パド吉殿
こういう案件は一つ返事で引き受けられるものではないし、第一、今の自分には時間がない。57歳といえば、まだ本職の分野で忙しいわけだから。そのうえ、やたらと日常の夾雑物も多く、人がPCやスマホの奴隷と化した昨今、譜面を読むのに大事な俺の乱視もとみに病んでいる。 時間がないといえば、2027年のベートーヴェン没後200年に全ピアノソナタを弾く企画があって、そういう準備は何にもまして周到に行われないといけない。永遠に壮健に恵まれてピアノが弾けるなんて保証はどこにもないのだから。 決してできないと言ってるわけじゃない。もし俺が70を過ぎて正常に生きていたら、その時はいろいろ音楽以外のこともできるかと思うので、どうかそれまで待ってほしい。 バッハやシューベルトのような稀代の大作曲でも、生前出版が叶わなかった作品が死後何十年もしてようやく日の目を見るなんてことはざらだから。文豪でも同様。価値のあるものなら、遅すぎるなんてことはない。ほんとうに「真価」があれば。 なんでもそうだと思うけど、物を印刷するって、それこそ準備周到にすべき。 例の英語の本だけど、あの文章って一目瞭然、校正ゼロだから。考えれば考えるほどに、もったいない。ふんだんに使われている写真もいいし、本文の趣旨はよく伝わる。それだけに、あれだけ大小さまざまなミスが頻発していることは遺憾。 俺も英語のほかに、スイスに四つある公用語のうちドイツ語とフランス語くらいは書けるけど、もしどこかに発表される文章であれば、必ずその言葉を母国語とする誰か (もちろん文才のある数人に限る) にチェックをいれてもらう。自分でよほど自信があっても、そんなのはひとり合点であって、細かい間違いや、ネイティブの人にとっては不自然な言い回しとか、文法上のあやまり、知識面の誤謬は多々あるもので、そこはね、やっぱり大切にすべき。そもそも、自分でチェックするなんて、そんなの校正のうちに入らないから。 俺の友人に岩波書店から本を出してる人とか、イギリスの中世文学の権威、ロシア人小説家から翻訳家まで、文筆で生きてる方々が結構いて、まあそれでいろいろ話を聞く機会がある。 プロが本を書く場合、編集者という存在が大きい。ただ自分が書いて、それがそのまま出版されるということはない。それはどんなに偉い小説家が書いても同じ。その本がどんな仕上がりになるかは、編集者の腕にかかっている。要は、書き手の独りよがりな文章や内容にならないようにということ。さらに、厳密な校閲の重要性がある。ぱらぱらっとめくって、プリントミスも含め一つでも間違いが目についたら、もうそれで本の価値が半減以下になるという「覚悟」で、本は作られるらしい。 たしかに、楽譜だってそうでしょう。どんな立派な老舗の出版社が出してる楽譜でも、ごくまれにミスプリントはある。だけど、多発はしていない。そんなね、間違い探しが売りの楽譜なんて誰も求めたくない。文字として刻まれる言葉が言霊であるように、作曲家が書き残した音符にも魂が宿る。 当然、自費出版に編集者も校閲もないのは分かります。それにしたって、少なくとも数回の校正が行われないと残念な結果になる。 はっきり言えることは、たとえそれが母国語の作業であっても、ましてや何かを原稿にするとかは俺の分野じゃない。専業のほかに手薄く何でもやるという生き方は肌にあわない。そもそも鍵盤ハーモニカを辞めたのもそういうことだから。日曜大工みたいに適当に何でもやれるなんて、そんな妄想は打ち砕かれた。年を取るって、自分のやれる一つのことをフォーカスしていくことに他ならない。俺はつくづくそう思います。 上にもふれたように、もし充分な時間さえあれば、それなりのことができる可能性はあるかもしれない。だけど、今はより大切な、今しかできないことがあるから、今回の件は丁重に辞退するしかないのです。 長々とあしからず。どうかこの偽りなき真意を汲んでください。 拝 2024/10/16(Wed) 18:53:06 [ No.10156 ]
変なことをお願いして申し訳なかった。貴君の言われることよく分かりました。この件は別にして来年春帰国するのを心待ちにしています。自分の事は自分でやる!!今やにして覚悟ができました。これだけの資料を載せてくれた貴君に感謝です。
2024/10/17(Thu) 19:30:05 [ No.10157 ] |