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めったにあり得ない偶然の例えである。この世のことや自分の人生のあれこれに思いをはせてみると「偶然」に左右されたことは意外に多いようだ、どころではない。(中略)微々たる私の人生上の偶然などはどうでもいいが、大きく見れば戦争など、偶然に左右されて、あるいは驚くべき、あるいは戦慄すべき明暗を分ける結果となることがある。
例をあげれば、古いところで桶狭間の戦いである。永禄3年5月19日2000の織田勢は、2万5000人の今川軍の本陣に突入した。時に午後頃である。殆ど時を同じうして、猛烈な雷雨が一帯を襲い、ために今川方は織田軍の接近に気づかず、混乱の中に大将義元は討たれた。 この日、この時刻、もし雷雨がなければ、おそらくこの奇襲は成功しなかったろう。当然、逆に兵数十分の一以下の信長の方が討たれ、従って秀吉の登場する機会はなく、全ての歴史が全く別なものになったであろう。すなわちこの一陣の雷雨は日本の歴史を完全に左右したのである。 近くは太平洋戦争だ。太平洋戦争の原因はいろいろあるけれど、その遠因は、日露戦争に勝ったことにある、と私は考えている。勝った結果として日本が満州に進出したということもあるが、それより大敵のロシアに勝った、という事実そのものが昭和の軍人を神がかり的な冒険に踏み切らせたのである。 当時のロシアは、後年の最盛期のソ連に劣らぬ世界の大国であった。それと戦って日本は奇跡的な勝利を得たのだが、戦争は冬を越している。極寒の満州で、もともと寒さに強く防寒具の用意もあるロシア軍に対して、よくまあ当時の日本軍がまともに戦えたものだ。私は首をひねっていたが、その後知ったところによると、なんとあの明治三十七年から三十八年へかけての冬に限って、満州は稀有な暖冬だったというのである。そのため靴にさえ馴れない日本兵は裸足になって馳駆した、とい記録がある。これが例年通りの寒さであったら、常にロシアに味方するいわゆる「冬将軍」のため、日本の兵隊は凍結して、戦争はどうなったか分からない。 さて、その太平洋戦争だが、その中で明暗を分けた例でたんせいをもたらさざるを得ないのは、例の原爆投下地だ。昭和20年8月6日、原爆を搭載してマリアナ基地を飛び立ったアメリカ空軍のエノラ・ゲイが目標としていたのは、広島だけではなかった。そのほかに小倉と長崎があった。そしてその三地点の気象状態を知るために、その前にそれぞれの地点へ偵察機が飛ばされていた。そしてエノラ・ゲイが四国に近づいたとき、小倉からも長崎からも攻撃可能の報告がもたらされた。が広島への偵察機もまた、漠々と立ち込めた密雲の中に広島の上空だけがぽっかりと穴をあけているのを見つけて、第一、、目標OKの報告を送ってきた。エノラ・ゲイは広島へ直進した。かくて広島の悲劇は現実のものとなったのである。が、この時もし広島上空が一面の雲に閉ざされていたら原爆機は第二目標の小倉に向かたに相違ない。広島上空の雲の穴が、小倉市民何万人かを命拾いさせたのである。いや、それどころではない。ついで8月9日の朝、原爆機第二陣の第一目標は小倉で、第二目標は長崎であった。がこの日北九州一帯は厚い雲に覆われて、攻撃機はニ時間以上も、小倉と長崎へかけて上空をぐるぐる旋回していたのである。然るに11時10分、突如長崎の雲が切れた。その刹那ナガサキの運命は決した。同時に第一目標の小倉はまたしても死神から逃れたのであった。 偶然が運命の明暗を分けた戦火をの例に天象の如何を上げたのは、お天気ばかりは現代でも気象庁があてにならないほど、偶然としか思えない現象だからである。そうそう、そう言えばその最も如実な例があった。例の神風である。 人も知るように蒙古襲来は、文永、弘安の二度に渡ったが、前者は文永11年10月20日の夜、後者は弘安4年閏7月1日の夜の台風によって、蒙古の艦隊は壊滅した。これを今の暦でいうと、それぞれ1274年11月26日、1281年8月23日である。後者はともかく前者の11月26日というのは、普通なら台風の来るべき季節ではない。それが、その文久の役に際し偶然来たのである。だから神風と呼ばれたのだが、この史実がまた太平洋戦争において日本には天佑神助があるという狂信の種の一つになり、いわゆる神風特攻隊の出現を見たのだから、この台風の影響は蒙古襲来のときのみならず、6〜700年後にも及んだのである。 2025/10/13(Mon) 08:49:59 [ No.10320 ] |