ば ら

− 後 篇 −

「約束?」
 呟いた時の顔があまりに真剣だったので、ジュールも思わず神妙な顔になってしまう。
 一体どのような約束ならば、命を狙われる身の上でその当の狙っている人物に会うという危険を冒せると言うのか。
 命をかけるだけの約束など、彼には全く検討もつかなかった。
 そんな彼にミルファは小さく頷く。
「── お母さまと、子供の頃に交わしたのです」
 言いながらも、その宝石のような瞳が暗く沈み、苦痛を宿す。
 ミルファの様子にジュールは内心では狼狽(ろうばい)したが、必死に押さえ込む事で何とか表情には出さずに済んだ。
 一体、その『約束』にどんな重さがあるのだろう。
 彼の記憶にある限りでは、ミルファの母である姉が、そこまで思いつめさせるような事を約束させたとはとても思えなかったのだが──。
 しかし、追求する事はジュールには出来なかった。
 見るからにそれは、ミルファにとって思い出すだけでも精神的な苦痛(あるいは悲しみ)を与えるものだと物語っており、無造作に触れる事は躊躇(ためら)われたのだ。
 だが、沈黙するジュールの反応をどう思ったのか、ミルファはさらに言葉を重ねる。
「── 皇帝…お父様が乱心した時の事を、私はよく覚えていないのですが……たった一つだけ、覚えている事があるのです」
「その事がその…約束とどう関わりが?」
「…お母様との約束は、お父様よりも先にお母様が亡くなる事があったら、お父様にある言葉を伝える事なのです」
 それを聞いて、僅かながらに納得する。
 皇帝が乱心した時の惨事については、すぐに地方へと広まらなかった為、夜の帝宮で具体的に何が起きたのか、その詳細は謎に包まれている。
 だからこそ、ジュールはサーマの訃報を聞いてもすぐには信じる事が出来なかったし、ましてやそれが皇帝が乱心した結果などだとは、到底信じる事が出来なかった。
 ジュールは所詮、第三者でしかない。だが、ミルファは数少ない当事者の一人だ。余人の知らない出来事を目の当たりにしていても、なんら不思議ではない。
 そう…たとえば、父が母を殺すその場面を目撃していたとしても──。
「…人伝えには出来ない言葉なのですか」
 まだ幼さすら残す顔を暗く翳らせて言葉を紡ぐミルファが痛々しく、そんな事を思わず口走っていた。
 その言葉に、少し驚いたようにミルファが顔を上げた。
「それ以前に、今の陛下がその言葉に耳を傾けるかどうか怪しいものです。…悪い事は言いません、諦めた方が宜しいのでは……」
 差し出がましいとは思いながらも、そう付け加えると、ミルファはようやくその表情を微かに和らげた。
「── 確かに、叔父上の仰る通りです。今のお父様が何処まで私の言葉に耳を貸して下さるか…その保障は何処にもありません。でも、これだけは譲れないのです」
 そしてその宝石の瞳は、輝きを取り戻す。
「叔父上。私は…皇帝の御座を目指すつもりです」
「…!!」
 つまり、それは。
 ミルファが何を言わんとしているのかを理解し、ジュールはぎょっと目を見開いた。
「皇帝陛下を…弑逆(しいぎゃく)なさるおつもりか……!?」
「…ええ」
 ミルファは決意を秘めた瞳で頷くと、ポツリと一言呟いた。
「── ザルーム」
 その言葉が消えるか消えないかの僅かな時間に生じた変化に、ジュールは更に驚く事になった。
 …先程までは何もなかったはずのミルファの背後に、気配一つ感じさせずに一人の人物が佇んでいたからだ。
(…何者……!?)
 ひょろりと背の高いその人影は、全身を赤黒い布で覆い隠し、一見した所では男か女かも、老人か若者かもわからない姿をしていた。
 一言で表すならば、『得体が知れない』に尽きる。
(もしや…呪術師、か……)
 唯一、納得の出来る答えを見つけたものの、今のように何もない場所に姿を現す呪術があるなど耳にした事はなく、呪術師というもの詳しくはないジュールにとっては、得体の知れなさは大して変わらない。
 結局、この場で唯一その正体を知っているであろうミルファに視線で問いかけると、ミルファは困ったような表情を浮かべた。
「驚かせてしまったようですね」
「い、いや…それは良いのですが……この者は一体?」
 すると、その問いかけに対しては当のザルーム自身が返事を返した。
「── お初にお目にかかります。私はザルーム。ミルファ様にお仕えする呪術師でございます」
 そして一礼。
 その様子はいかにも従属らしい雰囲気だったが、その声は何処までも暗く、陰鬱なものだった。聞いていて不快とまでは行かないが、気持ちの良い声ではない。
 自ら明かした正体に、やはり呪術師だったのかと納得しつつも、同時に疑問は募る。
 これでミルファが単身でここまで来た訳ではない事はわかったが、何故今までこの呪術師の存在を隠し、そして今、この時に呼び出す必要があったのか──。
 するとその考えを見透かしたように、ミルファが口を開いた。
「申し訳ありません、叔父上。南領に受け入れられるかどうかわからなかったので…彼には身を潜めて貰っていたのです」
「…どういう意味です」
「先程尋ねた事を覚えておいでですか?」
 その問いかけに思い出したのは、助けると言った自分に対してミルファが尋ねた言葉だった。

 ── 私を匿(かくま)えば、この南の地にも火の粉が降りかかるかもしれません。それでも、助けて下さるのですか?

「…つまり、我々を試されたという事ですか」
 思わず声が硬くなる。
 しかしミルファは怯む事なく、真っ直ぐにジュールの目を見返した。
「はっきり言えば、そうなります。…失礼な事だという自覚はありますが、南領は私のとっては未知の場所です。皇帝に対してどんな意識を持っているのかも定かではありません。ですから……」
 だから、単身乗り込んだ。
 一見した所、とても皇女には見えない姿の自分を、果たして彼等は受け入れるだろうか?
 もし南領が皇帝に従い、自分を差し出すような気配を見せれば、ザルームの手引きですぐに脱出する心積もりだった。
 しかし、コリムもジュールも暖かく自分を迎えてくれた。
 ジュールに至っては、まだこちらが何も言っていないのに『助ける』とまで言ってくれたのだ。
 本心ではそれを望んではいなくても、皇帝の御座を目指すには『力』が必要だった。
 ただ皇帝に会うだけなら、単身忍び込むなり、危険は高くてもいろいろ方法があっただろう。
 けれど、皇帝になるにはそれでは不十分なのだ。人一人従えた位で、皇帝など名乗れない。
 だからこそ、この南の地まで下ったのだけれど──。
「…先程の叔父上の言葉は、本当に予想外でした」
 今まで会った事など一度もなかったのに、コリムからもジュールからも、肉親だけが持つ温もりを感じた。
 一年前に失った母親に通じる、懐かしい温もりを。
 まだ心の奥はあの時のまま凍りついていて、今でもまだ思うように笑う事も出来ないけれど。
 それでもミルファは今出来る、精一杯の笑顔をその顔に浮かべた。
「ありがとう、叔父上。あの言葉だけで十分です。…会えて良かった」
 そして今まで座っていた椅子から立ち上がると、ミルファは優雅に一礼した。
「…殿下」
 その言葉と所作にただならぬものを感じ取り、ジュールは慌てた。
 まるで── 別れの挨拶のようではないか、と。
「まさか…ここから立ち去る気ではないでしょうね」
 だが、心の中ではその憶測が間違っていない事を確信していた。そうでなければ、今のこの時に席を立つのはあまりに不自然だ。
 その問いかけにミルファは答えなかった。ただ、少し不思議そうな目を向けてくるだけで──。
 それが彼の問いかけに対する何よりの答えだった。
 ジュールは思わずため息をついた。 
「…殿下。我々を見くびらないで頂きたい。初対面の相手を警戒するのはお命を狙われている今、当然の事でしょう。それしきの事で掌を返したような対応などいたしませんよ」
「……」
 肉親だからと言って、皇女だからと言って── 父も自分も、言われるままに従うような人間ではないと自負している。
 だからこそ、現皇帝とかつては親しい関係にあった父は、皇帝が乱心してからは一切帝都との関わりを断っている。今の皇帝の行いが、間違っていると思っているからだ。
「先程私が言った言葉は、嘘偽りのない本心です。あなたが陛下に会う為には── 皇帝となるには、我々の手が必要なのではないですか? …ならば使えばいい。遠慮などする必要などない。それが理に適(かな)っているなら、誰もがあなたに従うはずです」
「でも、叔父上…それでは、この南領を必要のない争い事に巻き込んでしまいます」
「それではこれからどうするお積もりですか。そこに控えている呪術師は確かに普通ではない力を持っているようですが、たった二人で何が出来ると?」
 答える言葉もなく再び沈黙したミルファに、ジュールは言葉を和らげた。
「…私個人の意見を言わせて頂ければ、出来ればここでおとなしく守られて欲しいのですがね」
 だが、そんな事はこの皇女は求めてはいないのだ。
 最初から保護ではなく、協力を求めてここまでやって来た位なのだから。
「助力いたしますよ。父も心配はすると思いますが、表立って反対はしないでしょう。…言い出したら聞かない頑固さは、うちの家系ですので」
 そう言って肩を竦めて見せると、ミルファは信じがたいという顔でぽつりと呟く。
「…叔父上……」
「さあ、そろそろ夕餉の時刻です。父も先程十分に話せなかった分、心待ちにしていると思いますよ。…そちらの呪術師── ザルーム殿でしたか。そちらも御一緒に。…来て、頂けますね?」
 あえて有無を言わさない口調で同行を求めると、ミルファはちらりと背後の呪術師に視線を向け── やがて諦めたように頷いた。

+ + +

 それから数月が過ぎる頃には、ミルファは南領に馴染み、コリムやジュール、南の領館に仕える人々も驚く程に、貪欲に勉学に励んでいた。
 その姿はいつしか南領の人々の目に、かつて同じように父の後については様々な事を吸収しようとしていた少女の姿を思い出させ、皇女という身分に関係なく、ミルファは彼等に受け入れられいった。
「本当は、お勉強って好きではなかったんです」
 帝宮で暮らしていた頃にも、必要最小限の学問は修めていたはずだが、一年の逃亡生活でそれに対する価値観が大きく変わったのだとミルファはジュールに語った。
「でも、算術が出来ないと物の価値とか相場は理解出来ないし、文字を知らなければ有益な情報も見逃してしまう。歴史を知らなければ、過去の間違いを繰り返す。…何事にもちゃんと学ぶだけの意味があるのだとわかったんです」
 その頃になると、相変わらず多忙なコリムより同じ時間を過ごす事の多いジュールとミルファの間は、一般的な叔父と姪の関係に近くなっていた。
 流石に公には皇女に対する礼を尽くすが、気がつくとコリムもジュールも私的な会話では敬語を使わなくなっていた。
 良い意味で遠慮がなくなったのだろう。そうなるとミルファも自分から話しかけて来るようになった。
 それを姪・孫ばかを自覚している二人が内心喜んだのは言うまでもない。
 今日も今日とて、朝食後に話があると呼び止められたジュールは、特に深く考えずに話を切り出した。
「それで? 折り入って話があるというのは?」
 対するミルファは至極真面目な顔で、きっぱりと答える。
「── 剣を」
「は? 剣、だって……?」
 言っている事はわかったものの、理解するには時間がかかった。
「剣の使い方を、教えてください」
 その目は真剣そのもので、思いつきや何かで決めた訳ではない事が伝わって来た。
「…必要なのかい?」
 半ば諦めた気持ちで問いかける。何に必要なのか、主語が抜けていても通じると理解している自分が恨めしい。
「自分の身くらい、自分で守れるようになりたいんです。…無理でしょうか」
「……」
 どうしてこの少女は、守られる立場に甘んじる事を良しとしないのか。
「…後で泣き言を言っても知らないよ?」
「覚悟の上です」
 一度これと決めたら簡単には折れない。
 非力で、華奢で、ふとした弾みで簡単に傷付き倒れそうなこの少女は、内に不屈の魂を宿しているのだ。
 今まで彼女を影で守り続けたという呪術師の苦労を想像しながら、彼は苦く笑った。

 そして── 幼いその手は、自らを守る『棘』を手にした。


 野ばら(完)

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