「出発!」王隊長の右腕がさっと上がる。
2004年9月6日、午前7時。気温22度。気圧1027。快晴。
中日友好(瀋陽〜北京)と白で染め抜かれた真紅のお揃いの運動着に身を包んだ「日中友好銀輪部隊」の一行13名が、瀋陽市鉄西区瀋陽工業大学正門から、ゆっくりと北京まで750キロを目指して動きを開始した。
王隊長の荷台には、これも真紅の布地に黄色で「中日友好」と染め抜かれた旗(80センチ×40センチ)が掲げられている。
私達の自転車は現地調達で台湾製「捷安特」26吋、3段変則。461元。
いわゆる「ママチャリ」。婦人乗りだが、年寄りにも乗りやすい。
先の運動着が、文字の染め抜きまで入れて、約40元。
ヘルメット28元。
自転車の荷台に積む振り分けの鞄が、誂えで約20元。
携帯電話は、中国だけしか使えず勿体ないが、安全の為皆さんに中古を買って貰う。これが一番高くて、約700元。
支度に要した費用をもう一度整理すると
携帯電話 700元
自転車 461元
運動着 40元
ヘルメット 28元
鞄 20元
小旗等 10元
計 1259元(日本円約1万8千円)
運動着から、鞄、ヘルメット、小旗と全て赤尽くめなのは、安全を考え目立つ色にした。途中で別行動になったときも、お互い探し易い。
次に13名のメンバーを簡単に紹介させて頂く。隊列の順番である。
王隊長 66才 遼寧省老年健身自転車隊の隊長。
続いて婦人部隊。
劉さん 64才 北京、山東省と自転車旅行の経験がある。
奚さん 63才 瀋陽市皇姑区の自転車隊長。
周さん 61才 腰が悪いFさんの介護役を務めてくれた。
張さん 61才 歌姫役。歌が上手い。
続いて日本人のお爺ちゃん。
Tさん 60才 帯広市。市役所を今年定年で退職された。
Fさん 60才 大阪市。不動産業。自転車は経験豊富。
Kさん 65才 宇和島市。元朝日新聞記者。今は定年で退職された。
私 山崎 70才 松山市。元NTT。13年前定年退職。
続いて中国人男子。
李さん 77才 元大学教授離休幹部。今回最初にこの企画に賛同してくれた。
趙さん 75才 元遼寧省老年健身自転車隊の隊長。
張さん 57才 歌姫さんの弟。自転車の修理担当。
徐さん 65才 撫順の自転車隊長。脚力抜群。殿役を務めてくれる。
年齢は全て、数え年である。還暦、古稀、最高は喜寿と揃っている。
市内から、102号国道に沿って郊外に出るのだが、丁度出勤のラッシュアワーで、自転車の洪水だった。前夜の壮行会で、「郷に入らば郷に従う」ことを誓った私は、早速それを実行する。中国流で信号無視。
中国の道路は青だからと言って安全な訳ではない。信号無視の車が突っ込んでくることがある。赤でも車の流れによっては、どんどん無視して前へ行く。まさに皆で渡れば怖くない。流れを壊してなまじ律儀に赤で止まると、却って後ろからぶつけられる。
私の自転車に付けたスピードメータによると、瞬間最大速度26キロと出た。平均で約18キロ出ている。私は日本では、巡航速度13キロだから、これは軽四に例えたら110キロに相当する猛スピード。初日の朝だからいいが、これから750キロの長丁場を目指すスピードではない。早速王隊長に申し出て、スピードを落として貰った。
8時、第一回の休憩。
運動着は、厚手の綿テトロン混紡で暑いので、着替える。
民家の横の空き地で休憩しているときだった。近所の人達が珍しそうに集まってくる。日中友好の旗指物を見て、一人の70半ば年配の男性が私に「日本人か?」と尋ねる。
そうだと答えると、なんと昔覚えた歌だと言って、「海行かば」を歌い始めた。私とKさんが合唱する。
歌詞を訳してくれと言うから、「戦死者を弔う歌で、戦死を怖れない意味がある」と返事したら、「意味は始めて知った」と頷いていた。当時は、ラジオで大本営発表の玉砕の報道が流れると、その後にこのメロディーが哀調を帯びて流れた。
最後は「さようなら」と奇麗な日本語で、別れの挨拶をしてくれた。日中友好、出だしは好調である。
遼河を越え、3時頃最初の宿泊地遼中に入る。ここは、日露戦争奉天大会戦の激戦地、遼陽からも50キロ位の距離でそれ程遠くない。
初日の行程は70キロ。
宿探しも順調で、教育局の招待所が9元で泊まれることになった。三人又は四人で一部屋。心配した便所も共同だが、扉もついている。
夜は、Hさんが残してくれたお金で宴会をする。実は日本人はこの四人の他に大阪のHさんが居たのだが、急用が出来て出発間際に帰国した。Hさんは、装備も全て整え壮行会にも参加して、ご婦人方にも人気があっただけに残念だったが、急用では仕方がない。
Fさんが、前日自転車を持ち上げたとき腰を痛めて、大事をとり、マッサージに行く。
私とKさんが付き合う。
初日はこれくらいでは物足りないが、先は長い。 |