6.グルミの村のヒンヅウ寺院にベルをプレゼント
2008年9月7日、息子のラムとNewRoadの金物店へ行き大きなベルを買い求めた。4年前ラムの父の生地、Butwalから遠く離れた村へ行つた。彼らの村の近くに新しく建てられた寺院があった。そこで私たちはその寺院を訪れた。その時、寺の門にベルがないのに気が付いた。そこで私は近い将来ベルをプレゼントすることを約束した。私はこの約束を思いだしNewRoadの金物店へベルを求めに行つた。そしてそのベルを五日後khaireniへ運びRamの父にお見せした。このベルの重さは11.57kgそして音色はとても美しく響いた。 写真は仕事を求めてインドへ行つたRamの父です。そこで父は大いに金を稼ぎ、その地にヒンドゥー寺院を建てた。それは村人たち達によって大切に守られていた。 7、2016年10月5〜15日インドへの旅 第一日 ラムの車に7人乗るのは無理だった。そこで私はハイエースバスで行くと言った。孫のビザールのスクーターの後ろに乗つてバス乗り場まで送ってくれと頼んだ。南部行のバスが何台も並んでいた。ビザールが私に代わつてカイレニ行のキツプを買い私をカイレニ行のバスまで連れていつてくれた。発車するまで窓の外に立ち「それでは気を付けてと」いつた。 八時間後に私はカイレニへ着いた。がラムの車はまだついていなかつた。私が夕食を終えた時、彼は私のパさソコンを車から出しButwalへ行った。彼は今夜はマヤの父の実家に泊まるとのこと。 第二日 私がカイレニに八時間後、朝6時に着いた時まだラムの車はついていなかつた。大勢の子供たちが学習しをしていた。彼らはマヘンドラ先生の生徒達であつた。今日からテストが始まるというので勉強に来ていたのです。先生が現れないので彼らはおしやべりしていた。私は彼らを叱つた。「おしやべりせんで黙って学習せい」 彼らの中で一人だけ黙々と学習している子がいた。先生が来ると立つて質問した。私はこの子はきつと大人物になるに違いないと思つた。 2時間後、彼らは朝飯を食べに家に帰っていつた。彼らの学校はマヘンドラ先生の家からとても近いのである。私も行つてみたけど。 58p. ラムがマヤの家の家来から電話してきた。3時に迎えに来ると。私はラムの父の家の前の大きなスーパーマーケットへクマールさんに会いに行つた。次に、私は小公園に行つた。この公園はMayadeviを記念して建てられたものである。彼女は仏陀の母親である。カイレニの隣り村に彼女が葬られている小さな寺である。そこも私は祈るため訪ずれたことがある。 60p. 3時半、大きなワゴン車が到着した。ラムの兄のラザンが言つた。私を含め四人だと。次に私たちはBUTWALへ行つた。マヤの父の家で六人乗つた。計16名。インドの入口の町SNORIで私だけビザ申請に行き、その間にラムとラザンは別のワゴン車を探しに行った。インドとネパールは姉妹国なのでヴイザもパスポートも不要なのです。私だけヴイザを取りに事務所へ行つた。 その間にラムとラザンは別なワゴン車を探しに行つた。鉄道駅のSNORIへ行くための。そこからGorakpur行きの列車に乗るのである。ネパールから来たワゴン車は新たなキヤクを見つけるとButwalへ帰って行った。Gorakpur駅で我々はワゴン車を降り24時まで待つた。我々は寝台車で35時間の旅がスタートした。冷房が効きすぎて寒くて眠れなかったので何度も暑いデツキへ行つてタバコを吸った。 62p. 第三日目 (ホテル滞在1日目) 空はよく晴れていた。朝が来たのだ。私ははつきりと景色を見ることができた。山がない! 至る所森と田園ばかりだ。我々の列車が三時間走つている間山並みしか見えなかった。それは小さな丘のように見えた。物売りが来て叫んだ。「箱弁当、チア、飲料水! 午後三時に我々の列車は着いた。我々は茹だる日差しの下降りたつた。ラムとラザンが15kmはなれたBokajanのホテルまで行くワゴン車を探しに行つた。我々はホテルに着くと直ちにシヤワーを浴びた。ダイニングルームで遅いランチをとつているとラムが言つた。「僕が勉強した小学校があるぞ!」この偶然に皆驚いた。 64.p 4日目(ホテル滞在二日目) 私達は翌日遅い朝飯をとつた後、皆で学校を見に行つた。子供たちは彼らの父が学んだ古い教室にとりわけ関心があるようだつた。「あの部屋で勉強したの?」朽ち果てた校しやをじつと見ている時のラムの目は遠い昔を思い出してるようだった。 65p. 5日目(ホテル滞在三日目) 私達は二台の車に分乗した。今回の旅の目的は23年前ラムの父が建てたヒンヅウ寺院を訪れ祈りを捧げることであつた。父は自分の寺を見たかつたのだ。 私たちは寺に着いた。寺は大丈夫だつた。村人たちが毎朝清掃して礼拝しているのです。 長男は昔からの家と田畑を受け継ぐのが定めだつた。そして他の兄弟は仕事を求めて働きに出るのが定め。彼らの父はインドへ働きに行き、金を沢山稼ぎ、その地に寺を建てた。ラムの父は次々と古い友人を訪れ昔の話をして懐かしんだ。彼はどこでも歓迎された。三人の息子たち、 Rajan, Ram, Kunalたちは昔の友人たちに抱擁されしやべりにしやべつた。(p.66〜69) 私はホテルでは彼らの父と同じ部屋だった。私は自分のベツトから彼を見た。父は13年前に亡くなつた妻を思い出し心の中で泣いていたに違いない。そしてお前の息子たちと孫達を見てくれ。皆立派になつたぞ。 69p. 6日目(ホテル滞在4日目) _昨夜は夏祭りの前夜だった。街は深夜まで賑わっていた。私は日記を書くため街に出てノートとボールペンを買つた。 今日はFreedayである。Ramの家族とKunal、父はは昔の友人たちの家に行つた。サスケは部屋でゲームをし,私は日記をつけた。 70p. 7日目(ホテル滞在5日目) 我々は7時半にホテルを出た。そして彼らの父が23年前に建てた寺を見に行つた。寺の隣には彼らの母がやつていた小さな茶店があつた。我々は昼までそこの村を歩いた。夜までは時間がたつぷりあつたので私は新田次郎の「富士山頂に立つ」を読んだ。ジヤスト6時、村人たちが集まり寺の中でダンスが始まった。それは11時まで続いた。私はとても疲れた。我々はホテルに帰り24時に寝た。 71p. 8日目(ホテル滞在6日目) 我々全員16名は彼らの父の友人の家に招かれた。 9日目(寝台列車7日目) 14時に我々はナガレン駅を行つた。16時に列車到着。それから35時間の旅が始まった。私だけが他の車輌だつた。冷房が効きすぎてデツキに行つては煙草をすって本を読んだ。子どもらが心配そうに会いに来てくれた。朝が来てまた夜が来た。真夜中にGorakpur駅に到着した。待合室を借りきつて朝まで寝た。 9日と10日 我々はSNORI駅までバスで行き私だけがimigrationで入国手続きをして後で合流した。我々は無事に家に着いた。 [THE END] 8.Budhaの生誕地訪問 我々は2017年の10月17日、ルンビニのBudhaの生誕地を訪れた。 9.両国民は互いに学ばなければならない事がある。 日本人は彼らの美しい習慣を学ばねばならない。彼らの両親、兄、姉の誕生日には跪いてその足にキツスするのです。彼らは何歳であろうと親の前では酒もタバコもしません。日本にはそのように美しい習慣がありません。子どもらは親と一諸に酒を飲み、時には酔っ払って互いに取り組み合いなんていうことも。 いつぽう、ネパール人は日本人の良い習慣を学ばねばならない。ネパールの人たちは何でも川に捨てる習慣がある。だからカトマンズの川はとても汚い。夏になると悪臭が川から立ち昇る。カトマンズでは魚は生きいけない。カトマンズから離れた川は綺麗で澄んでいるので魚は生きていけます。昨年の春ヌアコットを訪れた時、私は泳ぎました。我々日本人は決して川に物を捨てない。それともう一つ良い習慣は玄関で履物を揃えることである。子供たちにスリッパや靴、サンダルを揃える事を教えるのは親の義務である。ところがネパールではそのような習慣がないのか 脱ぎ捨てている。それをきちんと揃えるのは私の仕事だった。 10、懸命に学習する学校はこのような学校である。 長野日大高校は日本全国の公立大学に入るベスト高校として知られています。そして長野県で最も清潔な学校として知られています。訪れる人たちは、この学校は病院のようだと云います。床は輝いている!次のピクチャーをご覧ください。生徒たちは使った雑巾を洗い干します。ネパールの私立学校では掃除婦がいて学生は掃除しないのです。ネパールは選民意識に毒された国と言っては言い過ぎでしようか。壱万札の顔でもあった福沢諭吉は言うてます。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を作らず」と。新一万円札が渋沢栄一になって寂しい気がしないでもない。それはそれでよいのでしようが。福沢諭吉は下っぱの武士の子だったので友達に馬鹿にされた。それで自分は武士としてよりも学問で身を立てようと考え懸命に学問に励んだ。それは慶応年間であった。それが今日の慶応大学である。 80p. 11ー1、ネパール人のすばらしい助け合い。 泥にはまつたアンベランスを大勢で路上に引き上げていた。 11ー2、悲しいレスキュー作戦 ミルク運搬車が大型ダンプとぶつかり運搬車の若者は死んでいた。2台のトラックが死んだ若者の死体を引き出そうとして試みたがダメだつた。間もなく大型シヤベルカーが到着し運転席を持ち上げ死んだ若者を引き出した。その時まで多くの若者たちが彼を引き出そうとしたが虚しかつた。引き出したしゅんかん見ていた全員がバンザーイ、バンザーイと叫んだ。全ての場面を目撃していた私は思いがけず涙がこぼれた。 [The End] 12.khaireni町での第1回EMスクール(2018.4.3) この国の政府は遂にEMの素晴らしさを認めた。地方自治体に許可を与えた。そこでカイレニ町の事務所は我々の会しやからEM活生液の瓶を100本購入してくれた。そして100人の与えることにした。彼らは学校を開いてEMとは何かそしてその使い方を無料で教えて欲しいと言うて来た。初め我々は100人入る学校を探した。我々はDevdaha大学の大きな講義室のを借りることに決めた。当日我々は9時に講義室に行きじゆんびした。11時に多くの農夫が集まり始めた。12時きつかり宣誓の火がともされた。市役所の主だった人達が次々と祝事を述べた。わがカンパニーのDeepok Gimireが講演した。彼はスライド機を用いて丁寧にはつきりと説明した。多くの農夫たちが彼の説明を聞いた。次は私の番です。私はem活生液を飲んでもしこれが農薬ならどうなりますか。皆さんは全員天国です。でもこれはemです。だから私は死にません。私は皆様にお勧めしませんが私は毎朝ワンカップ飲んでいます。今私は81サイですがとても元気です。決して風邪を引きません。私にとってこれは一番安い健康の薬です。皆さんは牛や水牛をかつておられるでしょう。もし彼らに餌を与える時EM活性液を500倍に薄めたえきをあたえれば。私はスピーチが終わるや否や多くの受講者が次々に欲しいと言うた。4時にem活生液の瓶を受けとつた。proofs of attendanceは満足しているようだった。我々は受講者たちが三々五々帰って行くのを見送りほっとした。 13. Nuacotでの第二回EM講座(2018.5e.11) 大変多くの農夫の方々がEMとその使い方について学びたいと言うてきた。そこで我々はその村の事務所を訪問し議長に計画を伝え村の小学校へ行き100人の農夫の方々が入れる場所を貸して欲しいと伝えた。翌日学校のホールへ行き言うにその日は多くの場所で結婚式があるとのこと。しかしホールはそれほど広くなかったので50人でちようどよかった。14時に講演が始まった。講演者のDeepok Gimireはスライドを使いながらEM説明会をるりについて話した。彼の講義は大変良かった。私の番が来た。私は農夫たちの前に立ちEM活生液を飲んで見せた。そして彼らに言った。これは私にとって薬です。多くの農夫たちが次々と飲んだ。もう一つの村では200人以上りの農夫がEMについての説明会を開いて欲しいと言うてきた。次回講習会は今月の末に開かれるでしょう。その時は私は日本にいるでしょう。我が家EMOA社のメンバーたちが言うた。なれの不在中は僕らがやるから。三番目の講習会はカイレニの隣リ町スノールで九月に開かれるであろう。その時は講習会に参加出来るであろう。 [THE END] 2024/09/30(Mon) 11:51:36 [ No.10147 ] |