ジョージ・エヴェレストは1790年に、ウェールズの中部にあるポウィスで生まれました。ジョージは陸軍士官学校で学び、数学が得意で、特に測量で使う三角法の勉強に優れていたそうです。このジョージが、その後エベレストの存在に大きな影響を及ぼすのです。
ジョージは士官学校を卒業すると、1818年にイギリスの植民地であったインドへ向かいい、イギリス東インド会社のインド測量局で働くことになりました。インド測量局では、三角法を用いたインドの測量を始め、ジョージは主任助手に任命されたのでした。 その任務の中で、ジョージ・エベレストは能力を発揮しました。計器をより使えるように多くの改良や変更を加えたり、故障しても本国に送り返すことなく自分の手で直したりしていました。 インドの南岸からヒマラヤ山麓までの三角測量は、とても負荷の高い仕事でした。簡単な計器や経緯儀(水平および垂直を測定する計測器)を用いた原始的な方法で、25年もの長期間を要するものでした。 ジョージ・エベレストや仲間たちは、砂漠やジャングルの中を何マイルも歩いて測量を何年も続けました。険しい地形は測量を困難にし、厳しい気候もジョージたちの動きを大きく妨げました。 とうとう、ジョージが病気になってしまい測量を中断せざるを得ないこともありました。しかし、ジョージは強い決意と意志をもって回復し、測量に戻りました。 ジョージ・エベレストは、1830年には測量局の長官に、1833年には測量局の部長も兼務するようになるなど、測量の前線で活躍しました。ジョージは測量を終えて、1843年に長官の職を公認のアンドリュー・スコット・ウォーに譲り、退任しました。 ウォー長官の時は、ヒマラヤ山脈の計測が行われ、そこで注目された山が「ピーク15」と呼ばれていた山でした。1852年に行われた測量で世界最高峰であることが発見され(8840m)、当時世界最高峰と認められていたカンチュンジュンガの8582mよりも高いと報告され、1856年に世界最高峰に認定されたのです。 1865年にジョージ・エベレスト卿の功績がたたたえられ、彼の名前にちなんだ「エベレスト」という名前が付けられたのです。 しかし、ジョージ・エベレストは、現地の名前「デヴァドゥンガ」などを尊重したいという考えをもっており、自分の名前が使われることを快く思っていなかったそうです。 また、ジョージ・エベレストは、測量は遠くで行われていたため、まじかでエベレストを見たこともなかったらしいです。 出典: hhttps://www.rekishiwales.com/entry/everest#google_vignette 2025/04/23(Wed) 08:58:06 [ No.10272 ] |