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◆ わが青春の思い出と切なる願い 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
わが出生の地は東京市千駄ヶ谷、明治神宮の近くであった。戦争酣のそれも敗色濃い昭和19年、小諸町に疎開し小中高時代を過ごした。確か中学を終えた頃、町から市へ昇格したと記憶している。青春の真っ只中で、その頃は父母も健在で私達は男だけの四人兄弟でよく兄弟喧嘩をしたものでした。
一昨年、卒業した第三国民学校、後の野岸小学校を訪れたが昔の木造校舎の面影はなかった。あまりにも立派になり過ぎていて。中学校は今は郊外に移転し、跡地には市民会館が立っている。駅前通りの相生町の駅直ぐ近くには小高い丘があって鹿島神社があった。後に丘が削り取られ鹿島町という名前だけが残った。鹿島神社は小諸城址懐古園の裏手の谷を越えた先に移転され現在に至っている。何時だったかNHKのテレビ番組で、難攻不落の城は熊本城と小諸城である。正面三の門は低い所にありながら城の背面は難攻不落の絶壁になっているというのである。成程そのとうりだ。小諸城の天守閣のあった石垣の上には公孫樹の大木が。下に馬場があって、戦後何年かは草競馬が行われ、娯楽のない時代だったから大勢の見物人で賑わったものである。
恵比寿講ともなれば近在の村から買い出しに来る人々で我が家の前の荒町通りは大変な賑わいだった。賑わいと言えば毎年七月に行われる祇園祭である。子供神輿は一週間前から夕方から夜にかけて担ぐことが許されていた。小諸は13区まであって、中には与良町のように上下(かみしも)2台の神輿を持つ区もあった。何しろ血気盛んな子どもらは喧嘩がしたくてしょうがない。相生町と国道の四つ角には三台も四台も神輿が集まって来て練るから、いつぶつかって喧嘩になるか見ていてはらはら。若い大人衆が汗みどろになって喧嘩にならぬよう押えるのである。ところで喧嘩とはどうやってするのか。前っ歯の担ぎ柱で互いの神輿の軒下を突いて衝撃を与えるのである。というわけで前歯の担ぎ柱の長い方が有利である。従って前歯は出来るだけ背の高い者が、後歯は低い者が担ぐというわけである。
さて、150貫の大人神輿も壮大である。女が担げるような代物ではなく、担ぎ手は重いから「いよっよっ」と気合いを入れて担ぐわけだが遠くで聞いていると「よいよい、よいよい」と言ってるように聞こえる。子供たちは実際そう言いながら担いでいた。
ある年、祭りの当日だったが見物人でごったがえす本町通りで露店商の男が、大人の神輿が触ったというて「馬鹿野郎!」と怒鳴った。神輿は一旦は通り過ぎたが、ひと休みして戻ってきてくだんの露天商の商品を並べた筵の上を神輿を担ぐ若者達が土足で踏んづけて滅茶苦茶にしてしまった。痛快というべきか。いづれにしても浅草辺りの「わっしょい、わっしよい」言うて担いでるあの軽っぽい神輿とは大違い。あれなら女でも担げる。
さて、私の道が開けたのは狭い小諸から県都長野市に越して超して来たことによる。明治学院大学の英文科を終え日体大附属の荏原高校に二年奉職した後、どうせなら出身地に戻ろうと思い現在の長野日大の全身長野中央高校に職を得たことによる。今でこそ県下でも有数の進学校であるが、当時は不良校の代表であった。
思いは尽きない。今でも夢に見るのは当時の事。目が覚めててああ夢で良かったと何度胸をなで下ろした事か。当時私は暴力ならぬ棒力教師で竹刀の折れた棒でどれだけ生徒の背中をひっぱたいたものか。今なら即、教育委員会に訴えられ馘である。時たま開かれた同窓会に招かれ出席したら、昔私に背中を叩かれた者達もいて皆ニコニコ。ある者は仲間に「お前近頃ぶったるんでる。ガンさんに背中をひっぱたいて貰え」私の当時からのあだ名はガン鉄。楽しい一夜でした。
さて、これからが本題であります。私は小諸を訪れる度に小諸市住民の考え方の古さを痛感してます。これまでの慣習に囚われて新しい事を起こそうとしない。良い例が、小海線を走っていた蒸気機関車が今は駐車場の片隅にひっそりと眠っております。それを見た時私は直ぐ思いました。とりあえず小諸駅と中込駅の構内に機関車の転車台を復活させ週一回とか月一回とか曜日を決めて客車を引いた蒸気機関車を走らをせることです。そうすれば全国から鉄道マニアがカメラをぶら下げて集まります。家族連れで列車に乗りたいという人達もいるでしょう。客足を受け入れた中込の商店街も潤うでしょう。
当時の市長が新幹線は要らんと言った為に佐久に持って行かれましたが、佐久市の新幹線駅周辺の発展振りには目を見張ります。新しいビルが次々と建てられ、土地も値上がりしたと地主達は大喜びしているとか。翻って小諸市駅周辺はどうでしょうか。昔のままです。皆さん何を考えているのかと問いたいです。島崎藤村が小諸義塾で教鞭を取っておられた当時の家が何と佐久市に移転されているとは。進取の気性という点でも佐久市の人達の方が上でしょう。話変わって隣接する須坂市にも中野市にも合併せず、独自の方針を貫いた小布施町、栗と葛飾北斎と花の町として広く全国に知られ、春から秋にかけて観光客が押し寄せ広い駐車場には観光バスが何台も止まっております。又各家の庭が開放され観光に訪れた人達は嬉々として見て回るのを楽しみにしています。毎年訪れるリピーターも多いとのこと。私も何度か訪れ実感してます。翻って小諸にも見学しようと思えば見学するにふさわしい場所は幾らでもあります。昔の武家屋敷から、素晴らしい松の樹。(正確な寺院の名前を失念)、私も見学した荒町の小山家の庭園。これらを開放すればなあと思いました。先だって与良町の高濱虚子記念館を訪れましたが観光客はゼロ。町を歩いても人の姿がありません。小諸市でもこれを改善しようと自由に好きな場所で乗り降り出来る車を走らせている写真を見ました。
山吹味噌で有名な酢久商店に停車し買い物とその素敵な庭園散策を楽しんで貰う。
私の夢は寛永三年落雷によって焼失した小諸城天守閣の再建と蒸気機関車の走行であります。序いでながら松代にもお城があったのですが、明治維新の時、重税に喘いできた松代住民がこんな城なんか要らんと言って天守閣を引き倒し燃やしてしまったのです。今になって残念がっております。あの時命を張ってでもそれを防ぐ人がおったらなあと。ですから私が小諸城天守閣の再建を希望する人々の会の名簿を持って歩くと多くの人達が本当に気持ち良く署名して下さいます。これが三冊貯まったら小諸市長さんの所へ持って行こうと思っておりますが、何分にも現在88歳、友人の中には亡くなった人もおり今年も秋の紅葉見がてら行きた考え考えておりますが行けるかどうか。拙い文をお読みくださり厚く御礼申し上げます。

2025/07/14(Mon) 11:22:35 [ No.10295 ]

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