに違いありません。「風野又三郎」では、日付と曜日を完成の年、大正13(1924)年のカレンダーにきちんと合わせていますし、「種山ケ原の夜」では、舞台の設定を農学校での実際の上演の翌月の1924年9月2日であると明記しています。これらの例から見ても作者はものがたりの設定の日付とリアルタイムの関係について敏感であったと考えるべきでしょう。
三郎は二百二十日の日曜日に退去させたい。一方一郎が朝起きて三郎の去る気配を感じる「風野又三郎」のシーンはもう放棄することが不可能なまでに圧倒的である。また、ものがたりを終えるためには一郎と嘉助は先生からいきさつを聞かされる必要もある――。
こうして作者は三郎が去るのは二百二十日(日曜日)、子供たちが別れを知るのは翌日(月曜日)と、あえて二つの日時を分離してまでも昭和7年のリアルタイムのものがたりを作り上げたのです。
さて、もし作者がカレンダーにこだわっていなかったら、あるいは昭和7年のカレンダーが実際とは異なっていたら・・・。つまり9月11日が日曜日であると考える必要がなかったら・・・、子供たちが二百十日に三郎に出会い、二百二十日に別れるという一番自然な基本的枠組みがそのまま採用されたかもしれません。もしそうなら、最終日は9月11日ということになり、登校した一郎と嘉助に先生はこう言うでしょう。「又三郎って高田さんですか。えゝ、高田さんは今朝早くお父さんといっしょにもう外(ホカ)へ行きました。まだ薄暗いうちだったのでみなさんにご挨拶するひまがなかったのです。」・・・*
「風の又三郎」の9月1日(二百十日)から12日(二百二十日の翌日の月曜日)までという時期の設定は必然でした。ところが組み込まれることになった先駆作品はもともとそのためにぴったり合うように書かれているわけではありませんでしたから、そこで二種類の言わば時期的なやりくりが行われたことになります。
まず「種山ケ原」由来の9月4日の上の野原で逃げたのは元の牛から馬に変更されたわけですが、この日にまだ上の野原に放牧馬が残っていることは「種山ケ原」冒頭の記述※4から見ても「種山ケ原の夜」の設定日及び内容から見てもやや無理があるように思われます。しかし4日と11日を日曜とする設定の上では子供たちが上の野原へ行くのは4日しかありませんでした。つまりそうして、馬たちには気の毒でしたが、彼らは作者によって少なくともぎりぎり9月の4日まで(気候のリスクを冒して)高原に留め置かれることになってしまったのです。でも馬たちは(健気にも?)牛では得られない種類の緊迫感をかもす役目をちゃんと果たしてくれました。
また、「さいかち淵」に描かれた8月13、14の二日間の天候はまさに8月中旬にふさわしいものですが、これを九月に持って来るためにはことさらに異常な暑さのぶり返しであったという説明を加えることが必要になりました。しかしどうでしょう、そのことは却ってものがたりの意志にぴったりと沿って、あっという間のめまぐるしい季節の移ろいと子供たちの思いの移り変わりをくっきりと描き出したではありませんか。
※1 登場人物
※2 映画「風の又三郎」
※3 ものがたりの舞台(1)周辺の村々、作品の成り立ち病床
※4 ものがたりの舞台(1)ものがたりの舞台(1)
次は 「風の又三郎」の謎
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