天下第一関

関所破りの三悪人 私 Fさん 李老師

          

   2004年9月12日。綏中~山海関。64キロ。晴れ。
 山海関を越えると、河北省である。私達の旅もここで半分を少し超える。

 今回の行動計画は、22日の昼北京で打ち上げの宴会。22日の夜行列車に乗る。これだけは絶対に守って欲しい。他は全て任せると伝えてある。

 打ち上げ会には中国棋院の院長、王汝南さんにご出席をお願いしてあるのだが、非常に多忙な方で、この日のこの時間しか空いていない。

 24日はFさんが瀋陽から帰国する。

 25日、26日は、私は中国人の友人の結婚式に出席する。25日は仲人の大役を仰せつかっているので、準備を含めると一日も余裕がない。

 だから王隊長は、山海関までは観光を削ってでも、早めに着くように予定している。それにより、第二段階の計画を立てる。ここまでは天候にも恵まれ順調である。山海関、北戴河でゆっくり観光しても、なお北京で観光の余裕がありそうだ。

 

 山海関が長城の終点になったのは六世紀半ば。山海関の名前の由来になる山海衛が置かれたのは十四世紀と言うから、中国の歴史の中では意外に浅い。万里の長城と言えば秦の始皇帝の名が浮かぶが、その時代はここに関所は無い。

 それ以後幾多の王朝の存亡があったが、その全ての王朝の軍隊がなんらかの形でこの関をくぐっているはずだ。

 有名なところでは、1644年清のドルゴンがここから侵入した。そのときの明の守将が呉三桂。李自成の反乱により明が滅亡したのを知り、清に降って一緒に李自成を破る。

満州族を含め、北方の痩せた厳しい自然条件の土地で暮らす民にとって、黄河流域の豊かな沃土と文明は、羨望そのものだっただろう。武力でそれを得ようとする脅威の前に、この長城は必要だった。

日本は周囲海に囲まれ、自然の長城を持っていて、その点は幸せだった。しかし中国を理解しようとするとき、この国が歴史上常に民族間相互の緊張に晒されていた一面を見ないと、なにも語れない。

 4000年と言われる中国の歴史の中で、正史に残っているだけでも、1500回以上の内戦内乱を繰り返している

 

 宿に着く前に、孟姜女廟を見学する。孟姜女は秦の時代山東省の人。長城の使役に従事していた夫が人柱にされる。冬の寒さに布団を届けようと訪れて、それを知った孟姜女が三日三晩泣き明かすと、長城が崩れて夫の亡骸が出てきたという伝説に基づいて作られた廟。秦の始皇帝が彼女を面接しようとしたら、海に身を投じ岩になったというその岩も近くにある。貞女の鑑として、また封建時代の農民の苦労を偲ぶよすがとして、新中国の名所になっている。

 

 最近少し不思議に思うことがある。

万里の長城は一体なにだったのだろうか。

 本当に国防に機能したのだろうか。

 これを作った人は、本当にこれで国を守れると信じたのだろうか。

 

 灌漑、治水、築城は当時の公共事業だったはずだ。陵墓の建設も見方によれば、公共事業として、その費用は庶民への還元と見れないこともない。

 しかし皮肉なことに、最初に万里の長城を作った秦の始皇帝を倒したのは、築城に従事した孟姜女の夫のような農民である。

 後にこれを引き継ぎ、現在の長城を大成した明を倒したのも、李自成率いる農民である。

 そのどさくさにまぎれて立てた清朝を倒したのも、毛沢東が率いた農民である。

 山海関は、呉三桂の寝返りであっけなく開城した。まさに「人は石垣、人は城」。長城は、結局人に勝てなかった。

 「歴史は、常に今の矛盾を解消する方向に流れる」

 仮にこの定義を認めて頂けるなら、中国の歴史を動かしてきたのは一つの矛盾、それは農民が食えるか食えないかに懸かっている。

 「民以食為天」(民は食を以って天と為す)。民は食わして呉れる者に力を与え、それが出来ない者を革命で倒した。

 新中国を作ったのがこの矛盾なら、新中国の体制を揺さぶっているのも、この矛盾である。13億の八割を占める農民。彼らは食えているのか。

改革開放は、沿海部を豊かにした。しかし深?も上海も、計画経済という「見える手」によって作られた、人為的な繁栄である。遼寧省の大連も、葫蘆島も、表面の建設ラッシュを見る限り、繁栄は急である。

 

 沿線にレンガ作りの農家に混じり、タイル張りの近代化した建物が見える。張さんが「不錯」(素晴らしい)と自慢げに指差す。

 私はこの人達が、私達が中国の貧しさに過度の好奇心と蔑みを抱くことに、不安を持っていることに気付いている。

 私は、この人達に遠慮して中国の貧しさをありのままに書かないのではない。真の貧しさを知らないのである。私達が通っている農村は、貧しいといっても都市郊外である。大多数の極貧層はその外側にいる。

 今回私達は基本的に宿泊食事を含め一日20元(300円)以下の生活をしている。これを貧しいと見るかどうか。

 瀋陽は沿岸発展部と違い、経済は厳しい。多くの人が月収600元位で暮らしている。リストラで職を追われた人は、月300元で暮らしている。

 それから比べると、今回の旅行費用は決して安くない。

 

 今多くの中国人は食えている。有史以来戦乱の中で餓死者が絶えなかったこの広い中国で、曲りなりにも餓死者はいないのは凄いことなのだ。

 貧困 年収2000元以下の生活困窮層。

 温飽 なんとか食べれる層。

 小康 中流、目標は日本。当面は韓国台湾のレベル。

 富裕

 中国政府が、貧困を脱却したと宣言して、8年くらいになろうか。実態はまだ、2000万人近く居ることは、中国政府も認めている。

 ともあれ、私達は優雅に天下第一関を越えた。

 かつて日本の軍隊も通ったであろうこの関門を、私達は日中友好の旗と共に通った。