2004年9月7日。遼中〜盤錦 70キロ。晴れ。
昨夜少し雨が降った。大陸性気候は雨が降ると冷え込みが厳しい。この辺は、冬の最低温度が、マイナス約30度。夏の最高は30度をかなり越える。年間の寒暖の差が激しいということは、一日の寒暖の差も激しいということである。
Kさんの寒暖計によると、14度だった。昨日の22度に比べると涼しいのを通り越して寒い。
Fさんが半ズボンでいたら、李さんが「冷えるから長ズボンを穿きなさい」とやかましい。ここは、Fさんも現地の年寄りの忠告に従った。
6時半出発。朝食は途中で食べる。
中国の朝食は、文句無く安くて美味い。日によって多少の違いはあるが
お粥 一椀約2角 (1角は日本円で約1円50銭、一元は約15円)
豆腐脳 柔らかい豆腐の汁。 一椀約3角
油条 小麦粉をねって油で揚げたもの。 一個3角〜5角
饅頭 小麦粉を発酵させて蒸したもの。 一個約2角
麺類 ラーメンのような物。 一椀約1元〜2元
花巻 饅頭とよく似ているが、油が少し入っている。 一個約2角
包子 いわゆる豚饅 一個約2角
合子 卵を小麦粉で包んだもの。 一個約5角
茶卵 茶で茹でた卵。 結構高くて、 一個5角
鹹菜 漬物類。 一皿約2角
前日の宴会の残りの餃子なども持ち帰り、朝食べる。以上を取り合わせて食べて、2元〜3元で十分出来上がる。
Fさんは少し痔の調子が悪く、腹下しを警戒して食が細い。身長1メートル80、体重80キロを越える巨体の割りに、全然食べない。中国人の、特にご婦人方が「もっと食べろ」とやかましい。そこでFさんやむを得ず、自分の前の包子や饅頭をそっとKさんの皿の上に移している。
Kさん、「食べても食べても減らないな?」と不思議そうな顔をして食べている。
私がお粥のお代わりをすると、空いたお椀を自分の前に置いて、さも自分が食べたようにすましている。
Fさんは、シルクロード、チチハル、マレーシア、ベトナムと自転車で走破した猛者。今回は少し腰を痛めて元気が無いが、吉本興業顔負けの駄洒落を連発する。
狗肉の看板を見て
Fさん「アメリカ人も犬は食べますよ」
私 「???」
Fさん「ホットドッグ」
てな具合である。
昼食は、何故か、お粥や豆腐脳が姿を消す。代わって白米のご飯が主流。餃子も登場する。値段はやはり一食3元前後。
この辺の名物ということで、今日は河蟹を食べた。養殖池が道沿いにあるのを5箇所ほど見た。
中国人は、特にご婦人方はよく食べる。餃子は量り売りだが、一斤(500グラム、個数にして大きいもの約30個)位は一人でぺろり。
半辺天(天の半分を支える人。毛沢東が婦人を称えた言葉)のパワーが、現代中国の発展を担っているのだ。
昼食の時、徐さんと張さんの姿が見えない。どうも別室で昼酒をやっているのだ。私も誘われたが、きつい口調で断る。安全と統制上思わしくないと、李さんも機嫌が悪い。
これが不協和音のきっかけになり後に嵐を呼ぶとは、そのときは思いもよらなかった。
休憩のとき、土地の可愛い女の子二人が、一緒に記念撮影をしたいという。勿論異存なし。日本人の爺ちゃん四人が、十分に鼻の下を伸ばして一緒に写った。
王隊長の「ケールでよ!」の掛け声で、全員が出発する。
「ケールでよ!」は「帰るぞ!」の意味。転じてここでは出発の意味。
悲しいかな、テレビの普及は一方で低俗な抗日ドラマをはびこらせた。
「バカヤロ」
「ミシミシ」 めしめしから転じて食事
「スーラスーラ」 死んだから転じて、腹切り。
「ケールでよ!」は日本の軍人が一仕事を終えて帰るとき、将校が指揮刀を抜いて「帰るぞ!」と言うその描写から生まれた。
その他にも、「トツゲキ」など、日本人も忘れた日本語がこの世界では生きている。
王隊長は、軍歴8年。現役時代は通信兵だったそうで、奇しくも私と同じトンツー屋だった。
李さんは、今回の最年長者で77才。旧満州で日本の教育を受けている。終戦時は、最初に東北に進駐した蒋介石の国民党に入る。続いて来た共産党軍に投降。解放軍の兵士になる。腕にそのときの貫通銃創の傷を持つ。その後体育関係の学校で軍事教官。革命に直接参加した者だけが持つ特権、離休幹部である。離休幹部とは、退職後も現役と同じ待遇を得る。
李さんを始め、私達13名は戦中戦後の混乱を共に生きてきた同世代である。その共感が、今回の友好の底流を作っている。
自転車旅行は、気温は低めの方が有り難い。風も追い風。
Kさんの高度計は海抜400メートルを示している。
ここから海まで約400キロメートル。平均勾配は1000分の一。ほぼ平坦と言ってよい。遼河流域は「天気晴朗」。自転車旅行には理想的な条件である。
女性部隊が、コーラスを奏で始めた。
宿も盤山県政府招待所が、8元でとれた。
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