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愛犬ドリーの写真ギャラリーです。
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皆様のご理解,ご協力を得て、今年も無事に学会での発表を終えることができました。 3.11の大震災の影響で,当初の予定と日程が大きく変わりました。8月終わりに大阪で日本産科婦人科学会、その週末に仙台で日本乳癌学会。 そして、今日、10月22日、岡山で日本乳癌検診学会がありました。僕の発表は,2003年から始めた、妊娠初期乳房検診について、です。一貫してこの テーマで発表してきました。 今回は拝見した例数が3512例となり、まとめの発表をしました。 産婦人科医としては、女性の身体全部を拝見する、という姿勢を崩さないことを一番に考えています。昨今のがん検診状況から、 乳癌検診は産婦人科ではなく、乳腺外科で、ということを「正しいこと」として言っている人もいますが、先の僕の姿勢だ けでなく、スクリーニングということを考える必要があります。 産婦人科医は乳癌に関してはスクリーナーであるというスタンスは大事だと思います。 検診で疑いのあるもの,あるいは病変の発見をし、確定診断と治療を専門に行うのが乳腺外科医の仕事です。 乳腺外科医がスクリーニングまで引き受けるには,その人 数からして不可能です。スクリーニングという立場と確定診断から治療という立場をきちんと区別することは大事です。 これからも赤川クリニックに来てくれる皆さんを、その訴えが風邪であっても、「他に何か困っていること,悩みに思っていることはないですか?」 の言葉をもって拝 見していくつもりです。妊婦の皆さんには、妊娠初期に子宮頸癌,卵巣、そして乳房のチェックを受けて頂き、全てのスタートにしてもらえれば、 と考えています。ま た、僕の産婦人科医としての乳腺疾患にたいする仕事をみて、我が助産師さんたちも、 乳癌をもその視野にいれた皆さんのおっぱいとの関わりを意識し始めてくれました。授乳のトラブルの解決も日常の中では大切なことです。しかし、その同じ乳 房に 癌ができるという事実を意識できるかどうかは、医療従事者としての深さにかかわることです。 赤川クリニックで今働いてくれている助産師さんたちは、ここに来てくれる皆さんのことを、これからもずっと拝見し続けたいと思っている人たちです。 皆さんにとっても心強いパートナーになる人たちだと思います。 学会発表は自分の仕事の確認でもあります。また、仲間にも是非問題意識を共有してもらいたい、というアッピールでもあります。 これからも、年に1,2回は出かけさせて頂くかもしれません。その時には、どうかご理解下さいますように。 2011.10.22.
赤川 元 |
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2011年3月11日の大震災のあと、僕らの生活は基本的に大きく変化したはずです。敗戦後経済 復興にひた走った60年間に作り上げて来た「日本」という「形」が砂の上の城のように崩れたのですから。僕は今年で55歳になります。戦後10年して生ま れて来たのですが、僕の記憶には戦争の生々しいものはありません。荻窪には、駅前にバラック建ての市場があり、その中を探検するように走り回っていた記憶 はあります。活気があって、店頭に並ぶ魚や野菜、乾物、コロッケ、お菓子、何でも揃っているように思えたものです。それらが所狭しとギュッと肩を並べてい るのです。裸電球が目映いばかりの光で照らしていました。同時にくっきりと影を作って、そのコントラストが何かワクワクするものを僕に、あるいはそこにい る全ての人に与えていたように思います。店の脇にある外に通じる通路は闇で、手探りで戸を押し開けるとパアーッと陽の光が目に差し込んで来る。市場の裏手 にトラックや荷物、その間を忙しく働く人々の姿がありました。荻窪駅前から陸橋を登って、そのまま青梅街道をまっすぐに新宿までチンチン電車(路面電車) が走っていました。新宿のミラノ座という映画館に「狼王ロボ」を観に行ったのを思い出しました。帰りのチンチン電車の中で、その映画の余韻にどっぷり浸 かっていた僕は、車窓から見える夕陽の中に「ロボ」の姿を見出していました。今でもその時の心の状態を覚えています。何だか不思議な感じです。昔は良かっ た,と言うだけではありません。今の生活は確かに便利になったし、衛生的になりました。でも、原発事故の惨状を目の当たりにして、自分たちの求めていた生 活の「豊かさ」とは、本当にこう言うことだったのか、と考えさせられ、答えは、直ぐに「違うだろうな」と出て来るのです。科学技術の進歩。それにより国民 の受ける恩恵。その関係は素晴らしいと言うに尽きるのでしょう。しかし、原子力は、人が日常生活に持ち込むには、もし事故が起きたら、あるいは通常の運転 の中でも、その使用を止めようとしても、簡単にはいかない。人が原発による発電を始めたのと同じように簡単に止めようと思っても、そうはいかない。事故等 が起きれば、まさに今の危機的な状況に陥り、かつ、何もすることができない。事故を収束できる技術など持ち合わせていなかった。こんなモンスターのような エネルギー源を国の主要エネルギーとして良い訳がありません。電気が必要なんだろ、という様なものの言い方はせずに、自分たちの手で制御可能な、つまり、 安全を自分たちで確保できるシステムの中で得られるエネルギーを用いてできる社会活動,生活をイメージすることが重要なのだと思いました。 それではどうしたら良いのか。 僕は、原子力発電に頼らない生活を選びたいと考えます。原発を受け入れた土地が交付金などで金銭的に潤う、という構造があるようですが、これ はどうなのでしょうか。福島原発事故による被害を見て、原発を誘致した地域の苦しみを目の当たりにし,周辺地域の苦しみも見ています。この事故が引き起こ している放射能被害はこの狭い日本中に建てられている原発施設と周辺地域でも起こりえるものです。そして地震列島です。 この国の今の政治家は、「原発の安全性が確認されたので、、。」と原発を抱える地元に乗り込む。そこの長たる者が「国が安全だと言ってくれた から、原発稼働の再開を認める、、、。」安全の根拠も示さず、どのように考えても、示すこと等できないでしょうに、めちゃくちゃだと思います。通商産業省 の大臣も最悪の使者だと思うし、原発ありき、でしか発想,展開できない官僚も大問題。まず、原発を停止した状態で考えることが必要です。何故この状況で再 開するのか,頭の中が全く判りません。この期に及んで「経済が、、。」と言う表現を使っていることに対する違和感を拭うことができません。 これからの人生をまだまだ喜び楽しむ資格のある子どもたちを優先順位一番に考えるべきです。年老いた政治家が、それでも自分の今の生活を第一に据えるのは 見苦しい。僕自身も含めて、年寄りが若者の命を奪ってはいけない。 少なくとも、日本の原子力発電は制御できないと言う理由で使用しない、これは当たり前の結論だと思います。 2011年7月5日現在。この国は、何も経験しなかったかの様な顔つきで、原子力再稼働を始めてしまうのだろうか。この震災、この原発事故。 まだ何も復興に向けて動き出せていない状況を見ていないのか。この誰もが遭遇したくなかった経験から何も読み取れていないのか。経験を活かす、という基本 的な人の能力が欠落しているのか。 何とかしなくてはいけません。 原発に頼らない社会を作り上げなくてはいけないと思います。 悩みながら、それでも、この国を守ってくれる赤ちゃんの誕生を手伝っています。この子たちのためにも、日本をだめにしてはいけないのです。 2011.7.5.
赤川 元 |
今年は夏休みを取りました。今の診療、お産の状況からすると、ドキドキが限界に達 するぎりぎりのところの、6日間でした。夏休みを取るのか取らないのか。一体いつな ら家族全員で行動できるか。もうそろそろ、家族全員というのは無理なんじゃないか、 というのが妻の意見です。娘は大学に入って学生生活を満喫し、旅行も友達と言った 方が楽しい時期にきているし、息子は陸上部の合宿と後1年少しになった受験勉強がさ すがに気になり始めている。じいさんや、ばあさんや、で、夫婦だけで行動する日も 近くはない、というのです。子どもたちを見ていると、確かに大きくなったなあ、と 思います。ちょっと前まで保育園に通い、ランドセルの方が大きかったのに。親は歳 をとる訳です。 9月で僕は53歳になってしまいました。夫婦で100歳を超えてしまう。何かの割引の対 象になってしまったのです。数年前からJRに関しては、50歳過ぎた割引を使う事がで きたのですが、いつも忘れて使った事ありません。悔しくて使わないのではなく、忘 れているだけです。でも、もしかすると、その割引を使ったとたんに「ご隠居さん」 になってしまうような気もしないではありません。働けるうちは一生懸命働き、家族 のためは勿論ですが、社会の中で何かできることをしたい、という欲求は持ち続けて います。こういうタイプが、ある日、もう君は仕事しなくても良いんだよ、なんて言 われると、ガクッときてしまうのでしょうね。注意が必要です。 さて、夏休み。 追伸
2009.11.5.
赤川 元 |
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2009
年11月 日本乳癌検診学会
午後8時30分の羽田発、札幌行きの飛行機。 その日の朝からのお産が遅々として進まず、これが開業産婦人科医の生活なんだな、 と思っていました。学会での発表は翌日の午前10過ぎですから、朝一番の飛行機で駆 けつけることもできるか、などとも考えました。お産は比較的難しい状況に入り、本 当に一生懸命頑張ってもらいました。そして、元気な産声を聞くことができ、更に、 計画通りの時刻に荻窪駅で電車に乗り込むことができました。お産の途中で代診の先 生にタッチ交代して診療所を離れる、というのは、凄く辛い、それで良いのか、とずっ と自分に問いたださなくちゃいけなくなる様な状況です。幸い、どうしても、の用事 があり、代わりの先生をお願いしているときに、途中で抜けたことはないと記憶して います。会議や、勉強会などの最中に、出血です!破水です!陣発です!コールで飛んで 帰ったことはあります。自ずと行動半径が限られます。吉祥寺のヨドバ。本当は井の 頭公園の動物園が良いのですが、奧まで入ると、駅までもそれなりの時間がかかりま す。新宿の本屋さんや、昔からのデパート。JRと地下鉄のおかげで結構すぐに戻れま す。これから先も、ヨドバや伊勢丹には出かけます。 さて、札幌。 到着したのが午後10時半くらい。電車で札幌駅へ。驚く程大きな駅舎で、駅舎と言う より、ビルでした。外に出ると曇り空に月。ああ、札幌。歩いてホテルへ。着いた ら11時過ぎ。シャワーを浴びて、翌日の発表練習。何と発表時間は4分。終わる訳がな い。どんなに早口でやってみても5分30秒を切ることなど不可能に思われました。後は、 座長の人柄にすがるのみです。2時くらいで限界に達し、寝ました。6時に起きるはず が、6時半。慌ててシャワー。朝食。秋の北海道グルメブッフェ朝食券付きであったの で、一体何が食べられるか楽しみにしていきました。野菜を山盛りにして、ドレッシ ング。僕は幼い頃からマヨネーズが好きで、本当は、マヨネーズがあればそれが一番 なのですが、最近、シンプルなマヨネーズなど見かけません。一番近そうなのがサウ ザンドアイランド。ハムとソーセージをとって、ジャガイモ。パン。ママレード。 そして、コーヒー。学会で泊まりにいった朝は、こんな感じが好きです。一人でね。 大学に居る時等は皆でわいわい行動して、団体様、みたいな感じだったのでしょうね。 今は、共同演者は乳癌の恩師、土橋先生はいらっしゃるものの、お会いするのは開場 で。荻窪を出て、飛行機に乗って、電車で乗り継ぎ、誰と話をすることもなく一晩を 過ごし、朝食を済ませ、身支度をして、チェックアウト。泊まったホテルでの発表で したから、ちょっと楽でした。登録を済ませ、パソコンを設定して、開場で他の演題 を聴きながら、自分の時間を待つのです。 流石に発表は上手になりました。53歳ですからね。特に今の演題は、2000年からずっ と蓄積してきたものです。自信を持って発表できます。そして、今年の反応は素晴ら しかった。特に座長の先生のご配慮で、妊婦さんの乳房チェック関連の演題を集めて くれ、かつ、バラバラ単独の発表に終わらせず、ミニシンポジウムのような進め方を して下さり、思う存分発言することもできました。すごく楽しく、気持よい発表がで きました。来年はどうかな、また発表できるかな。福岡です。その前に来年の6月には 再びこの札幌で、乳癌学会。 また、出かけても良いでしょうか。 発表後、直ぐに荻窪に戻らなくてはいけないのですが、飛行機は何故か午後5時20分を 予約。少し、遊びましょう。普段は絶対にやることができないこと。 映画館に行く。丁度、「沈まぬ太陽」が掛かっていたので、これしかない、と思いチ ケット売り場へ。上映時間4時間!!飛行機が出てしまう。諦めた。もう思い当たること がない。雨が降っている。傘はない。地下道を歩き始めた時、柱のポスターに目が留 りました。ルオー展。これでもか、というような、ルオーのキリスト受難シリーズを 初めて観たのが25年くらい前。その時の開場の殆どすべてが頭の中に蘇りました。も う一回観ておこう。地下鉄を乗り継ぎ、道立近代美術館へ。広い道と、広い空。11月 にしては暖かい雨。人通りのない大通りを歩いて、大きな木が見下ろす敷地の角に到 着。草の臭いがしました。 ルオーは相変わらずルオーそのものでした。そう、これだった。この人の本質的な悲 しさ、苦しさ、愚かさ、従順さ、、、人を表している、そのものだと改めて思いまし た。 さて、帰ります。 飛行場までの快速電車は、さあ眠りなさい、と言わんばかりの暖かさ。 空港でお土産を探して、息子にいくらの醤油漬けを見つけました。 あっという間に東京、荻窪でした。 皆の協力と理解のもと、学会に行かせていもらっています。数少ない頭の整理の時間 と考えています。それにはちょっとドタバタしていますが。 写真は発表が終わって、良かったね、という昼ご飯の時間。何とか市場というところ の食堂でシマホッケ定食を食べた後の笑顔です。僕の隣が土橋先生です。
2009.11.15
赤川 元 |
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2008
年夏休み
今年の夏休みは13、14、15日の実質2と1/3日。いかに有効に休むか、あるいは今やっておきたいことをやるか、 だったのです。家族一丸となって、という状況ではなく、それぞれがそれぞれの夏を過ごすということなのですが、 いつも一緒に居たいパートナーの妻は(本人は結構うっとうしく思うものだ,と言うのが世間の考えですが)、 入院の人がいれば必ず必要になるご飯の支度をしなくてはならず、ご飯の手伝いの人も同時期に夏休みをとっているため、 完全に独りで賄わなくてはならない状況に追い込まれていました。そんな中、僕だけが好き勝手な行動をとると言うことは 決して許されることではありません。誰が何と言おうとも、悪いことをしている、という意識が働きます。 実は、当初2泊使ってサーフィンレッスンを受けようと思っていました。1ヶ月前くらいの雰囲気はそれでOKだったのですが、 先に書いた様な事情になりだんだん怪しく、これはまずいなあ、ということに。 何でサーフィンなのか、ということは一言では言えないのですが、ましてやかつて「波乗りは赤川に任せておけ!」 なんて言われたことは一度もない。まったくの初心者です。どうしてそんなあなたが。 誰もがそう思い、首を傾げ、最悪、その背後には女がいるのでは、とまで言われました。そう言うことではないのです。 色々な曲がり角をくねくねと来て9月で52歳。生きて行くというのはこう言うことかも知れない、
となんとなく自分なりに判ってきた様な頃です。自分の身体の老化や故障。肩の手術もしました。
友達や身近な人たちの死や重篤な病。今まで感じることができなかった書物の中や先人たちの言葉の意味。
そういうものも手掛かりになってきたのでしょうね、やっと、です。こうやって生きてきて、
このように生き続けて良いんだな、もう少しこうしても大丈夫かも知れないな、そして、
きっとこういう風に人生が終わるのだろうな。終わりに関しては何となく、といったイメージくらいですけれど。
まだ52歳ですからね。ですから勿論、自分と言う存在が自分一人の自我だけでなりたっているなんて思ってもいません。 現実の生活の中でも家族を中心に色々な人との関わりがあって初めて形作られている自分を意識するのです。
そんな中にあって、休んでごらん、すこし気分転換でもしてきたら、と言われても、何をして良いのか判らない。
毎日の仕事は確かに眠れない日が続くと辛いと思うし、外来が恐ろしく混んでしまう日が続けばやはり大変だあ、
と思うこともある。でも、嫌である訳でないので、起こされれば起きます。外来の時間がくれば始めます。
そして来てくれた人一人一人がここに来て何か一歩でも半歩でも前に進めた気がしてくれたら良い、と、
それがここで仕事をしている自分の存在理由だと思っています。気分転換と言われても、転換しなくてはいけない、>
と思っていない毎日だったのです。進行形のお産のない日曜日には、タイミングが合えばカメラを持って公園へ出かけたり
(年に1、2回)、本屋へ行ったり(何だか代わり映えしない雑誌なんかをすぐ買って積み重ねることになる)、CD屋を覗いたり
(何十年も前の、高校生時代のものが新たにCDになっていたりして、買うのだけれど、その当時の音は聞こえてこないし、
ずっと心の中で響き続けてきたものが逆に色褪せて行ってしまうこともあり、難しい買い物の一つです。
最近は外来で流す曲を選ぶのが主な目的ですが、皆がどんな曲でリラックスできるかは判りませんね。
結局、自分好みになる訳です)、そんな感じです。映画はクリニックから呼ばれたら判らないと困るし、コンサートも同じ、お芝居も同じ。
携帯で呼んでもらえれば良いじゃない、と思うかもしれませんが、なかなかそうはいかないし、落ち着きません。
で、いまのような毎日になったのです。
今はそういう仕事をしているのだから、と、諦めと言ったら何だかnegativeに感じる。そう言う仕事を誰かがするものだ、
その一人であろうとしている、というとpositiveですね。ただ、家族、特に妻を巻き込んでいるというのが一番の問題で辛いところです。 昔々は、実はほんのちょっと前までは、色々な仕事で自営というのがありました。小学校のクラスの半分以上は自営だったような。
みんなが自分の親たちが何をしているのか、どうやって社会の中に存在し、機能しているか、自分たちがどのようにして暮らせているのか、
を身に染みて知ることができた状況だったのだと思います。我が家は今もその形態を維持しているということです。
現在の日本、東京の中にあって周りと比べるとなんと不自由に思えることでしょう。
自分が選んで続けている仕事は、家族の協力、我慢、諦めなどがなければ成り立たないのだなあ、と思い知らされることも少なからずある訳です。
僕にとってはそれが一番辛いことです。
自分をリラックスさせるとか、頑張った自分にご褒美だとか、自分を褒めてあげましょうといったフレーズをよく耳にします。
どういうことだろう、と思ってしまう。みんな、そういうふうに自分と向かい合っているのでしょうか。ちょっと不思議なのです。
そんなこと思っている僕が気分転換を上手くできる訳がなく、2と2/3日あげるから、と言われても、それがまた一人分だけの時間と判ると、
何も思いつかないのです。
あり得ないこととして、自分を形作っているものをひとつひとつ剥がしてみる。
実際にそういうことをするというのは、僕にとっては自己否定になるので、やはり、あくまで想像、幻想の話ですが、
ふっと頭のスクリーンに映し出される自分の姿は、実は、無心になって、波を捉え、まさにボードの上に身体を起こそうとしているtake
off状態の姿なのです。
その次の瞬間、波に乗れるのか、放り出されるのかは判らない。波の力、海の力をボードを介して足の裏、指先から全身に感じて姿勢をとる自分の姿なのです。
何言ってるの。やったことないくせに。そう言われそうですが、このイメージは、恥ずかしながら僕自身気に入っていて、リラックスできるイメージなのです。
面白いですね。で、きちんとやってみたいとずっと思っているのです。いつか、きっと、やってみようと。サーフィンを。 8月15日が最後のチャンスだったのですが、色々悩み、自分なりに皆に無理なく受け入れてもらえるような調整を
したつもりだったのですが、前日までその作業は続き、結局一番肝心な、サーフィンスクールのほうが予約を受け付けてくれなかった、
という落ちが付きました。
可哀想だなんて思われたくはないですが、何だか、ちょっと滑稽ではありますね。こんなものなのです。生きていると言うことは。
生活しているということは。で、これで良い訳で、充分なのです。 僕らは忘れがちです。この国の中にいると、世界がどれ程病んでいるか,
悲鳴を上げているか。この国の中ですら異常な状況が多発しています。人生を知るはずもない子どもたちが、人生が嫌になった、
生きて行くことが苦しくなったと言って、それだけなら良いけれど、その結果、親を殺す。手当たり次第回りにいる人の命を奪う。
本当に異常な状況がこの国を覆い尽くそうとしているのです。それを他人事のように放っておいて良いのでしょうか。
政治家、日本政府、今度は教育委員会。大人だと思って、信じて良いんですよね、と皆が心を許していた人たちが、ただの小悪党、
いや犯罪者であることが明らかにされる。どうなっているの?波乗りどころじゃないですね。
こんど、チャンスがあったら行って来ます。
2008年8月14日
赤川 元 |
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2007
年12月12日
このところ,忙しいです。外来が結構忙しい。いつも長い時間待って下さっている皆さ んには、待ち疲れて嫌になっちゃうだろうな、と、申し訳ない気持ちです。お一人に かかる時間は10分です。だいたい、それくらいです。たまに、お待たせしておいて5分 くらいで終わっちゃうことがあるのですが、何だか、これも申し訳ない気がします。 時間の長さではないとは思うのですが、せっかく待ったのだから、もう1分、とか、思っ てしまいます。 世間では日本の国には分娩を取り扱う産婦人科医が少なくなった、という事実、どう 受け止められているのでしょうか。戦後、この国の医療の方向を今の状況にもってき た政府、厚生労働省は、人ごと、と思っているのではないか、と。そんなこと今色々 考えて、行動するだけの余力が僕にはありません。今やっている自分のできる範囲の 仕事を一生懸命やるだけで、朝が来て、また陽が沈み、夜が更けていきます。ふっと 思うことが、今日はお昼寝するぞ、です。少し前は、今日は昼休みに本屋へ行くぞ、 だったのですが、だんだん休むことを考えるようになっている。老化なのか、疲労な のか、昼休みにランニング、なんて、ちょっと、今は無理かもしれません。思いはあ るのです。何とか動ける体を維持しなくては、と思い続けています。夢は60歳になっ たらサーフィンをやることで、中学からの親友と、できたらそうしたいもんだ、と話 しています。でも、海は怖いぞ、と言われます。およそ僕の、もしあるとしたらの運 命で、いざ海に出たとたん、ジョーズに食べられたりするかもしれない。海は、確か に怖い。地球は人間だけのものではない、というのを、人間が忘れてしまった生き物 としての勘で気付かされるところ。それが海。そこにできたウネリに乗ってみような んて、60歳の考えて良いことではないのかもしれない。9年先の話です。 でも、生活の中の空想の対象の一つとして、波に乗っている自分がいる。ちょっとど んな格好かは実際良く判らないのですが。そのために、腹筋、自転車こぎ、乗馬くん、 腕立て伏せは欠かさずやろう、なんて思う訳です。で、ヨガマットに横になったら、 気がつくと眠っていたりする。 もう一度自分の今の仕事について考えてみます。 今日は午前と午後の1時間づつ、母親学級で話をしました。いつも日曜日の大事な時間 をこのクラスのために来てくれる皆さんのために、何かきちんと話をしなくてはと思 うのですが、いつもとりとめもないことを話して終わってしまいます。大事なこと、 知っておいてもらいたことを話そうと思っているのです。でもいざ始めてみると、何 だかね。実際参加された方は、どう思っているのでしょうか、心配です。妊娠したこ とをまず祝い、感謝し、(誰にというのではなく、)そして、このお腹の中の子が、実 は皆のことを良く知っているspiritで、ずっと皆のことを見ていた。皆を自分お母さ んにしようと選んで入って来たのかもしれない、なんて話もします。この胎内記憶は 僕の調査研究によるものではないのですが、僕が医師になった頃の産婦人科教室での 医局長という立場にあった、今は神奈川県で開業している池川明先生の受け売りです。 でも、生きるとか死ぬとか、僕らの心はどこから来て、どこへ向かうのか、そんなこ とを考えると、すっと入り込んでくる考え方だと思って紹介しています。僕らはお母 さんから生まれて、そして一生懸命自分の時間を生きて、死んでいきます。死ぬこと は怖いことではないのでしょうね。もちろんその時少し寂しいかもしれない、何だか みんなと別れるのはね。でも、どうなのだろう。自分に与えられた時間があるのであ れば、それを充分生きることができた、と思えたら、「またね」と言えるのかもしれ ない。そういう自分の終わり方ができるように一生懸命生きる、ということなのでしょ うか。難しい。そんな簡単には言えないこともあります。 現在の僕は、体力と気力、そして家族の支えがあって今の荻窪での仕事ができている
のですが、いつか、条件が変わってお産を手伝う仕事が続けられなくなったら、家で
自分の最後を迎えようと思っている人たちの手伝いをしようと思っているのです。荻
窪で一人で仕事を始めた時、1年くらいはお産をしていなかったのですが、在宅末期医
療というのを自分がやることの一つと考えていました。 何かを読んでいたらこんな理解をしてくれている人がいるのか、と驚く様な文章があ
りました。 外来がとても混んでいても、実は妊婦健診に来てくれる人の少なくない人たちは里帰
りしてしまいます。そういういなくなってしまう妊婦さんにも、不安のない日々を送っ
てもらおうと、赤川でお産をしようと決めてくれている人と同じように対応していま
す。あたりまえだろう、と思う人は多いかもしれないけれど、お産を扱うからには助
産婦と一緒に皆を守ろうと考え、人員を確保するよう努力していますが、いないので
すよ、助産婦さんという人たちは。やっと来てくれても人生、色々な展開があり、数
年で去っていく。また探す。また去っていく。繰り返し。落ち着くことがないみたい
です。そうやってすぐに、僕が働けなくなる歳になってしまうのだ。苦労してスタッ
フを固めても、実際に赤川クリニックでお産をする人が少なくなれば、経営というか、
運営と言うか、現実の問題として立ち行かなくなる。人を雇っても活用されず、雇い
倒れになる。皆が赤川クリニックなんかじゃ産まないよ、となれば、端から見れば自
然淘汰のようなかたちで、ここはお産を取り扱わなくなり、診療所は人知れず閉鎖。
もしもまだ働けそうな歳であれば、僕はどこか荻窪から離れた土地で、これしかでき
ないから、産婦人科医をしている、ということになるのでしょう。
先日、保健所の人に聞いたのだけれど、杉並区の妊婦さんのなんと半分は里帰りして
いるとのこと。杉並区はどう言う所なのだろうか。診療所でのお産の良さに気付いて
くれた人たちは今何処。仲間の先生の中には、自分のところでお産をしてくれる人が、
里帰りをする人がいることで長時間待たされることに申し訳なさを感じ、里帰りの人
を拝見するのを控えようとする人もいます。ヘーッと思ったけど、何だか、そうかあ、
と思う瞬間もあったりする。それくらい、里帰りの人、多いですね。 今は12月25日のクリスマスの夜です。 今日が、クリスマスだなんて。 みなさん、お体大切に。そして、頑張りましょう。 2007年12月25日
赤川 元 |
![]() Mrs. Fujito |
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「
2007年、今年も宜しくお願いします。
この仕事を続けて20年が過ぎました。そろそろこんなことを話しても怒られない のではないか、と思い、書きます。 僕は50歳です。今医師に成りたてで24歳。30歳としてももう20歳は年の離 れた人たちです。20年前の青年と今の青年は、きっと違うのだろうと思います。時 代の背景が異なります。日本という国の活動、活気、これからの展望、色々なことが その時々の人々を作っていくと思います。それは、良い悪いではなく、です。 20年前の青年だった僕は、その時の気持ちのまま今も生きています。(誰でもそ うだろうと思います。)産婦人科医を選んだのは、これが自分がこの世の中で役に立 てる手段と考えたからです。女性の一生を通して何かの役に立てる。赤ちゃんを産む ことも、癌などの病気になったときも、何かの手伝いができる。その人がその人生を まっとうできるように、お節介な気持ちでも、恩着せがましい態度でもなく、その手 伝いをしたい、と思っているのです。その人がそうして思う存分人生の時間を使うこ とで、それが幸せというものであれば、その人を太陽として回っている家族、友人に も光が当てられるものと思うのです。子供たちも、夫、そして男たちも、その女性が 活き活きと人生を歩むことで幸せに出会えるのではないか。彼らにとっての幸せの条 件なのではないか、と。 そう言う気持ちで仕事をすると、この科は一日の内、時間を選ばずに事件が起こりま す。対応もその時に、と言うことが求められることが多い。僕らはそれを承知してい るのです。そういうものだと思っているのです。 最近、産婦人科医不足が問題になってきました。僕が医師になった頃も産婦人科を選 ぶ人は多くはなかったです。やりたいと思った人が集まってきた、と言うことだと思っ ています。今だってそうでしょうね。ただ、何かは変わってしまったようにも感じま す。 医師に対する患者さんの目。医師の患者さんに対する気持ち。 ちょっと矛盾するかも知れませんが、僕が学校に通っている頃、医師―患者関係、と いうような勉強が盛んにその必要性を叫ばれていたように思います。絶対的な弱者と しての患者さんを意識して仕事をしているかどうか。どうアプローチしたらいいか、 等々。 この数年感じるのは、医師が患者さんを「患者様」と呼び始めたことです。凄い違和 感。時代遅れだ、とか常識でしょう、なんて言われそうな雰囲気もある、それ自体が 何だか変だなあ、と感じるのです。そして、患者さんのもっている医療消費者意識。 サービスを受ける側、お金でサービスを買う立場、当然払ったものに対して自分が期 待したもの以上のものが得られない場合の不満、苦情、訴え。 医療が経済として位置付けられた今のこの国では当然の結果の関係なのかもしれませ ん。 僕だけがそれに馴染めない、と言っても、誰も気にもしないことなのかも知れません。 しかし、この小さなクリニックでは、皆さんの一人一人と、僕を含めたここで働く一 人一人の関係が大切であると考えています。互いに何を思い、何を望んでいるかを知っ て、一方的な関係でなく、作用し合いながらやっていく。 さあ、この代金に見合った説明を聞かせてもらおうじゃないの、ヘエヘエ、かしこま りましたお客様、ではないのです。 皆さん、ここに来てくれる人はきっと、こんなこと言われなくても、という方々だと 思うのですが。あまりにも世の中が産婦人科医に冷淡ですから、ちょっと、弱気にな ります。 マスコミの殆どが開業してお産をしている僕らの存在を無視しています。これからの お産は大病院か助産院で。開業の診療所があるとすればそこでは妊婦健診を。これが お定まりのコピーのようです。 そんな中、今年も僕らはここでやってます。今まで通り、出来ることを、静かにやっ ていこうと思います。 また、お会いできる日を楽しみにしています。 2007年1月17日
赤川 元 |
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2006年10月10日
9月27日で50歳になりました。 昔ならそろそろお迎えが来てもおかしくない頃です。 人の体がそう変わってないことを思うと、色々、毎日の覚悟というものが必要である ように思います。 一日頑張って、一夜を過ごし、朝目覚めたときに、ああ、もう一日時間をもらったん
だ、と感謝する。えらく年寄りのような言葉ですが、これは、結構前から思っていま
す。医者になった頃、イングリッド・バーグマンという女優さんが癌になった自分の
体の時間を感じてそう話した、というのをどこかで読んでから、すっと心に入ってき
たフレーズでした。 社会状況にもよるところが大きいのですが、今まで通りのことに磨きをかけ、更に少
しづつ新しい何かを加えながらもう少しこんな形の活動を続けるつもりです。 一人の医師が出来ることは限られています。それを一緒に働いてくれるスタッフと、
僕の場合は家族が支えてくれており、さらに、実際の診療では、近隣の同じような状
況の先生方との連携も必要不可欠な力となっています。その時々で何が出来て、何を
求められているのか。そして、その時の自分に出来ることなのか。肉体的に、技術的
に、そして人として出来ることなのか。 ※最近、お産を取り巻く色々な事件が起きています。お産というと雰囲気もゆったり
した感じですが、実際の分娩の中にはどうしても期待通りに進行しないものや、胎児
が苦しい、と言い始めて早く外に出さなくてはならなくなる場合もあります。僕がこ
の場所で医師一人と助産婦で分娩を取り扱っているのは、自分が考える安全を保てる
範囲で、と規定しているからで、何でもかんでも、どんなケースでも対応できるわけ
ではありません。大学病院を初め周産期センターという存在が後方に控えていてくれ
て成り立つものでもあります。多くの妊娠が問題を起こさずに無事に終了する中、そ
うはいかない素地を持ったものを出来るだけ良い状態に保ったり、ひどく悪くならな
いうちに安全地帯に非難させたりするのが大事な仕事の一つだと思います。また、で
きるだけ自然な形でお産が始まりそして終わっていけるように手伝うのも、ここに来
てくれる妊婦さんたちの求めるところと考えています。なるべく手を出さないで、見
守って、そう言う姿勢を保ってやっています。しかし、前述しましたように、そうは
いかない状況になった場合は、出来る限りのことをします。結果として、皆さん、そ
して僕らが望んでいた“元気な赤ちゃんと、その子を抱く元気なお母さん”の姿を確
認するために努力します。それが出来なければ僕の、そしてこの場所の行為の意味が
ありません。そう考えています。一つの勢いとして、医師の存在しないお産の状況を
認め、それをひろめよう、と思わせるような発言、行動があるようですが、なんでそ
んな一つの様式にこだわるのでしょうか。色々な形態、様式があって良いと思うので
す。ただ、守られなくてはいけないことがあって、それは、誰のための、何のための
妊娠、出産なのか、ということです。全てが異常になる火種を持っているから、とギ
シギシに対応するのも、寄り添うことこそが重要で、と、医療の存在を否定するのも、
どちらも極端。一人一人にあったものを、それぞれに異なる手伝いをすることが大切
なのではないでしょうか。大変なことですけれど。人が一人生まれて、その子が元気
に育っていくことのなんと大変なことか。でも、素晴らしくて、力強くて、何よりも
産んだ人、その周りの人々を勇気づけ、幸せにしてくれることか。だから、大事な問
題なのでしょうね。人がつながっていくためには、どうしても必要なことですからね。 唯、社会の流れや圧力に従っていればいいのか。そうかも知れないですが、生きてい
て、それで良いのか。明日のこと、来年のこと、10年後のこと、子供たちが社会人
になったときのこと。今は判らない。その先のことに、今の責任を果たしておかなく
ては、未来の大人たち、今の子供たちに申し訳が立たないと思うのです。大人は、子
供のための存在だと思うのです。確かに自分の楽しみや喜びも重要課題ではあります
が、未来に向かって育っている子供たちが幸せでなくては、生きていることを喜べな
くては、どうしようもないです。 そのために今の大人は頑張るのです。と、どうしようもない僕は自分に言っているの
でした。 8月12日の土曜日。みんなが同じ50歳である中学の同期会に行くことが出来まし
た。赤ちゃんが生まれて、到着したときには一次会は終わろうとしていましたが、み
んなに会えました。中でも中学1年の時の担任の先生は、卒業後の僕を認めてくれて
いませんでした。自分でも、自分を見つけきれずにいましたから、それがまた辛く思
えたのですが、今回は、先生から話しかけて下さり、仕事を頑張るように、と言って
下さいました。にこにこして。色々あるけれど、今は、これで良いんだな、と感じた
のでした。嬉しいと言うよりほっとした感じ。 みんなと会えて、色々話をして、みんな同じ歳というのもおもしろいもので、端から
見ると敬老会みたいなのかなあ、とも思ったりしました。自分たちはあの時のままで
はしゃいでいました。 一生懸命働いて、生きている、生活している友達の姿が、その後の毎日の僕の励みに
なっているのは言うまでもありません。高校の先生をやり、農場で汗している人。一
緒に英語の道に進もう、なんて言って、僕はこんなになっちゃいましたが、何年もイ
ギリス、アメリカで生活をして、そして今は中学で英語を教えている人。僕は外来の
仕事をしながら、赤ちゃんが生まれるのを手伝いながら、彼らの姿を思い浮かべて、
とても落ち着いた気持ちになっているのに気付くのです。もう、50歳。 ちょっと持久力、体力そのものが低下してきているのかな、と思うこともあります。
誕生日を機に、木曜日を半日にしようか、と思いました。土曜日を予約にしたのは、
何とか計画性のある時間を設けることが出来ないか、という思いからでしたが、だめ
でした。木曜の計画も同じ理由です。でも、やめました。 休むことを考えると、何だかそのまま動けなくなりそう。 頭と一緒。考えなくなると、だめですね。 50の次は60。 70はちょっと、考えていません。 今日も赤ちゃんが生まれそうです。 赤川 元 |
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春の旅行 2006.04.10.
今までにない時期に家族旅行をしてきました。3月27日から4月3日。子供たちも 娘は高2、息子は中2になる年です。僕は9月で50歳になります。子供たちが夏休 みを自分たちの時間として過ごしていく時期になったと言うことです。家族で一緒に 行動するのも、これからはそう多くはないことになるのでしょうね。これが、皆の成 長と言うことなのだと思いますが、ちょっと、寂しいです。 いつも、子供を見て自分に気付いている僕としては、一人で取り残されてしまいそう
で、静かに焦ります。 さて、旅行はイタリア。ローマとフィレンツェへ行きました。やはり子供たちのリク
エストなのですが、学校の授業で知ったことや、テレビの情報が刺激になって、本当
のものが見てみたい、という欲求が湧いたのです。それに応えました。僕ら夫婦にとっ
ては、新婚旅行以来、20年ぶりのイタリアです。その時はローマに2泊で、ここは
どこ?と言う感じの慌ただしさでしたが、今回は少しはゆっくり、でも3泊ですが、
ここは見たいぞ、と言うところへは行きました。 そこに暮らす人はそれなりに大変だろうな、と思うのですが、何百年も前からの建築
物をそのままにした街と、それを守り続ける覚悟。それ自体が観光資源にはなってい
るのでしょうから、割り切りもあるのかな。でも、すごいですよね。そこにローマ帝
国の人たちが討論したであろう道があって、部屋がある。どういう事かな、と思いま
す。コロッセオも絵はがきのようですが、49歳になって訪れると、また、何だか、
そうか、なんて、ふっと空を見上げたくなるのです。ポンペイまで足を伸ばしました。
火山の噴火によって降り注いだ火山灰によって埋め尽くされた街です。静かに降って
きたのかなあ、火山灰は。音を包み込むような、マッフル、という感覚を抱きました
が、しかし、火山の噴火の直後の事でしょうから、余震もあり、きっと静かではなかっ
たのでしょうね。ただ、降り積もっていく火山灰に、どうすることもできずに埋もれ
ていったのだなあ。とても怖くなりました。自分の命がもう少しで終わっていくのを
待つ時間を自覚できたのかも知れない訳です。それは、余裕ではなくて、否応なしの、
自然の力なのですから。人は、なすすべを持たなかったのです。生きるという重要な
側面を感じました。 僕は少女趣味なのかもしれませんが、宮崎駿のアニメが好きで、魔女の宅急便はお気
に入りです。多くの作品に出てくる景色が、イタリアそのものです。今回の旅行でそ
う感じました。それはそれで、嬉しかったです。小さな路地を曲がると、そこはもう
違う世界が始まっているような感覚に捕らわれました。何よりも、僕はイタリア語が
判りません。ありがとう、とかおはようとかは言いますが、そのあとを返されると、
もう成人の返事はできません。心の中では言いたいこと、伝えたいことは勿論山ほど
ありますが、何だか、それは辛いことでした。イタリアでつたない英語をしゃべって
いた。でも、旅行者ですから、その日その日をまずは無事に、楽しく、悪いことを残
さず、美味しいものを食べ、見るものを見れれば、それで良し、とします。 イタリアに行ってもそんなこと考えているのか、というような男なのです、僕は。 ローマ、フィレンツェ。良かったです。ここに居れることが幸せだな、と思えました。
家族のみんなと居れることがごく自然で、それが良かったのかな。京都でも、ハワイ
でも、本当は僕は同じように嬉しいのですが、でもイタリアの街の、あまりにも日常
の空間との違いがちょっと違った喜びをもたらしてくれたのです。 一番の収穫は、ウーフィッツ美術館。そこでレオナルド・ダ・ヴィンチの直筆のノー
トを見ることができ、彼のエッセンスに触れることができたような気がしています。
教会そのものの存在感をちょっと嫌、と言うほど感じることができました。彫刻、絵
画、モザイク画。素晴らしいものが世の中にはあるのだ、というのを、本物を見て感
じてしまった。 ただ、ひねくれた49歳には、サンピエトロ大聖堂は落ち着きのない空間で、心にあ
るミケランジェロのピエタは、診察室の壁に貼ってある写真のそれのほうが心に近く、
静かに肌からしみ込んでくるスピリットは、四谷のイグナチオのザビエル聖堂や荻窪
教会の空間で感じるものが素直に受け入れられるかな、なんて。 もう、今まで生きてきた時間の半分も、これから先は生きていくことはできないので
すよ。当たり前、と言えば当たり前ですが、それを強く感じました。生まれてこよう
としている赤ちゃんや、産もうとしている皆さんと接していると、いつもその静かな、
でも確かな、でも、また、いつでもあやふやなエネルギーを感じることができます。
そう言う意味で、恵まれた仕事の環境にあると思います。そして、自分の残された命
の長さを忘れてしまっている事があります。勿論、いますぐになくなる訳ではないと
は思いますが、それも、不確かです。子供たちの横顔や、一緒に年をとってきた妻の
後ろ姿をみて、いつかは皆とは別れなくてはならないのだな、と思いました。
静かにね。そう、一人で感じて、悲しいのではなくて、そういうものなのだろうな、
と。 フィレンツェでは美味しい気軽なレストランを発見。トリニタ橋のこっち側のすぐの
角にある、Danteというところです。イタリアの気軽で心優しいレストランというの
は、ここでしょう、という感じにお気に入りになりました。ご当地の人々が多く集い、
日本語なんて通じません。荻窪にあればいいな、と、すぐそういう風に思いましたが、
いやいや、ここだからまた意味があるのです、と思い直したりしました。食生活、食
習慣というのは、もうそう簡単には変えることはできません。白いご飯だとか、おみ
そ汁。ちょっと美味しいお刺身。季節の野菜。黒豆。上野の入山煎餅。うさぎやのど
ら焼き。どうしようもないですね。 レオナルド・ダ・ヴィンチとの距離を近くに感じてしまった解説文のメモ。 ,,,the elements and the four ”powers” of nature, motion,
force, weight and
percussion. ,,,falls within the context of Aristotle’s theory of the
elements “earth, air, fire and water, in addition to quietness.” 勘違いも含め、勝手に近くに感じてしまうのがずうずうしいですが、僕らがここでの
仕事、役目を考え、模索し続ける中で思っていることと、何だかちょっと同じような
ことを頭の中に持っていたのだな、と思ってしまったのです。」
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2005年3月 元の考えていること
2005年3月もあと2日で終わり。春、4月、新年度の始まりです。 我が家の娘は高校1年、息子は中学1年。遂にこの家に小学生がいなくなってしまいました。歳をとったのです。 今年の秋には49歳ですよ。もう、50歳。そうしたらすぐに60歳。生まれてから着実に死に向かっている生き物の道をひたすら歩いているということです。 我がクリニックで生まれる赤ちゃんは、いつもフレッシュ。生まれでてきた瞬間の羊水まみれの姿から、一日経ったふわふわの肌への変化に毎回、 よかったね、という感情の振幅の高まりを感じさせてもらっています。僕の仕事の特徴だと思っています。 去年は新潟の大地震。暮れのスマトラ沖大地震、大津波。地球は温暖化から、また、この星の寿命からか、そこここがきしんでいるのでしょうか。 それとも勝手な振る舞いの連続の人類に対する警鐘か。地震に備える、ということも大事ですが、地球をこれ以上痛めつけない努力もしなくてはいけない。 そう思います。何ができるでしょうか。 日本という国は、何のためにあるのでしょうか。日本人というのは、共通のアイデンティティーを持っているのでしょうか。僕が生まれたのは昭和31年。 1956年。戦争が終わって10年しかたっていなかったのです。今思い出しても、子供の頃の景色は今では想像もつかないものです。 なんだか、思い出すイメージは白黒写真のイメージです。静かで、優しかったかな。 もっと、粗野で、残酷だったか。生きているというのが、もっと身近に感じられる状況だったかもしれません。 荻窪の駅の横には大きなバラック建ての市場がひろがっていて、昼でも薄暗い、でも恐ろしく活気があふれた場所だったことを覚えています。 何軒かおきにある外へ通じる人独りがやっと通れるくらいの、それも真っ暗な通路があり、そこに入るには子供にはかなりな勇気が必要でした。 トタンの扉を押し開けると、目が眩むような日の光を感じたものです。 思い出が良いというのではないのです。今はどうだろう。今の生活の空間には、日々の時間の流れの中で、わっと言う感じを覚える状況があるだろうか。 僕自身にとってもだけれど、子供たちにとって。 大人(お金を稼いでいる人)が自分のことだけを考えてしまっている社会になっていませんか。考え方だと言われたらそれまで。 でも、子供たちにはお母さんお父さんが必要です。子供たちこそ守られなくてはいけない存在です。親、大人は子供を守り育てるために必死に生きる存在。 そのじゅんぐりの循環が人の人生なのではないでしょうか。子供たちを輝かせてやりましょう。それが大人の生き甲斐、存在理由ではありませんか。 法律でこの国は戦争をする国になってしまうのでしょうか。戦争で辛い記憶を持っている国民が、それを負の遺産とでも言うかのようにかなぐり捨て、知らん顔 して銃をとるのでしょうか。 殺す側。殺される側。いつもそれが逆転して、いつも立場がくるくると変わって行く。どちらにしても、誰も望んでいない命の終わり方を強いられる。突然に。 残酷に。親の目の前で死ぬ子供。 子供の目の前で死ぬ親。 誰が、いったい誰が望んで銃をとるのだろう。テロは誰が誰のために、誰の幸せのためにやることのなのだろう。 砂漠の民が長い時間の中で、その自然の中で生きてきた背景のように存在する神を崇めることが、悪いことなのだろうか。 それが、自分たちの生活の中にある宗教と異なるから、それを改めなくては幸せになれないと、本気で思うのだろうか。 肌の色。話す言葉。信じる神様。それが違ったって、一生懸命生きている者は何も違わないはずだと思うのは、どうだろう。 宮沢賢治の銀河鉄道の夜、読みましたか。本当の幸せを求める旅に、人は生まれてからずっと、目を覚ますたびに出かけて行くのではないでしょうか。 誰かのために生きている。誰かが私たちのために生きている。 イタチから逃げたサソリが井戸に落ちて思うこと。自分が生きていて誰かのためになるという、根源的な生き物の存在理由を確認する姿を、皆さんはどう思いま すか。 ややこしいことを考えていると笑われるかもしれませんが、皆さんの赤ちゃんに触れるとき、僕はそんなことを思うのです。 命の訴えが、きっと、世界中で同じ望みが溢れているに違いないのです。 2005.3.29. 元 |
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![]() 2004年後半の公会堂
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![]() 1月の公会堂
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雨の夜に、Milesを聴きながら
「国語の宿題のプリントを読んでいた。
長田 弘という人の「君の三つの話」というものだった。
自分は他の誰にもなれない。好きだろうが、嫌いだろうが、自分という一人の人間にしかなれなかった。そう知った時。
もう誰からも「遠くへ行ってはいけない」と言われなくなったことに気付く。
自分の人生で、「心が痛い」としか言えない痛みを、初めて自分に知った時。
それらの時に、一人の子供ではなく、一人の大人になっていたのだ。
これがその文の柱。中学生の勉強の材料と思って読み飛ばせない内容です。
そう思いませんか。
妊婦さんやお母さん、そして生まれたての赤ちゃん、育っていく子供たちをみて、自分の子供たちの成長、変化、葛藤を一番近いところで感じていると、こう
やって自分も生きて来たのかもしれない。こうやっていたらこうだったかもしれない。これを耐えて、これを押し通して、やっと今のところまで来たのだ。
などと思う事があります。毎日のように、あります。
そうする中で、自分もやっと大人になるのだな、と思っているのです。
現在進行形で大人になっている自分がいるのを知っています。僕は今年の夏が終わると47歳になります。そんな年齢の人間が自分はまだ大人になっている最中
だ、と言うのはおかしく思われるかもしれません。
おかしいかもしれないけれど、そういうことでしか生きてこられなかったとしたら、それは、そういう者もいると思って頂いて、決してその人間が欠陥人間だと
かは思わないようにお願いします。
お判りのように、僕は、どうしても、クリニックにやって来る人と一緒に悩んでしまう傾向があるのです。自分の信念のようなものを人様にそのまま進呈できる
ような人にはなっていないのです。
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2003年夏の私
僕の生まれた町は荻窪です。杉並区という東京都23区の端にある所です。 昭和31年。多くの子供たちが多分そうであるように、僕には幼児期の記憶があまりありません。2歳の時ああいう事があった、とか、3歳の時にはあんなに辛 い事があった。 そういう事は、殆ど覚えていません。幸いな事に。 昭和31年というと太平洋戦争が終わって10年しか過ぎていない訳です。 何だか知らない内に僕は凄く昔からいる人間の一人になっていたような気がしてきます。幼稚園に行く前に、今ははやりの幼児教室の走りとでも言える、 「伸芽会」というところに連れられて行っていました。青山かどこかにありましたね、きっと。何を覚えているかと言えば、教室が終わって母が僕に与えた、 ピーセンのことです。今でもあります。 美味しいのですが、ちょっと油っぽいですよね。でも昔からその少し湿気ったやつが好きで、よけい油っぽく感じるのです。そして、これは辛い事ですが、歯並 びが悪かった僕の歯の間に、 ピーセンは容赦なく挟まりました。それを食べながら家に帰るのでした。ボリショイサーカスの熊が一仕事の後に角砂糖をもらうみたいなものです。 幼稚園は線路の向こう側にある「日の丸幼稚園」です。今もありますが建物が変わってしまいました。色々なことが、色々な人にあったのでしょう。マンション の一階と二階にあります。 僕が通っていた頃は広い園庭と桜の木がありました。広いと思っていたのは、勿論当時の僕です。毎朝朝礼があり、観音様にお花をあげるのです。その儀式の最 中に到着するのが僕の日課でした。 毎日のように遅刻していました。近くの用品店の娘さんも何故か一緒の事が多かった。目がくりんくりんに丸い子でした。そして毎朝、おばさん先生と呼ばれ る、厳格な園長先生にお説教、 あるいはげんこつをもらっていました。おばさん先生が園長先生だったのか、その横でいつもニコニコしていたお坊さんと思われるご主人のおじさん先生が園長 先生だったのか。僕には判りません。 ただ、今思うと、二人はかなり綿密な計画の元、僕ら園児を上手くコントロールすべく各々の役割分担を丁寧に演じていたのでしょう。 そんなことを卒園して40年以上経った今考えているのは僕くらいなものでしょう。 その幼稚園生活で本当に何回も思い出す事件は、ある暑い朝のことです。 「今日も遅刻だ。」と、それなりに罪悪感を抱きながら、そしてまた皆の前でおばさん先生に一言頂くのか、と自分の怠惰さを棚に上げてうんざりして園に着く と、 案の定、園庭には既に遊び回る仲間の姿はなく、きっとホールでお説教の最中。そっと門を開けて入ろうとしたけれど、門が開かない。がっちり鍵がかかってい る。いつもと何だか様子が違う。 ガタガタやっていると、建物の中からシュミーズ姿の若い先生がこちらにかけて来た。 「赤川君。今日から夏休みよ。」 僕はそのまま、まだ中途半端に朝の雰囲気が残っている町中を、幼稚園児としては精一杯照れを隠しつつ斜めな気分で家に戻りました。 長い道のり。今は、幼稚園の方には保健センターがあり、たまに用事で出かけますが、敢えて幼稚園の中を覗こうとは思いません。 僕には充分な思い出がありますから。 荻窪には大きな映画館が2つ以上ありました。東宝だったと思いますが、映画館の建物の前に素敵な庭があり、池と、小鳥のケージがありました。 今の西口のところでしょうね。建物が今あるものに変わって、しばらくはきちんと封切り映画を上映していましたが、知らないうちに、あるいは、僕がうかうか しているうちに、なくなりました。 僕が幾つくらいの時だったろう。「これで荻窪から文化はなくなるんだな」と思ったのを覚えています。悲しい気持ちがしたので、けっこう大きくなっていたの だと思います。 どうしようもないことですが、やはり、その後はこの町から文化は、あるいはそれらしい雰囲気はいっさいなくなりました。 今の西口周辺は、ゴミだらけで、居酒屋ばかりで、コンビニばかりで、通り過ぎて行く人の通路のような所になってしまったように思います。 残念な事に、ここに立ち寄ってちょっと話をしていこう、というような場所が見つかりません。どうしたのだろう。僕がこの町に合わなくなったのだろうか。 奇麗な町にならないかなあ。毎日そう思っています。 我が家の斜め前には杉並公会堂があります。駅からの道を説明するのにとても便利です。この今ある建物は僕が意識を持ちはじめた頃には既にここに建っていま した。古い新しいの違いはあっても、 同じ姿で。一階のロビーにある、ミロのビーナスは本物のレプリカだ、と聞いた事があります。そうか、と納得して、結構気に入っていたものの一つです。優し い曲線は、 何歳の僕でも気に入っていたのでしょう。本物のレプリカとは、どういうものなのか。リトグラフがやはり何枚も世に出ていても一枚づつ本物なのと同じ事なの でしょうか。 この杉並公会堂が今取り壊しの最中です。建物はブリキのような板に包まれ、既に中は何もなくなっているようです。3年もかけて工事をするのです。今時恐ろ しく長い時間をかけるものです。 お金の問題なのでしょうか。 希望する事は、素敵な建物になって、刺激的な文化の活動拠点になってくれたら、ということです。今の山田杉並区長は、この10年で荻窪の未来が決定される と話していました。 今、荻窪駅を中心に色々再生中です。 でも、そこに住む人、働く人、通ってくる人のセンスによって、多くの部分が決まってしまうように思います。 たばこを吸いながら歩く人。ゴミを平気で棄てて行く人。僕が大事にしていた鉢植えを夜の内に持って行ってしまう人。 器が一見良くなっても、人で決まる事が多く、今の荻窪は、それが心配です。 住人は何をしたら良いのでしょうか。 僕はここに根を張っているようなものですから、自分の仕事を中心にできる事をして行こうと思います。診療行為は勿論ですが、杉並区の乳癌検診の充実を計ろ うというのが毎日考えている事の一つです。 健康や病気から荻窪を少しでも皆が住みやすい、ここは良い所だぞ、と、人に自慢できるような町にする役に立ちたいです。 社会に役に立つ存在になりたい。これ、密かな僕の夢です。 クリニックにいらっしゃる機会があったら、公会堂の出来具合いをチェックしていってください。どうなるのでしょうね。 そして、工事中は車両の出入りがありますから、どうぞ、注意していらして下さい。 雑誌「荻窪ライフ」をいつか創刊してみたい。 |
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![]() 工事前の公会堂
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夏休み、沖縄旅行
2003年の夏休みはまさに夏休み、というお盆の期間にとりました。 そして、僕にとっては初めての沖縄。前日まで台風が日本列島を縦断し、どうなることかと心配していましたが、出発当日は快晴。 飛行機で到着した那覇の空気は驚く程の湿度。タクシーで高速をのんびり走って滞在するホテルへ。そこはまるでハワイの様。 湿度がもう少し低ければ、マウイ島のシェラトンと言っても良いくらい。Friendlyな対応は日本のホテルじゃないようでした。 朝の海は空を生み出すように広がり、息子と僕はその中を漂い、素晴らしい時間を過ごしました。 評判の水族館にも行きました。この時は大雨で、山の中の道が崩れた程でした。 僕にとっては、沖縄は、戦争という事実からは切り離せない土地の一つです。 広島、長崎、沖縄。 戦後生まれの僕は、それでも終戦から10年そこそこで生まれちゃっているのですが、戦争そのものは知らないのです。 ずっと、この国は戦争はしない、と信じて生きて来た人間の一人です。戦わないことが戦いになり得る、と信じているところはあります。人を人が殺す、という ことを、感覚的に肯定できません。 傷つけること。体を、そして心を。一生懸命生きている他人の生活、人生に踏み込んで、それをめちゃくちゃにしてしまう。 どんな理由があろうとも、人を殺して何かを押し通して、本当の幸せがくるとは、とても思えないのです。 ひめゆり平和祈念館へ行きました。 本で読んで、当時の状況は把握していましたが、実際行ってみると驚きました。 記念碑が建っているのですが、その手前には穴があいています。よく見ると洞窟。縦に掘れた穴です。ここが沖縄戦当時は外科壕だったというのです。けがをし た兵隊たちの病院だったのです。 資料館のなかにはいると、さっきの穴を下から見た実物大のジオラマが作られています。こんなところで傷を治そうとしていたのか。包帯をかえると、なかから はウジがわいてきたといいます。 抗生物質もなく、ただ包帯をかえるだけ。傷を負ったら、もうだめだったのかもしれません。 沖縄戦は太平洋戦争での、唯一の国内戦です。実際にアメリカ軍が上陸し、あっという間にこの島の大部分を占領し、少女たちを含む兵隊たちは南へ南へと逃げ て行ったのです。 是非、この沖縄戦について、少年少女向けでもよいです。事実を記載したものを一度読んで下さい。 「平和ぼけ」と言われる程に、夢にも自分達が戦争に協力したり、まさか自分達が戦争をするなど考えてこともありません。 自分の国の存続を願って守る事と、戦争をするということを同じに考えてしまう短絡が、危険に思えてなりません。 政治家やある指導的立場にある人間が、すべてを考え尽くして出た結論のように戦争への協力、つまり、参加を肯定し、日本国民のためになる、と話しているよ うですが、本当にそうでしょうか。 とても、受け入れられない。言葉では細かく説明できませんが、まず、感覚的に、だめです。 今の僕らは健康を願い、家族や隣人、世界中の人の幸せを願える、ある意味でゆとりのある国民の一つだったと思います。 僕らは、生まれたら、死にます。ある者は寿命で、ある者は病気で、事故で。それらの死は、受け入れざるを得ないものだと思います。 そのように、生まれたら必ず向かう所には死がある。 そういう運命にある僕らが、なぜ、その短い一生のなかで他人の命を奪うために、自分の命をも無駄にしかねないような戦争をするのだろうか。 多くは、誰かに導かれて。つまり、人が、人を使って、人を殺す。です。 今この仕事をしていて、生まれて来る子供たちに、これからの色々なことに立ち向かって、受け入れ、人生を楽しんでほしい。人を助けて、愛して、生きていっ てほしい。 そこで一生懸命生きているだけで、君の存在理由があるのだということを言いたいです。祈っています。 その子たちを戦場へ送る事を決めるなど、大人が勝手に決めて良い事とはとても思えません。 ひめゆり学徒隊の少女たちは、将来学校の先生になって子供たちに夢を語る事を、夢を持ち続ける事を教えようと、人世の輝く時期を過ごすべき歳の子たちで あったのです。 資料館の展示室の壁一面に、彼女たちの写真が並んでいます。多くの者は笑顔でこちらを見ています。その笑顔の下に、彼女たちの人世の結末が記されていま す。皆さんは、どう考えますか。 直撃弾を受けて死亡。 頭部に被弾、死亡。 米軍に収容され、米軍病院で死亡。 死亡状況不明。 突然、自動小銃乱射を浴び、死亡。 学友らとともに、手榴弾自決。 爆風で即死。 ガス爆弾襲撃を受け、死亡。 背中に被弾、即死。 米兵に「私は皇国女性だ、殺せ」と、詰め寄り、眉間を撃たれて即死。 母や弟ともに手榴弾で自決。 僕らは戦争で国外へ出て侵略もしたし、原爆も落とされたし、大規模な空襲も受けたし、国内で軍人でない子供たちをも敵の盾にした歴史を持つ国民です。 僕はこの沖縄を考えるとき、47歳になる今年、初めてこの地を訪ねる事ができました。これは第一歩です。今の自分がある、その足下で歴史を悲痛に支えてき た事実がある。 上手く言えませんが。 沖縄の海は、蒼く広く輝き、空は海から生まれたように青く、またそれをやさしく抱きかかえるように広がっていました。 2003.8.夏休みの思い出。 |
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![]() 沖縄朝の少年
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![]() 沖縄の水族館
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