ここに写真を載せられなくて残念だが、硫黄島の擂鉢山に星条旗が掲げられる瞬間を描いた3セントの記念切手がアメリカでなんと1億5千万枚売れたという。それくらい硫黄島での死闘は激しかったのだ。この書のあとがきに、硫黄島の戦闘は兵団長以下高級将校たちの戦死あるいは自決ですべて終わりとなったわけではなかった。3月26日の時点でまだ1万からの兵力、多くは負傷者だが生存していた。総延長18キロメートルに及んだ地下壕と連絡路は、もし栗林忠道中将の構想どうりに完成を見ていたら、より一層強固な守備戦闘が展開できたであろう。そうした不完全な状態だったにも拘らず、アメリカ軍に与えた損害は戦死者6821、負傷者は実に2万1865に達した合計した2万8686という数字は、日本軍の損害総数をはるかに上回った。この事実にアメリカ側の最高指揮官、ホーランド・スミス中将は、栗林の卓越した指揮ぶりを最大の原因に挙げた。もし栗林にあと半年か1年の時間と十分な建設資材を与えていたら、戦いの途中でアメリカ軍の最高指揮官の更迭、という事態を招いたとすら考えられるのである。私たちの世代は小学生の頃から、信用できない数字を「大本営発表」と揶揄する。この硫黄島攻防戦についても、その大本営が誇大発表というだけでなく戦争指導での面でも大きな欠陥を有していたことが、はっきりと窺い知れるのだ。兵器が他の軍事先進国より遅れていたにも拘らず、それを放置し多数の将兵を戦死させたのである。その元狂は陸軍幼年学校から陸軍士官学校、そして陸軍大学校をすべてトップで卒業した、頭の硬い秀才たちだつた。彼らは旧弊を墨守し、技術革新に目を閉じ、二言目には「大和魂」を呪文のごとく唱えて、国家を滅亡に導いたのであった。
2006年後半に入って、硫黄島をテーマとするクリント・イーストウッド監督の作品を小生も長野の映画館で見て感動した一人である。 さて最後の突撃の場面である。敵軍から分捕ったM1カービンを手に西部落南方の敵野営地にと迫る。「発見されるまで先にぶっぱさぬこと。それでは諸君の健闘を祈る。静かに戦い静かに死んで靖国神社で会おうではないか」 およそ4000の陸海軍の生き残りが、有刺鉄線を切断して一人また一人と、敵の野営地に入り込む。幕舎に突入した者は、銃剣で一人ずつ口から喉に突いて殺して行く。多くのアメリカ軍将兵が夢の途中か寝ぼけた状態で殺された。 栗林もまた敵陣に突入すべく、身を起こして有刺鉄線の方へ進んだ。この時至近に迫撃砲弾が落下し、その破片が彼の右大腿深く命中した。どう考えてももはや行動は不可能であった。「諸君らの足手まといになる。中野さんやってくれ」そう栗林は自分の傷口を示しなが、信頼する歩兵戦闘の神様に止めを依頼して言った。中野は少し躊躇したものの、兵団長の言葉どうりと知ると迷うことなく軍刀で首を落とす。こうしておけば胴体と離れているため、首実検しても判り難いためである。戦闘はまだ続き突入部隊はかなり進んでいたが、降ってくる砲弾が迫撃砲だけでなく、機関砲まで加わり始めた。もはや全く勝てる公算はなかった。「ここまでだね、中根さん」と参謀長の高橋大佐が声をかける。「そうですね、大佐」「では、ご一緒に」二人は皇居の方角である北を向いて、ゆっくり正座すると14年式拳銃で頭を一発、見事に自決して果てた。彼らは自分たちに白羽の矢を立ててくれた、栗林の近くで死ねて満足だと最後まで思っていた。そして戦闘には勝っていたのだと、考えながら引鉄を落としたのであった。 2025/01/14(Tue) 07:28:12 [ No.10193 ] |